今日もまた、繰り返し繰り返し書いていく。
いままで生きてきた繰り返しの経験が、記憶のエネルギーとなり、現象の世界を作っていく。いままで生きてきたことが、そのまま現象されて、生命の世界‘あの世’となっていく。そのために、この世とあの世は少しもかわることのない世界であるとして「色不異空」と説かれている。死んだあとの生命の世界は現象の世界となり、その現象の世界はそのまま人の生命となって、また人は生まれて、あの世が、この世となっていくとして、「空不異色」と説かれ、輪廻していく。 「色」としているこの世は変わらず、「空」としているあの世も変わることがないと説かれている。
すべてがエネルギーの世界で、「色」とされているこの世界が、「空」とされている死後の世界となっても、何も変わることがないとされているのは、生命はエネルギーで、エネルギーには死が無い為で、自分が死んでも、死んだと言うことも分からず、あの世であることも知ることなく、そのまま生き続けていく。自分が生まれてきたときも、生まれたことを知らないで、生きてきたのと同じである。
生命そのものに死がないためである。そのため、何かあっても、自分だけは死なないと人は思っている。
生まれたことや、死んだことがわからないのは、くるくる回る円の動きの仕組みの絶対世界で、人の考え、思いなどによって変わる世界でなく、心が関与されない動きの世界で、あの世の現象は一切経験とならず、記憶とならないためである。生きてきたときの経験が、記憶のエネルギーとなってすべて現象されていくために、生前の記憶は思い出されなくなって、あの世であることも知ることができない。
仏教が「色」を物としてとらえ、「色はすなわちこれ空なり」と実体を否定しているために、「色即是空」が判断されず、すべての実体が否定されて、死後の世界までも否定している。否定していながら霊の世界であるとして、霊に祈り、供養している。矛盾である。この矛盾に気がつかないでいる。霊が何だか分からない為に怖いもとなり、怖いために祈っていく行為となり、その恐れが信仰となって、祈り続けていかなければならなくなっている。一心に祈ることによって、心の判断がされなくなり、恐れが判断されなくなっていくため、救われていくとされているためである。祈る行為は、ものが正しく判断されないためで、わけが分からない為怖いとなって、畏怖の念がおこり、「助けてっ」となって手をあわせている。祈る行為は動きの止まった行為である。そのため、片時もとまることのない円の動きに反するため、摩擦となっていく。行為がされていかないのに、生命エネルギーは肉体を動かしていくため、肉体内部からの刺激となっていき、その刺激が行為の転換となっていかないために、神経が刺激されつづけて苦となっていく。そのため、祈る行為は悪の行為となっていく。 つづきはまた、
いままで生きてきた繰り返しの経験が、記憶のエネルギーとなり、現象の世界を作っていく。いままで生きてきたことが、そのまま現象されて、生命の世界‘あの世’となっていく。そのために、この世とあの世は少しもかわることのない世界であるとして「色不異空」と説かれている。死んだあとの生命の世界は現象の世界となり、その現象の世界はそのまま人の生命となって、また人は生まれて、あの世が、この世となっていくとして、「空不異色」と説かれ、輪廻していく。 「色」としているこの世は変わらず、「空」としているあの世も変わることがないと説かれている。
すべてがエネルギーの世界で、「色」とされているこの世界が、「空」とされている死後の世界となっても、何も変わることがないとされているのは、生命はエネルギーで、エネルギーには死が無い為で、自分が死んでも、死んだと言うことも分からず、あの世であることも知ることなく、そのまま生き続けていく。自分が生まれてきたときも、生まれたことを知らないで、生きてきたのと同じである。
生命そのものに死がないためである。そのため、何かあっても、自分だけは死なないと人は思っている。
生まれたことや、死んだことがわからないのは、くるくる回る円の動きの仕組みの絶対世界で、人の考え、思いなどによって変わる世界でなく、心が関与されない動きの世界で、あの世の現象は一切経験とならず、記憶とならないためである。生きてきたときの経験が、記憶のエネルギーとなってすべて現象されていくために、生前の記憶は思い出されなくなって、あの世であることも知ることができない。
仏教が「色」を物としてとらえ、「色はすなわちこれ空なり」と実体を否定しているために、「色即是空」が判断されず、すべての実体が否定されて、死後の世界までも否定している。否定していながら霊の世界であるとして、霊に祈り、供養している。矛盾である。この矛盾に気がつかないでいる。霊が何だか分からない為に怖いもとなり、怖いために祈っていく行為となり、その恐れが信仰となって、祈り続けていかなければならなくなっている。一心に祈ることによって、心の判断がされなくなり、恐れが判断されなくなっていくため、救われていくとされているためである。祈る行為は、ものが正しく判断されないためで、わけが分からない為怖いとなって、畏怖の念がおこり、「助けてっ」となって手をあわせている。祈る行為は動きの止まった行為である。そのため、片時もとまることのない円の動きに反するため、摩擦となっていく。行為がされていかないのに、生命エネルギーは肉体を動かしていくため、肉体内部からの刺激となっていき、その刺激が行為の転換となっていかないために、神経が刺激されつづけて苦となっていく。そのため、祈る行為は悪の行為となっていく。 つづきはまた、