つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

貧乏の宝

2014-08-31 | Weblog
貧乏だから助け合って生きる。
貧乏でも分け与えて、
貧乏だが施す。
貧乏ゆえにという価値。
この上ない値打ち。
その心、至宝。
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浄化という道理

2014-08-30 | Weblog
道徳=社会生活の秩序を保つために、一人ひとりが守るべき行為の基準。
と辞書にある。


道徳である。
数学だ英語だと、その手の学問には疎くても、人との繋がりはよく学ぶべきである。

よく
道徳を学ぶことである。

その道をよく歩んだ人は徳となる。道の徳と書いてるように。
その恩恵はあらゆる事柄に現れてくる。
損得で考えてはいけない。強いて言うなら
ただ浄化という思いで計らうことである。
自分の心の至らなさを一つひとつ消すためにとして行うのである。

道徳心をもって生きていけば
よく活かされていくものである。たとえその人生つらいものであっても
終にはという風に好ましい状態になる。
それはまた、後世にも活かされてくるのである。
まぁ、この思いは、
人の魂は死ぬことが無いという思いによるものであるが、
死んだら何もかも無くなってしまうという思いの人は、好き勝手に生きたらいい。
ただ、努力が何のためにあるのか、また、
努力したところでかなわなかったとして無駄として捉えてしまいがちであるが、
よくよく日々の回りを見て思う事である。
よく自然の仕種を見て生きることである。
無駄なことは一つも無く、無駄であるとしてしまう自分がいることに気が付きはしないだろうか?
誰かが死んでも、日々の回りは変わらずにやってくる。
死んだ人にはこの世での明日ではないだけで、生きている人には変わらずの明日である。
また死んだ人にも少しも変わることのないあの世での明日という時が流れている。
少しも変わることが無い為に、
この世と同じ現象である。魂の記憶の現象という時の流れの世界である。

自然は、何も語らず何も言わずにあなたの仕種にされるがままだが、
どうだろう、天に向かって唾を吐けば、その唾自分に返ってくるではないか。
それが好ましいのか嫌なものなのか、自分は知るはずである。
さて、天に唾を吐かずとも地に唾を吐いても、吐かれた唾を受けたものは好ましいとするだろうか?
たとえそれが、意思の無い鉱物としていてもどうだろう?
意思の無いと思うのは人の勝手で、
あらゆるものには精が宿る。自分に魂があるように。だから存在しているのだから。
その様に自分を見て他を知り、道徳という事柄を思うべきである。
見えて動くものだけが生命ではない。見えて動かないといっても生きていないとは言えない。
見えなくても無いというものでもない。そういうことを生きていて知るはずである。
仕種というのは、いつの日か役に立ったり、害になったりする。それは、仕種の善悪によるもので報う。
必ずと言う報いである。
それは、その仕種を為した本人がいなくなったとしても、報いは無くならない。
報いもエネルギー、気にほかならないためである。
放たれたエネルギーは浄化されない限り無くならないのである。だから、
必ず報うのが道理である。報いてプラスマイナスゼロとなり浄化となるのである。
道理は絶対。

いつの時代か、幼子を殺めたとしよう。
それをよくごまかして難無く生きられた人生を閉じる。
時が流れて、
またいつの時代か幼子が生まれたが、
その幼子、運悪く死んでしまう。悲運な子として憐れまれたが、
それが、いつの時代か
幼子が殺められた日時、場所まで同じであった。

浄化という道の理を学んで徳となるのである。



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倫理

2014-08-28 | Weblog
知恵を身につければよく道理に守られる。
不思議なことだがそうなっていく。
だから、よく知恵をつけて物事を見ることだ。
一を知るだけで十まで知れていくのである。
経験ということから生まれた未知への把握である。
その知は誤りのない予見となるために、
実に不思議なことに的を得ていくのである。

誰に左右されることなく善悪を分け、正しく浄化としていくことである。
必ずや
道理がよく守ってくれるものとなる。
不思議なことである。
その方向性はより大きさな量をもって進んでいくのである。

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変成男子

2014-08-26 | Weblog
観音様と呼ばれた仏達は皆男である。
女性のような姿であらわされているが男性である。
釈迦の弟子に女性は一人もいなかったためである。
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生活

2014-08-24 | Weblog
有難いことがある。
生きていくうえで、とても有難いことがある。
蛇口をひねるだけで湯水がふんだんに出ることだ。
トイレが水洗であることだ。
各住まいに風呂があることだ。数え上げればきりがないほど有難いことがある。
上下水が整備されていることはとても有難いことだ。
清潔が保てるのだから、
現代にして当たり前と思えることだが、とても有難いことだ。

