つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

見て(触れて)覚える

2013-06-30 | Weblog
坊主(僧侶)と言え、いかにも高級な生地の衣をまとい、
弟子を多くはべらして経を読む。
経の意味が理解できて読んでいるのか否か、ただ読誦する。
朗々ひびきわたるのは独特の節回しを持った民謡のよう。
威厳漂うが、金剛力士像のように、ただ怖いというイメージの近寄り難きである。
忌み嫌うものが漂う。それは、断然という階級制意識から受けるものである。

高僧たるもの、格が上がるほど普通をまとい、
威厳を消し去るものである。普通にまぎれてある。
ただ清潔によく整えられたものであるとしての質素を身に着けている。
糞雑衣である。

速さは、
あまりにスピードがあがれば周りを巻き上げるが、さらに凄ければ影響さえ与えることなくたどり着く。
よく切れる刃物はスパッと切れるが、さらなるものは、切れたかどうかもわからずに切る。
本当にこれがすごいものかどうかわからないほど‘普通に返って’ある。

この世では達観すれば落ちていくだけである。
常に精進努力にあって達観することなくにある。

金ぴかの煌びやかな衣をまとった僧、見ただけで下世話なものである。
そのものの説くもの、擬きにあって真にあの世が暗夜である。
そう刺激される。
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知る人ぞ知る

2013-06-29 | Weblog
ただの一人として死を免れる人はいなく、泡沫の如くある人生である。
あまりに儚いものなのに、あれやこれやとどうでもよいことに費やして生きている。
何のために生まれてくるのか、そして
生きるのか、生きているのか、一つとして答えを見いだせないままに一生涯終える。

生は死を絶対条件としてある。つまり、死ぬために生まれ生きるのである。
死ぬために生まれるのであれば、はじめから生まれなければよいではないかと思うが、
そこのところに無知であるために誤ってしまい生まれてしまう。

生まれなければ死も無い。死がなければ恐怖も無い。苦しみも無い。苦がなければ・・・楽。

無知であるために苦である生を受ける。だから、無知をなくすことであると知る。
どうすれ無知を破ることができるのか?

人は死ぬために生まれるのであるから、死後の世界こそ生命の真実の世界であることを理解することである。
生まれてきた以上苦しみを避けて通ることはできないために、その苦しみの中から真実を見つけ出せるのである。
苦しむことが嫌だとする心念が見つけることができるものである。破ることができるものである。
この世の苦しみは、生命の真実を知ることのできる唯一の機会である。
だから、
なぜこんな苦しみに遭うのかということに安易に愚痴らず、そこから見出すしかない。
決して無駄にあるものではない。正しく補われて功を奏していく。正しく見出すことである。
なぜ?と悩め!

人類史上、
人は、性交なしで生まれたとする事例はただの一つも存在しない。
釈迦であれ、キリストであれ同じである。
性行為なしで誕生したとされているのは、性に対して正しい理解がされなく、悪なこととされてしまったためである。
尊ばれるものが悪なる行為から生じてはならなかったためである。

性に対して、正しい理解がされなかったために、淫らな行為、悪なる行為とされたためである。
性交が悪であるとなれば、生まれるものはすべて悪魔の子となってしまう。

人は、愛を持ち、愛するが故に心配、優しく労わり、互いに思いやりいつくしむものである。
いつも一緒にいたい、くっついていたいと思うのである。それは自然で絶対善の行為である。そして、
二人で一人、陰陽一対となって完成された愛の結晶、生命となって誕生してくる。
互いの縁を組んでいる。
だから、自分の子は誰の子よりかわいくて愛しいと思う。

互いを善と認め愛しむ行為、それこそ生命浄化の行為そのものである。それ故
性行為は生命の絶対善の行為である。

性行為がされなければ、人は生まれてこない。
この事実を知って、性交を絶てば縁は絶たれていく。
自分との縁が繋がっていかなくなる。縁が絶たれれば生まれてくることも無くなっていく。

