つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

円満

2015-06-29 | Weblog
私の前に現れた吝嗇に勤しむおやじ。
私よりも8っつも年上なのに、人付き合いの礼儀も知らない。
もてなされることは好み、もてなすということはしない。
世の中は辻褄があうようになっている。
善があれば悪があり、それゆえ、互いを認識する。
善ばかりということもなく、悪ばかりということもない。
山があれば谷がある。山が高ければ高いなり谷も深くなる。
夏、酷暑であれば冬も極めて寒いもので、対は対峙にあって打ち消し合い、
新たに繋がっていくものとなっている。
喜びだけということもなく、悲しみだけということもない。
それは、生きてきて分かるはず。
どちらかに偏っているとして人生を思うのは、
生き方の辻褄合わせを自らしていないためのこと。
そうすれば、不幸として人生を思ってしまう。

どのような期間を持って打ち消し合いが成されていくかはそれぞれであるが、
必ず打ち消し合うものである。

相応にしてあるのが世の中で、釣り合うために成り立っている。
辻褄は合うようになっているために、
辻褄合わせを自らしなければ、否応なく合わされるものとなる。
好むと好まざるとに於いてなされてしまう。
それは不自由なものとなってしまう。だから、不自由なものとならぬよう、
前もって自ら成して円満に計らわれる。
世の中は円いものだから、かたよらないようになっている。


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思惑はあるのか?

2015-06-28 | Weblog
物理学者は、この世界の現象、宇宙のすべての存在という有り方を数式で表されるはずと思って日々探求している。
確かに、事物は数式の基にその存在を表すことができている。だから、未だわかっていない事、
なぜそうなるのかという創造主の思惑を知ろうと懸命である。神はサイコロ遊びをしないから?と・・・。

ニネヴェ定数という数字がある。ニネヴェという町の遺跡から見つかった
粘土板に書かれてあった億単位の数字である。その数字は、太陽系の星々の公転速度を表していて、
一秒という時間を基準に物事の始まりがあったことを示している。現代科学をもってして検証しても
ぴたりと一致する値である。
仏教でいう
56億7千万年後に弥勒菩薩が現れて衆生救済に当たるという文言があるが、この数字も
ニネヴェ定数で計算すると正確な数字として出てくる。仏陀はこのことを知っていて語っていたと思われる。
世界にある様々な遺跡や古墳、大きな山、神社仏閣は30,60,90,120などの角度をもって緻密に計算された場所に存在していて、
また光の速度、一年の長さなどの数字で表される距離にもあったりする。
ただ単に、乱雑に配置されてあるというものではないということがうかがえるのである。
数字というのは意味を持っていて、互いに害うものではない。
連なり重なり合い打ち消し合うのもはかられてあるものである。

昔あった高度な文明は、確かにその痕跡を残して、現代科学を上回る知識を持っていたようだ。
それはまた、人類が突然にして知識を得たように現れてくるもので、
百一匹目の猿の現象にも似ているが、突然変異にしてもある段階を踏まなくては道理上ありえないものだ。
私たち人間という種は、能力は優れたものをもって誕生していると考えられる。なぜなら、
天才と言われている人達でも、その能力の発揮度は10%程度だというのだから、
90%あるいは100%と発揮されたら、
今の科学の発達状況からしても、目を見張るどころではない素晴らしい発達がなされると思われる。
そのテンポの速さは凄まじいものだろう。

感情表現が豊かで友愛精神に優れていて、他の動物をはるかに凌いでいる。
これもまた、創造主がいるとするなら何かの思惑で、つまり、計算されて創造されているのだろう?
だとすれば、それもまた数式で表されて割り切れる値となるはずである。
が、今のところ、数学でもいまだに解決できていない数式の問題が多くあるように、
一定でないものの根拠というものが解けないでいる。それは、シュレ-ディンガーの猫のように
相反する状態が対称的であり且つ無作為にして同時にあるために、現実としては矛盾となって矛盾を見ることはできない。
数式で言えばどこまでいっても割り切れない値になる。あるいは、ゼロの状態という有になる。
現実にはあるのに数式では無いという値が示されるのである。現実にあるものが無いと表されることは数式の間違い、不備にある。
円周率のようにどこまでも続いていく値となっているのは、法則が円運動となっていて永遠となっているためである。矛盾するものではない。
それが実体である。対称的にしてあるもので、それもまた自由にして確定し現れている。
自ㇻ由ㇽとして現実となる。
だから、誰もこの自由を侵すことはできないのが道理の正義である。
もし、この自由を誤って解釈して、間違った道を歩んでいったとしても、
間違っていると気づかせることはできても、強制的に連れ戻すことはできない。
気づいて自らに由り然りとしなければならないのである。
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着想の奇抜さ