ふんだんにして食べ物があることだ。
好き嫌いが言えるほどあることだ。等々・・・
・・・
有難い有難い。

贅沢にして清貧を考える。
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西国十万億土

2014-08-24 | Weblog
人には特殊な能力を持った人がいる。
例えば、サブァン症候群など、知覚障害がありながら
神格的能力を発揮する人。
同じ人間でありながら、普通の人の能力をはるかに超えて、
不可能を可能として物事をこなすことができる。
人間の脳は天才と呼ばれる人でもわずか一割ほどの能力しか使われていないという。
もし100%使う事が出来たとしたらまさに神様である。全知全能というものだろうかと思えたりもする。

さて、私達よりもはるかに遙かに優れて存在する者がいるとするなら、
時間も空間も越えていて、
一は一として、そのままにしてあることを知るのだろう。
何やらそう思う。

この宇宙、人知を超えた広さを持っていて、いまだ広がっているという。
地球の大きさは太陽に比べたら砂粒のようなもの。その太陽でさえ砂粒のように小さく見え、
はたまた存在しないほどの大きさにになってしまうほどの大きな星まで存在する。
それもたくさんである。それを内包している宇宙は無限とも思えるのだが、有限としてある。
とても人の知識では想像すらできないのだが、凡そこうであると
人はその知識に於いて知ることができる。
それもまた凡人には素晴らしいの一言に尽きるである。
それを調べられる能力のある人がいるのであるから。
そういう優れた人でさえ、
その脳の能力は僅かしか使われていないというのであるから驚きである。
もし、脳の能力を余すことなく使えたなら、桁外れに遠い宇宙の姿の隅々まで、
瞬時に訪ねることができるのだろう。私たちの心に空間と時間を持たないように、
自由自在が叶うのだろう。それもそれほど難しいこととしてではなくとして・・・。

微細なものは大きなものを内包していて、大きなものは微細なものに影響される。

無から有は生まれることは無く、有していて何も無いようである。

時空を離れて心が優れたなら、その能力100%となる。
極楽浄土に達する。


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悪いことをしてはいけない理由

2014-08-22 | Weblog
なぜ悪いことをしてはいけないのか?
自分に返ってくるためである。

因に果というのは報いに応じてなっている。

縁りて成るのである。

さて、
一日が終わり明日という日がやってくる。
明日という日が来ないという今日はない。
昨日と今日は違う一日ではあるが同じ様な一日である。
これが自然である。毎日、つまり、日毎というのは同じことの繰り返しで成っているのである。
そのために、同じことを繰り返すことが善となっていく。だから、
善悪というのはこれと言ってないという事になる。

一日が次の一日に繋がるように、そして、新たという一日となって繰り返している。
それが浄化という事である。何もかもが一旦浄化されるのである。つまりは元に戻り一からまた始まるのである。
これが法則であり世の常である。良いも悪いもなくただ一旦ゼロになるために、すべてが浄化となっているのである。
だから、自然というのは整然となり美しのである。浄化された姿である為に美しいのである。

人が何もしなくても、山は山として、川は川として綺麗に別れ、海は海、空は空、それぞれが絡んで美しさを醸し出す。
あらゆるものが絡みながら整然として美しいのである。これが法であり是というものである。浄化というものである。
そしてこれが繋がっていくために途切れることが無く永遠となっている。
どんなに長い時も、永遠という前には敵わない。
永遠である為に、生命もまた永遠である。浄化という変化をして永遠に繋がっていくのである。
それが進化という変化なのか退化という変化なのか、各々の浄化に依っている。

他に自分の自由を侵されて、つまり、自由を脅かされて不自由をする思いが快いことなのかどうかが分かるはずである。
それがわかるなら、他に於いても同じである。
整然であることが法である。決まって同じという事である。そのために、毎日が寸分違わず訪れては去っていく。
この繰り返しが浄化であり法である。だから、日の回りが正しくて法となっているのである。この法則が自然というものである。
この自然を見て覚ことである。この自然によって生命は作られているために生命も永遠となっているのである。
ただ浄化されて一旦という区切りをもって繋がっているという事である。
死んでしまえば何もなくなるという事ではないことが分かってくる。
縁りて成っているのである。そのために、縁起の法則でもある。
今の自分の行為が縁となって次に繋がっているという事が知れてくる。
「なぜこんな目」にというのも、永遠にしてあるいつかの自分の行為の報いである。
縁起の法であることを知って、そう知れてくるはずである。だから、
悪いことをして生きてはいけないという事が自然に分かってくる。これが本能で知れてくるのである。
自然が浄化の法であるためで、自然によって生命が生まれたものである為である。
そのために、
正しい浄化になっていなければ善悪顚倒となってしまって、それが正しいとなって繰り返されていく。
悪が善となっている世界となるのである。いわゆる地獄という形相である。
人を欺き騙して自分の欲を満たす生き方が良いのか悪いのか自然を見て覚ことである。
自然は常に訓えている。日々の繰り返しというありのままを見せつけているではないか。
嫌と言うほど見せつけているではないか。
この道理を性善とする本能をもって知ることである。
わざと企んで自分に好い思いを呼び寄せても、それは好い思いにはならない。
一時、その企みによって好い思いをしても、それこそ一時である。瞬時という思いに置き換えられるほど瞬く間の思いである。
その後の思いは、
報いの思いとなる。悪いことをしたら悪いことしか起こらない報い。その報いの思いは長い長い時の思いであり、
苦しみの一言に尽きる思いである。
自分の為した行為というのは現実であるために、その事実は消えることが無い。
自分の心、思いにしっかりと刻まれている。どんなに他を欺いても自分の心は知っている。
自分の心にしっかりと刻まれているのである。その刻みの傷、凸凹は償いによってのみ平坦となるもので、
償われない限り消えることが無い。その事に気が付いて償う事によって少しづつ消されていくが、
それは、長い長い時を要する。一瞬に置き換えられた一時の悪事による好い思いが、気の遠くなるほどの
長い時を要し、してまた、苦しいの一言に尽きるのである。
それでも、悪事を働きたいですかと
死後の世界を知った仏達は尋ねるのです。

