つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

エネルギーの自由

2018-02-28 | Weblog
無くなることのないエネルギー世界。
円運動で作られている。
そのために、宇宙は円の形となっている。
どこが始まりで、どこが終わりかという境がなく、
すべて同一の面である。
ある「瞬間」という「点」で出来ているとしても、理解することは難しい。
丸々瞬間でもあり、特異点でもある。
どこにあるかというのは不確定。
マクロにおいては、これが奇跡と現れる。
ミクロに於いては、常である。
エネルギー、粒子であり波であると現れる。
私の見る位置、心の位置で現れて、どちらも正解で現れる。

宇宙が円いのも、星々が円いのも、シャボンが玉になるのも、
エネルギーが円運動だから。
すべての動くものの軌跡が円を描くのも、
エネルギーの自由。
自由というのは、すべての根本。
存在の根本。心の根本。
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心経の無を正しく理解すること

2018-02-28 | Weblog
心経で説かれている「五蘊皆空」は、
眼耳鼻舌身の五官で受けた刺激の蓄積が記憶となり、
この記憶のエネルギーが人の生命現象となっている。
その人の生命の世界である。この生命の世界の記憶が一つになって、
その人の想念となり、心となっている。人は、その心の判断に付き従い生きていき、
それがすべて空の世界、つまり、その人の死後の世界となっていく。
それが「五蘊皆空」という意味である。
けっして五蘊は皆空であるとしているのではない。
人生経験の記憶がすべて空しいものであると誤った解釈をしていくために、
この世は幻であり、死んだら何もかも無くなってしまう。それでおしまいとして、
努力もへったくれもありゃしない。
他人の迷惑何のその、好き勝手に生きたほうが得ではないかと思ってしまう。

エネルギーの法則は無くなることのない法則である。円運動であるためである。
生命もエネルギーであるために、無くなることなく続いていく。それが道理となっている。
この無くなることのないというエネルギーの法則を正しく理解すれば、心経の説くところの文字を
間違えることなく読み解いていけるものである。


空の世界とは、生命の空白の世界である。どんなに悟ったとしても、
死後の世界を知ることはできなかったために、生命の空白の時間として、空と
説いたのである。
この世の実体がありながら、空しいとするものではないのである。
この世はあの世へと続いているものである。して、あの世もまたこの世となっていくとして、
「色即是空 空即是色」と説いているものである。
他人に迷惑かけて、好き勝手に生きては、裁きは必然受けるものである。あの世とこの世の行き来にである。
それこそ絶対という法則の裁きである。
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この世はシュレディンガーの猫の様

2018-02-27 | Weblog
常識は何を基準としての常識なのかわからない。
わからないために、常識とすることが非常識なこと。
学識豊かな人が先生となり、先生であるために、
先生の言うことは正しいと判断する。
学識があればイコール正しい人という判断の間違いが
諸々の間違いとなる。
わからないことは、間違えていたとしても正すことができない。
人は、経験を正しいとして判断する。
経験できないことは、判断することができない。
想像で判断するだけである。だから、想像が間違えていたとしても、
正すことができない。想像で語られたことが正しいとなっていく。
人は必ず死ぬものである。死ねばその瞬間人ではなくなる。
だから、死は人の経験とならない。
経験とならないことを、あーでもない、こうでもないと語ったところで、
想像の域を出ない。正しいとも誤りとも判断できない。
判断できないことを想像の判断で語ると、たとえ間違っていても正せなくなるのである。
そのために、お釈迦様に死後を訪ねても、決して教えてはくれなかった。



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太陽の神と日の本の人

2018-02-26 | Weblog
日の本の国。
劫の昔、ある知的生命体は、無限にも等しい広大な宇宙からやってきた。
知能優秀でなければ宇宙空間を飛び回ることはできない。
様々にある宇宙物理を理解するには、人知の及ぶところではない。
人類からしてみれば、神と呼ぶに等しい存在である。
人、全知全能というものがどういうものなのか理解できていないために、
未知なる可能性を見せつけるものを神としてしまう。
人類がまだ持つことのできない自由を自在にして神である。
人間の知識はごく僅か。
宇宙が有限であり、無限に続くものであることの自由を理解できない。
人が神として崇める事象は、やがて人にも知ることができるものであるが、
時間というものに縛られているために、なかなか難しい。

この宇宙はエネルギーでできている。たまたま生命を宿し、育むという安定した状態にある。
エネルギーは「動」である。エネルギーの自由にしてある。
その動きが変化となり、変化の刺激によって諸々が生じる。そのために、「受」の世界となっている。
どのように受け取ったどかはそれぞれの自由である。性質というものである。
動きがあるために、時間と空間が生まれ、動きのないところには時間も空間もない。
エネルギーの存在がすべてであるために、無という存在は有にしての無である。
「存在」を理解していれば、矛盾は解決する。
相対していること、相反していること、同等であることの存在。
プラスマイナスゼロが宇宙の姿である。