2015-06-27 | Weblog
金融制度が作られたために奴隷となって働く羽目になる。
その様な仕組みがされなければ個々自由でいられたのに、
お山の大将になりたいと思う心の下、差別が生まれていった。
何にしても下品な心の為した仕組みである。
お金で動いているために、無くていい苦しみの奴隷となっている。
単純に皆で、全てをチャラにして、心の使命に沿って生きましょうと言えば、
すぐにも変われるものであるものを。
ある下品な心の操作によって、隷属社会が作られて、苦しみに勤勉にされている。
苦しむことが喜びなんだと、苦あれば楽ありという相対的問題をうまく誤魔化して、仕合わせとさせられている。

もっともっと進んでいった精神社会には、同一種に於いて隷属ということはない。
互いが同じである為に、共存共栄が特になされているのである。
友愛精神が優れているのである。

種というものは様々あり、同一種でありながらも正反対の質を持っていたりする。
それは何よりも自由であるからであるが、
質の円滑さによる格付けの有無にある。
スムーズな流れとそうでない流れのエネルギーの差である。
滞りなく流れるものは、鋭利にして順応性が豊かで、時に円やかで柔らかい。
堅さと柔らかさが共存していて、互いに助け合い補い合う性がある。
そのために様々に対応ができ、臨機応変にして的を射るために、優れたものとしての格付けとなる。
簡単に言えば寄り道をすることが要らないために、必要でないもの(垢)を取り除く手間が要らない。
その分より多く磨かれて、よりはやくより円滑さを持つことになる。そうでないものと更に差がついていくことになる。
だから、優れたものはより優れ、そうでないものはより劣っていくという、道理の相対性が顕著となる。
この釣合ですべてが成り立っていて、そのどちらかへの偏りが中立という日和見的性によって交流となる。
正義は道理によって悪魔であり、悪魔はまた正義でもあるという二面性にして一如となっている。
同じものと言えるのである。
表向きは相対して分かれて現れているが、裏では結託しているともいえるのである。が、
表裏一体も道理にして自由であるために、善悪という別は無い。だから、絶対善の動きとなっているのが道理である。
この動きが廻る動きであり、円運動となっている永遠である。永遠に回るための変化が浄化となって常に綺麗、
つまりは、ゼロ、何も無い、増えもしないし減りもしないという変化しないものとなっている。だから、道理は絶対善の動きである。
善悪のある世界は心の創る世界であり、エネルギーの自由な性質に依るものである。
心が道理を知らず善悪顚倒したものとなっていれば、善が悪であり悪が善となって、絶対悪となって正しいとなってしまう。
地獄が正しいとなってしまうために、地獄であることに気づくこともなく、苦しむことが当たり前で、
苦しみから喜びが作り出されていくと錯覚してしまう。何一つ疑問となることが無くなってしまう。
だから、救いようが無くなってしまう。気づくことが無いのだから。

動いていながら動いていない。有限にして無限を持ち、有でありながら無にして、無から有となって現れている。
これもみな自由というエネルギーに依るもので、フリーエネルギーの性質である。
そのために無尽蔵であり、隈なく満ちている。
捉えられて捉えられない、人知で「わからない」とされるエネルギーである。
しっかり捉えられて、正しく使われれば多大な恩恵に与り、その力により貧乏ということが無くなる。
隷属に縛られることもなく、誰もが自由でいられたのだが、差別を好む性格のものに操られて、
階級制度が作られてしまった。エネルギーの自由による、仏教でいう九品九生の性格を巧みに利用したものである。
感情の少ないもの、歪んだものの企てによる束縛である。

