つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

誠実

2010-08-31 | Weblog
誠心誠意努めていれば、
未熟さも
物事の大事には至らず、そこそこ我が身の為になるように計られる。
いつも道理に守られて道は開かれていく。
それこそ身の丈にあったそこそこにではあるが、真心揺るがず持っていれば、
分相応を超えて福が舞い込む。
それでも謹み深く、足るを知ること由として、
分かち合う思いに喜び素直で、いよいよ未知なるものも案じることなし。
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誤解せず

2010-08-30 | Weblog
般若心経は語る。
心をみがきなさい。人生、
心の持ち方だと訓える。
つまらぬ荷物など持たず一切捨てて、心をもちなさい。
みがいた心は何かと身を助ける。
般若心経は、観自在菩薩の啓示であるために、
心経を正しく理解して、行為としていけば
必ず救われるものである。最も簡単な優れた訓えである。
大衆、凡人を救うにはむずかしくてはいけない。
こんな馬鹿な私でも安心を得られるのだから。
最強の守り手である。
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そういうものだったとい有

2010-08-28 | Weblog
何度も繰り返すことで正しいとなって、絶対となっていく。
太陽が東から昇り西に沈んでいく、この狂いの無い繰り返しが絶対となり、
正しいとなっていくために、日が正しいと書いて是という。太陽の運行を示している文字で、狂いの無い円運動となっている。これが法則である。唯一のエネルギーの法則で、すべてがこの法則の下、存在となっている。
これが円運動であるために、切れ目の無いものとなって、終わりも無くはじめも無いものとなって永遠となっている。すなわち、無くなることの無い動きとなっている。
無くなる事が無い為に、生命は、死が無い。生命自体エネルギーであるためである。
くるくると回るこの円運動が変化をもたらし、変化に応じた「別」がつくられている。
光があり、闇があり、昼と夜の別、男と女の別、時間と空間がつくられ、諸行無常となり、それが常住となっている。
変化の無いところには、時間も空間も無い。
常住が法である。無くなることの無いものである為に、なくなってしまったらということを思う必要は無い。
宇宙はエネルギーの法則で作られている。そのために、円運動となっていて、円い。
絶え間なく廻っている。それも高速で動いている。
円い容として有限である。その外側は何も無い。存在しない為に、
思うこともできないものとなる。
けっして、この有限を超えることは無い。

生命がエネルギーであるために、生物は何度も輪廻する。
その生き方もまた、円運動である。
循環、反復
繰り返すことで生きている。
人もまた円を描いて生きている。
行動範囲も円となっているために、行って来ますと言い、
12時を回りましたと時を告げ、呼吸は止まることなく繰り返し、心臓も、血液も
絶えず廻って止まることが無い。特別意識しなくても、無意識に繰り返す。
法が止まることの無い動きとなっている為である。
諸行無常であるために、物体は栄枯盛衰となり、跡形も無くなくなるが、
根本、生命は輪廻転生となって繰り返す。法がなくならないためである。
エネルギーの法則、円運動。これが万物、森羅万象の創造主である。そういう仕組み、システム、
唯一の下の出来事。これを神とは呼ばない。
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絶対

2010-08-27 | Weblog
規則正しく明日も今日と同じく過ぎていく。少しも変わらなく
繰り返し廻るだけ。
昨日と今日は違うのだけれど、まったく同じである。
同じというのは、そういう同じである。
人が死ねば、即この世はあの世となるが、この世もあの世も同じ世界である。
少しも変わらない世界である。
そのために、自分が死んだことすらわからない。
この世に来た時に、この世に来たと認識しないように、あの世ということを認識しない。
それは、生命に死というものがないためである。生命に死がないのは、エネルギーの
法則がなくならないためである。

生命はエネルギーである。水のように形あるものではないが、
円(まる)である。ゼロである。円く絶えず運動している。
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心の健康