宇宙の自由なるエネルギーの性質を、正しく或いは、間違って理解するのも自由である。
その自由を、自らの正義として動く生命エネルギー、ただ神である。
善神も悪神も正義である。喜びも苦しみも自らに由るという正義である。
選択の自由はある。
その神が、初めて地上に降り立った処として、日の本。
日出国。神々はこの国から、地上を支配していった。
是を理解している知的生命体、太陽神。
日の本の国の人、太陽の示し申すことを絶対として理解、
56億7千万年後に繋ぐ。





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情けをかけて正解

2018-02-24 | Weblog
様々に税金がある。
収入に占める割合は42%ほどとあった。
昨年よりは0.いくつ下がったようだが、高止まりの数字である。
庶民の暮らしが苦しいはずである。
政治を行っている人達の年収は高い。最低でも数千万。
税金で食べている人達は、様々に優遇されてもいる。
所詮、他人の金、義務を称して集められる金である。
使い方が悪くてもなんのその、権力の下強引に話をすり替える。
自分達の立ち位置は守り抜き、庶民につけを払わせる。
庶民、
あなた方も、最低賃金で働いてみたらどうですか?
痛みが身に染みてわかるはず、いや、すぐさま死んでしまうかも。
偉い人(ずる賢い人)は言う。
あなた方も偉く(ずる賢く)なりなさい、と。

これが資本主義社会。
弱肉強食にある動物という人の一面である。が、
精神生命でもある人には、愛がある。愛情がある。
愛情で生きている。
相哀れみ生きている。
だから、持ちつ持たれつ人という字である。
「情けは人の為ならず、回り巡って自分の為」と理解して、人である。
情けをかけて生きなさい!人間という社会である。
本来、人というもの、生き楽しい人生なのである。
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金持の役割

2018-02-23 | Weblog
裕福な者は施して当たり前である。
当たり前であるために、施さずして奈落となってしまう。
それほど重い立場の意味を持つ。
栄光と挫折が一面にあり、自惚れと驕りは始終付きまとう。
真実は謙虚に紛れて栄光の事象をあてがう。
真実はどれほど献身的にあるものかと誘い図る。
格差はなぜ現れたと思うか?
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2018-02-23 | Weblog
自然は黄金律と白銀律を持つ。
規則的に並べられた数字は、0から9までそれぞれに意味を持ち、
それぞれに役割をもって姿形を作る。が、そこに何かの作為があるということはなく、無造作にある。
数が示す役割は、エネルギーの性質で道理である。
秩序をもって値を示すのみ。互いに関連すれども意味を失うことは無い。だから、すべてが瞬間的である。
無秩序に並べ替えられた数字は、秩序的だから起こる関連性である。
整うのは調うからである。和合からくる調和である。
調整は整然として為される。
エネルギーの法則、その自由が本である。
衆縁和合は美の根本である。
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微笑んで

2018-02-22 | Weblog
ほっこりとして
いつもオレンジ色の温かさにくるまり
穏やかに
にこやかに
たおやかに
こがねいろの日差しを浴びて
時を刻む
仕合わせを生きる。
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観察眼

2018-02-21 | Weblog
私たちは、監視されている社会にある。
コンピューター社会は、統制と統率を可能とし、自由を制御する。
コンピューターシステムは、ありとあらゆるところに張り巡らされて、
人々を監視する。
不要なものと害になるもの、一時利用価値のあるものは泳がせて、
識別する。
決して一色とすることは無く、対比の割合をはからうことで、
感づかれることを回避する。生かさず殺さずは、風見鶏にして
日和見として利とするための必要性である。

正義は善悪を関わりとすることなく、ただ道理の合理にある。

自由を不自由とするのは道理ではない。

従属、つまり隷属、それに付き添ってはならない。

社会は、カメラで監視され、数字で監視され、せつりの目で注視されている。
いつでもどこでも目のマークが私達を観ている。
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存在しているのが答えである。

2018-02-20 | Weblog
日々は、日常を維持しているが、
それは、とりあえずという形をとっているに過ぎない。
確実にというふうに、歪にある社会が出来上がってきている。
隠されることなく現れ出しているのは、もはや、
下々には理解できないところまで来たと判断されたのであろう。
洗脳の技術は、煩悩に付け込んで操作されて、
自由を自業自得として操ることができた。
人類は、絶体絶命と王手をかけられた。

為す術はあるのか?と善神は自問自答した。
そして、
エネルギーの法則の自由にある、善悪のないものであるための絶対性に思いを馳せ、
彼らが作られた意味は法則の自由にあり、その
絶対であるためのエネルギーに他ならないと、
その存在であることを答えとした。

善悪のないための絶対善の自由。
善悪は、人の思いである。善悪を消し去れ!
そうすれば、自由に沿う。
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