人の心もエネルギーである。そのために、自分で自分を知らないでいる。
私はどこから来てどこへ行くのだろうか、本当は何者、どんな性を背負ってここにいるのだろうかと、わからないことだらけに終始する。
人生ようやく私というものはこういうものであろうとすれども、とどのつまりはわかってはいない。
あの世があるともないとも、この世にいる限り凡そとしか言い切れないのと同じで、では、必ず死んでいく身にして、
この世を去った時、あの世の有無がはっきり解せたとしても、それは一瞬にして思うのみである。なぜなら、
今日が明日に繋がるように零時という時の間にしてすぐに一時となっていく。新たに同じようにして
一日に繋がっていくために、何ら昨日と変わらない思いの一日が始まっていくためである。
しかしながら、昨日は昨日今日は今日、明日は明日と違う一日である。変化無くして変化している一日である。
心も同じである。これが一瞬にして理解したエネルギーの変化、進化である。悟った記憶を浄化として心に刻み、
みがかれて道理(絶対善)に沿うなら、心の格は向上となって優れた魂となって繋がっていく。人格の優れた者(エネルギー)となるのである。
そうして幾多となく人生経験を繰り返し、そのたびごとに心が磨かれて、優れた者、つまり、道理を覚り道理による力を身に付ければ、
神ともなれるのである。それは、天を超えた者、つまり、変化することのない常住の世界、エネルギーの研ぎ澄まされた世界、
まさに心の自由な世界、千億仏清浄な願いが発せられた世界に安住となるのである。

エネルギー、常に変化して、進化とするも退化となるも「自らに由る」もの、自由である。
よくこの自由という道理を解して、気(エネルギー)をつけることである。心(エネルギー)をみがけ!それが気を付けることである。
「気を付けて」何に対しても見て行えば。みる者聴く者として徳となるのである。
なぜなら、自然は道理にして、ありとあらゆる物事を訓え示しているからである。
そのありのままを見て精査する。智慧が一瞬を授かる。


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誘導

2015-06-26 | Weblog
知覚できないようにして知覚表象させる。
気づかれないようにして操作調整が行われる。
だから、何が真実かということが定かに無い。
信じてしまえばその人にはそれが真実となってしまう。

思いは自由である。そのために、何を想おうが勝手である。
隔たりというのが無い為に自由となる。
自らに由るとしている。
幸せでない?幸せになれない?とするのも自由意志である為に、
幸せでなくなる。一旦そう思ってしまえばそれが真実として、
なかなかその中から出られなくなる。
奇想天外が必要である。
思い込まされてしまった心は今を現す。

気づきから現実に変化が起こる。
真逆(まさか)という‘さか’があらわれる。
上るか転げ落ちるか、同じ坂の道。
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気づき

2015-06-23 | Weblog
「気が付くこと」が要である。
気が付くことの無い人は、
どんなことをしても無駄に終わる。

聞く人と聴く人との違いは雲泥の差を生むものとなり、
何事も聴く耳を持つ人は、徳をする。
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±=平坦

2015-06-20 | Weblog
真実というのは、実に荒唐無稽にしてあるものと捉えられて、
だから、誰も信じない。信じようとはしない。
信憑性が無いのは希なるものとしてあるためで、
日常は希にあるものでないためである。
真実は深遠である。平坦にして山あり谷ありであるためである。
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医食同源・足るを知る