煩悩多き人であるために、異性が目につけば気になり、なかなか心の制御が難しい。
もともといなければ、目に入らなければ気もちらず心も調えられていく。そのために、社会生活を避け、
人里離れて山にこもり、ただただ自然の道理で生きる。見なければ煩わされることも無いとして、精神修行完成を早める。

不倫がいけないのは、先に愛した者が邪魔となってしまうためで、悪となり
悪が心の中に常に入り込むためである。少しでも悪が心の中に宿れば、
すべてが悪魔な現象となって、幸せとなることがなくなるのである。
倫理を外して幸福となることはないのである。
それこそ不法にして道理がないためである。

そんなこんなを生きている間に知り受けて、死後の世界こそ
自分の楽しく生きるための世界であると知り、
転生することのない時間空間のない永遠の世界であると知り、
この世の苦しみの軽減と、あの世の為として精進努力することである。
死後の世界は、心の現象の世界。記憶の世界。夢と同じ現象である。
何の隔たりも無い世界である。だから、正しく思って、
決して悪を抱かないことである。心次第、それも、この世での心次第。
死んでからでは遅すぎる。
生きている今が大事なのはそのためである。
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思いもよらないという悪

2013-06-28 | Weblog
人の思いは円思考とならず、直線思考となっているために、
矛盾だらけとなっている。

自分は正義であり、悪いのは相手であるとして生きている。
動物の愛護を唱えながらも肉料理を好み、ことさら目を細めながら美味しいと喜ぶ。
また食べたいと心底思ってしまう。

自分が動物の命を奪っていることに気が付かない。

きれいごとで人は生きていることはできず、その裏に目を向けていかなければならないのだが、
穢いことは見たくはなく、見ないふりをしてしまう。

正義をうたっても悪は無くならず、その悪は自分を発端にしてあるために、
自分を正さなくして消えることはない。
動物を殺すのは相手であり、悪いのは相手である。自分ではないとして、商売の成り立ちを知らない。

よいとこどりでいる汚い心であるために、悪いのは相手のせいにしてしまう。

人というのは、身勝手なものだとつくづく思う。
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心配り

2013-06-27 | Weblog
よいものをと思ったら
心を込めること。
それだけである。
深遠であるが
それだけである。
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2013-06-26 | Weblog
道理に沿う。
何もかも味方となる。
不平は思わない。
愚痴ることも無い。
不都合となるも大事に至らない。
面倒と思うな、一つ一つこなしていくと、
不思議と時間は待ってくれる。
無理と思えるのも
間に合うということになる。

まことに不思議になる。

道理を教えているのは般若心経である。
よく解することである。よく解することである。
心経は否定の経典ではない。
難解ではない。
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かえってくるから

2013-06-25 | Weblog
すべてが円いかたちでできているのが道理である。
だから、星も円い。時間も円い。空間も円い。生物の行動も円い。
光もまっすぐ進むということはない。すべてが直線的ではなく曲線的である。
まっすぐという意識がなければすべて曲線、円を描く。
内臓も循環という円運動。
一定の周期でもって各運動となっている。
あらゆるものが周っているのである。
同じところを回りながら周る。それは、戻ることでもあり
絶対ゼロとなっている。ゼロというかたちは円い。

かえるのである。

だから、反復することで覚える。
復習することは憶える。
・・・だから、
自業自得、善いことも悪いことも
自分のしたことは自分に返ってくる。
努力が無駄になるということも無い。
円いのが道理であるから、道理は絶対である。

よいことをする、わるいことはしない、というのは、自分自身の為である。
よいことをさせる、わるいことはさせない、というのも同然。
世の為人の為とするのも、自分自身の為とするからである。
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同じを含む

2013-06-24 | Weblog
日々の暮らしに道理を見ている。
毎日同じことを繰り返している。
朝は夜に戻り、夜は朝に戻る。
家を出て家に戻る。
後も先も無い。
「後でね」というのは先の話、未来のこと。
「先はね」というのは過去のこと。
後は未来で前は過去、あべこべにしてあべこべでなく、
楽は苦になり、苦は楽になる。
同義。
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生きていかなければという

