道徳=社会生活の秩序を保つために、一人ひとりが守るべき行為の基準。
と辞書にある。
道徳である。
数学だ英語だと、その手の学問には疎くても、人との繋がりはよく学ぶべきである。
よく
道徳を学ぶことである。
その道をよく歩んだ人は徳となる。道の徳と書いてるように。
その恩恵はあらゆる事柄に現れてくる。
損得で考えてはいけない。強いて言うなら
ただ浄化という思いで計らうことである。
自分の心の至らなさを一つひとつ消すためにとして行うのである。
道徳心をもって生きていけば
よく活かされていくものである。たとえその人生つらいものであっても
終にはという風に好ましい状態になる。
それはまた、後世にも活かされてくるのである。
まぁ、この思いは、
人の魂は死ぬことが無いという思いによるものであるが、
死んだら何もかも無くなってしまうという思いの人は、好き勝手に生きたらいい。
ただ、努力が何のためにあるのか、また、
努力したところでかなわなかったとして無駄として捉えてしまいがちであるが、
よくよく日々の回りを見て思う事である。
よく自然の仕種を見て生きることである。
無駄なことは一つも無く、無駄であるとしてしまう自分がいることに気が付きはしないだろうか?
誰かが死んでも、日々の回りは変わらずにやってくる。
死んだ人にはこの世での明日ではないだけで、生きている人には変わらずの明日である。
また死んだ人にも少しも変わることのないあの世での明日という時が流れている。
少しも変わることが無い為に、
この世と同じ現象である。魂の記憶の現象という時の流れの世界である。
自然は、何も語らず何も言わずにあなたの仕種にされるがままだが、
どうだろう、天に向かって唾を吐けば、その唾自分に返ってくるではないか。
それが好ましいのか嫌なものなのか、自分は知るはずである。
さて、天に唾を吐かずとも地に唾を吐いても、吐かれた唾を受けたものは好ましいとするだろうか?
たとえそれが、意思の無い鉱物としていてもどうだろう?
意思の無いと思うのは人の勝手で、
あらゆるものには精が宿る。自分に魂があるように。だから存在しているのだから。
その様に自分を見て他を知り、道徳という事柄を思うべきである。
見えて動くものだけが生命ではない。見えて動かないといっても生きていないとは言えない。
見えなくても無いというものでもない。そういうことを生きていて知るはずである。
仕種というのは、いつの日か役に立ったり、害になったりする。それは、仕種の善悪によるもので報う。
必ずと言う報いである。
それは、その仕種を為した本人がいなくなったとしても、報いは無くならない。
報いもエネルギー、気にほかならないためである。
放たれたエネルギーは浄化されない限り無くならないのである。だから、
必ず報うのが道理である。報いてプラスマイナスゼロとなり浄化となるのである。
道理は絶対。
いつの時代か、幼子を殺めたとしよう。
それをよくごまかして難無く生きられた人生を閉じる。
時が流れて、
またいつの時代か幼子が生まれたが、
その幼子、運悪く死んでしまう。悲運な子として憐れまれたが、
それが、いつの時代か
幼子が殺められた日時、場所まで同じであった。
浄化という道の理を学んで徳となるのである。