2010-08-26 | Weblog
病は気から。心を健康に保てば病気になることもない。
あそこ痛いここ痛いは、生き方の誤りからくる。
事業に成功していても、社会的に認められた人といえど、
病に倒れるのは、その生き方の誤りによるものである。
人の行為はすべて浄化の行為となっている。それは、万物創造の主であるエネルギーの法則が
浄化の法則となっているためである。
そのために、誤った浄化の行為となれば、法則との摩擦となって、害われてしまう。
健康な死とならず、死が恐怖となって苦しみ無念の死となってしまう。
人の死が、生命の本当の生きていく世界の始まりであるために、
浄化されず死んでしまう人の新たな世界は、亦苦しむばかりの世界である。
人の生まれは、再度与えられた人生浄化である。それは、試行錯誤、苦しいものである。
苦しみを与えられて、悟り、正しい浄化の行為となって人生歩めば、
楽しみだけが待っている。生命の目的が達成される。それは、
永遠の世界、天国であり、涅槃である。
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宝の持ち腐れ

2010-08-25 | Weblog
日本人に英語で語りかけてもつたわらない。
日本語がわからない人に日本語で話しかけてもわからない。
それと同じように、お経のわからない人に経を読んでもわからない。
死んで、お経をあげられても成仏なんかできない。
どんなに素晴らしいものであっても、それを理解しないものに効力は及ばない。
豚に真珠である。
宝の持ち腐れ、世の中はそんなものである。
物はあるから見えるのではなく、あっても刺激とならなければ見えてはこない。
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ある日、

2010-08-24 | Weblog
長生きすればするほど苦しくなる日本社会。
長寿はいいことばかりではなく、哀しいことに多く出会う。
そこそこ丈夫なうちに逝きたいものだと、ピンピンコロリを心がける。
心も身体も健康であれば、健康に死ねる。欲という欲を捨て去って、
執着から離れ、思うほど楽をあじわう。
持ち物は布施をして、心と行為も布施をして、何を不安と思うことも無くなった。
何も持たないというのは楽なものだと、ようやく知り始めた。
倹しく慎ましく、規則正しくを心がけて、ある日、ピンピンコロリも見えてきた。
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失敗

2010-08-23 | Weblog
生きるとは金がかかる。
昔はそうでもなかったが、今は便利が当たり前になってきて、
金がかかるようになっている。そのため、金が無くなったら
ある意味、死となる。
うわべの愛も金で買い、生まれた時から便利が当たり前の世の中で、
蛇口をひねれば水が出て、ボタン一つで灯がついて、テレビは自然よりも美しい画を映し出す。寒ければ暖かい風が出て、暑ければ冷たい風を出す。自然を調整して生きている。
そのために、身体の進化は無く、退化に転じている。心も悲弱となった。
自然にあわせて生きていれば、身体に進化は続き、心も愛に満ち、環境に対応した優れた姿となっていくのだが、自然に淘汰されてしまう古い身体のままとなっている。
人は楽を求めて苦を享受する未知を選んだ。
まだ、本物の愛は、金では買えないと思いながらも、地球の悪者となってしまった人間。
省みるのが間に合わず、悔いを残して淘汰される。
もう百年も無い時間。
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刺激

2010-08-22 | Weblog
どんなに美しい景色があっても、
そこに私がいなければ無いのに等しい。
存在とはそんなものなのだろう。
あってもそこにいない、それを知らない、見つけられないでいる自分がいるだけ。
出会えないでいる自分がいるだけ。
そこに行けばどんな夢もかなうというユウトピア、どこにも無い国も
本当はあるのだろう。
ただ、私がそこを知らないだけ、かなえる術を知らないだけ、刺激を受けないだけで、本当はあるのだろう。

遠い遠いはるか彼方、何億光年、何百億光年という世界も事実あるのだが、
時を越えてすでに存在しなくても、時の中に長い長い間姿を見ることができる。
幻であるその時々の今を距離を隔てて。
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鉄人28号でも

2010-08-21 | Weblog
私という肉体は入れ物に過ぎない。操り人形のようなもの。
心が主体であり私である。
心によって私は動く。善くも悪しくも。でも、その意思でさえ絶対ということは無い。
思いどうりにならないものでもある。かたくなな意思でさえ、思いどうりにはいかないものである。
私は善人であると言っても悪人にもなる。
条件によっては、悪にも善にもなりうるものである。自分の心で
善悪別れるものでもないのである。時と場合によって、人の世の絶対は崩れるために、
人の世に絶対は無い。‘自分は’と驕るな。
鉄人28号だって、悪人に渡れば悪を為す。
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