2013-06-23 | Weblog
言葉は習うより慣れよである。
この国に生まれればこの国の言葉を話せるようになるのは、
毎日毎日その言葉を聞くためである。聴こうと思って聞いているわけではない。
耳に入ってくるための反応である。まして、自分に向けられて語られれば、否応なく反応を示す。
して、覚えていくことになる。
それは、覚えなければ意志疎通ができないためである。
意思疎通ができなければ生きていけなくなるからである。
子供はそうして意志疎通の言葉を身に着けていく。
本能として生きていくための学習。

外国に行き、そこで暮らさなければいけないとなれば、その国の言葉を話せるようになる。
理解できていく。それは、理解していかなければ、生きていけないほど不都合となるからである。
不都合を回避するのは、生きていかなければという選択肢である。帰るところのない選択肢である。

貧しい中で生きていかなければならない人は、だからと言って不平不満は思わない。
帰れるところがある人だけが不平不満を募らせる。

必要性に迫られると文句は無くなる。
生きなければ、生きていかなければという必要性である。
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2013-06-21 | Weblog
懸命に努力して、事業に成功、この経済社会において、
一応勝ち組として生きられていたとしても、
それこそ、自分の努力で成り立った地位と名に、金の自由が普通に追いかけてきて、
偏に偉いものだと周りから敬われ崇められても、
それが、魂の育成に何ら貢献するというものではない。
努力の賜物によるものであっても否である。
金の扱い方で、
苦楽の別となるのであり、お金の有無には関わらない。

金と灰皿はたまるほど汚くなるというように、たまるというのは
凡そいかなることにもよろしくはない。それは、道理が
片時もとどまることなく動いているものであるから。
流動的であるためで、
たまるのは腐るのである。
「敢えて」ということを知っていて、的確な時期という流動性を為すのであれば、
とどまるというにはあたらない。が、
的確な時期を過ってしまうのがほとんどで、役に立つどころか害してしまう。

‘腐る’と‘発酵’は同じ過程をなしていて、害と益になるのは‘人’を介して分かれるだけで、
人の質によることになる。
‘扱い方が誤れば’である。


道理を見るというのは、その質、流動であるという理解、そして、円の流れ、円運動であるという理解。

すれば、時間が空間が同じところを通る、同じところに戻りながらということを知る。
この道はいつか来た道、いつか見た景色として、自分に返る、自分が帰ることを予められる。
悪い意味で「報い」となるのか、善い意味で「報われる」となるのか、いずれにしても「報いる」のは
どちらにか偏る。
だから、
悪いことはできないものである。善いことはするものである。

好ましいことになるかならないかは、
円を、だから、縁となるものであるからと、
誰に教えられなくとも道理に教えられる。

宿命であるために、その命の道変えられずも、その命、その道をどう運ぶかは自分次第、変えられるということである。
くるくる回る独楽に、一滴色を垂らせば、見る間にその色に染まるように、
独りでに楽をつくるのは自分という孤独にある。誰によるものでもないが、道理を弁えて、
よく徳を積んでいけば、徳は孤ならずと言い、よく周りに助けられ、また、師と崇められもする。
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無理

2013-06-20 | Weblog
・だから、繰り返すことは苦である。
苦であるから、是は苦にある。故に、
この世は一切皆苦。
そこから学び、抜け出して、
ただ
まったりとあるもの。
それが善となるように、
して、それが善であり楽である。
幸福という場である。
でも、それを伝えるのは難しい。
伝わるのは難しい。
でも、気にする人がいて、気に掛ける人がいて、気になる人がいる。
そして、
気になれば気は付く。

訓えればわかる人がいて、訓えられなければわからない人がいる。わかる人でもわからないままでいる。
訓えられなくとも自ずとわかる人がいて、
だから、
わからない人でもわかる人になれる。
訓えられてもわかろうとしない人もいる。なんど訓えても訓えられても。
気にしない人。
無理という。
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