今ある自分が、過去の誰かの生まれ変わりであるという事を
是を見て知ることができるなら、悟りの扉に手をかけている。
その手を大きく広げて悟りの扉を開き、中に入っていくなら、
苦からの解脱となるだろう。
その先は、ただ安住の地が広がっているだけである。

人生というのはただ魂、その生命、心の浄化のためにある。
正しい浄化となっていなければ、永遠に苦しみの世を彷徨うだけである。
この世という地獄とあの世という地獄と、来世という地獄を行き来するだけである。
その世はどこに生まれても一切皆苦という事である。
ただ救われる方法は、地獄に仏という事である。
その仏というのは自分の心の中にいる、というしかない。
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心経の功徳

2014-08-21 | Weblog
生きるということはどういうことか?
死ぬということはどういうことか?
その疑問に応えているのが般若心経である。
「我、汝に説くに、よく名を聞かせ身を現しているではないか。
それ故、嘘ではない。よく聞くがよい」
そう言って観自在菩薩は、
死後の世界より舎利弗の身を借りて現れ、
大衆のために法を語り、
その法を説明していった。

法は是であり、是は真実である。
「色不異空 空不異色 色即是空 空即是色」である。
だから、
死後の世界も真実である。して、魂の真実の世界なのである。
この世は、その魂の真実の世界を作るための世界なのである。

心経は
死後の世界から語られているものであるために、
死後の世界を理解できない人々は、
どのように解釈してよいのかわからなかった。

それは、死が人の経験となることがないためで、
経験とならないことは知識となることがないために、
どんなに説明されても理解できないのである。
そのために、
説かれた事が正しく解釈されることがなく、「無」を「ない」と否定の言葉として訳し、
心経を‘否定の経典’としたのである。
すべてが幻として理解したのである。
今ある現実も本当は幻であり、もともと無いもので、
そのないものに執着するために苦が生まれ、苦しむのであるとして理解し、
実体の否定としてしまったのである。そのために、「無」はすべての否定と捉えて
真実の否定となって理解したのである。

今ここにいる自分というものまで実は幻であるとしてしまったのである。

現実は、
うたかたではあるが、うたかたは幻とは違う。

実体であり真実である。

心経で説かれている「無」の文字を「ない」と訳してしまったために、
すべての否定となって矛盾となってしまい、心経では悟ることができなくなってしまったのである。

文字の意味に縛られることなく、臨機応変にして解釈していけば、心経の真実の意味が解かれていく。
そうすれば、心経が悟りの開ける経典であり、般若心経という題名も理解できていく。
正しく訳しさえすれば、心経は悟りの開ける最強の経典である。
要点だけを簡潔に述べ、大衆の為のとした悟りへの導きなのである。
理解した者は、自然と行為となっていくために、誰に教わることもなくなっていくのである。




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九品九生

2014-08-19 | Weblog
人にはそれぞれ格というものがある。
優劣、優先的という順位が自然にあてられる。
格の違いがあるのである。
格段に優れるというように段位がある。

人格というのは最も大事である。
その人間性は上品という品格の高さ。

善い人に出逢う事は大事である。
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甲斐

2014-08-18 | Weblog
人生八十年生きたとしよう。

何を学んで生きたのでしょう。
この日々の繰り返しに。
答えられますか?

多かれ少なかれ苦しみと喜びを知り、
人生、切ないものだと傾きながら、
振り返って、
過ぎてしまえば皆美しく、
懐かしく愛しく思う。

いまだ腑に落ちずに生きていながら、
愛おしく過去を振り返る。


自然は主観を離れてあるものだから、
そう知って、
世の中は理屈通りには行かないものだ。
だから、
甲斐がある。
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