2015-06-19 | Weblog
去年の今頃は癌をやっつけてもらい、家に帰ってきたばかりの頃であった。
早いもので復帰してからちょうど一年過ぎたが、いまいち身体はかんばしくない。
現代では流行り病のように癌に侵される人が多い。耳に入ってくる情報には、
今の世の中、二人に一人は癌にかかるという。それほどポピュラーな病である。
流行というものには鈍感なのだが、流行を追うような形で癌に親しまれてしまった。
親しみたくもないと思えど、自分の無知により、身体によろしからず行為をしていたのである。
癌というのは結構過酷に耐えて生きられる細胞であるらしい。冷たさを好み糖分を好み、過剰な刺激でもって反応、
生じてくるようである。
私は、健康の為?風邪などひかないようにと乾布摩擦的ことを好んで行っていた。
寒い中でも薄着であったり、暑がりなので水シャワーなど好んで体を洗っていたものだ。
お陰で風邪などのちょっとした病気には掛からなかったし、大病するという事は皆無に近かった。
そのため、健康には自身があって医者に掛かったことはまずなかった。だから、
健康診断というのも受けてこなかったし受ける必要もないものであった。
そう言う点からして、医療費増大という社会保障問題にはかなり貢献しているのだと自負していたものだ。
それなのに健康保険料というのは随分と高く取られるものだと嘆いていた。
医者に掛からない人はもっとリスク細分型にしてもらえないものかとも思ったものだ。
それほど、病院というのには縁が無かったし、自己管理、特に健康面では自信があったものだ。
それがどうだろう、人生晩年?ともなってきた頃、大腸癌になった。それもかなりの大きさになっていて、
進行型でもあったために直ぐ手術となって、最新医療の腹腔鏡手術という方法を施されて生き返った。
ほんの数十年前ならとっくに死んでいただろうに、医療技術の発達した現代にいて助けられたと思っている。
腹腔鏡手術も問題視されていて、下手な先生?にでも当たっていたら死んでたかもと思ったりもしている。
まぁ、神様が「お前はまだ死ぬべき時ではなく、もっと知らねばならないことがいっぱいあるから精進努力しろ!」と
助けてくれたものであろうと思う。何にしても感謝、感謝に思う。
そこで、やはりまだ死ねないという思いから、いろいろと癌になった経緯を自分なりに思い当たって、
お腹の中には何が良くて何が悪いのか調べてみた。そしたら、食べてはいけないものを多く好んで食べていたようだ。
それは、ポテトフライ、マヨネーズ、ホイップクリーム、コーヒーに入れるミルククリーム、マーガリン、食パン、菓子パン、
インスタントラーメン、甘いもの好き、等等等、食品である以上食べてはいけないというものではないだろうが、
人工的添加物が多く含んで作られているものである為に、あまり良いというものではないらしいということが分かった。
特に近年言われている自然界に無いもの、トランス型脂肪酸である。トランス脂肪酸は自然的には存在していて、
牛などの反芻動物にはあるようだが、自然的にあるものの食品はそれなりに体の中で分解されていくのであるために、
毎日大量に摂らなければ害にはなりにくい。だが、
人工型のトランス型脂肪酸は分解されにくく、そのため、プラスチック食品などと呼ばれているようだ。
長く体内に留まり悪さをする。つまり、刺激し続けるのである。同じトランス脂肪酸であっても、自然のものと人工のものとでは、
構造が違っているために、自然である人の体は対応ができない。
それが、一般的に口にするほとんどの食品に含まれてつくられている。まずもって、ほとんどと言っていいほど入っている。
あの食品この食品、一つ一つは微量である為に害は無いとしてあまり規制はされていないが、ほとんどに入っているために、
毎日大量に食べていることになる。そうすればどうなるか・・・近年の三大疾病はなぜ増えているのだろうか?
これらの添加物食品は当然血液そのものに影響を与える。うつ病、痴呆症など精神疾患にも関係してくる。
これら病もものすごく増えてきている。なぜなのだろうか?

医食同源である。食べてはいけないものを食べているから、あるいは、食べてきたから・と言えるのではないだろうかと、
癌になってみて思った。因みに、もう罹りたくないからもっと調べてみた。
食べたらよくないものは沢山あるが、食品添加物、主に加工油脂、植物油脂、ファットスプレット、ショートニング、マーガリンなどと書かれてある
食品はよろしくない。私はこれらを近年特に多く食べていた。でも、これらを避けていたら食べるものが無くなってしまう。
ではどうするか、食べたらそれに対抗する食品を摂取する事、つまり、釣合である。
あまり食べてはいけないものが2とすれば、対抗するものを1摂取という割合を保つ。少なくとも4対1位に保っていれば
好い様である。それが、5対1,10対1,それ以上となれば釣り合いが取れなくなり、体はうまく処理できなくなる。
当然、病発症となって行く。
それから、
精製されすぎた砂糖や米、乾物魚、遺伝子操作のもの、一代交配種の野菜、それは本来正常ではないという部類であるためである。

対抗する食品はオメガ3と呼ばれる脂肪酸を含むもの。
乳酸菌などの腸内にいる善玉菌とよばれる菌類、
菜食、腹八分・六分、そして足るを知ること、である。
まぁ、癌という病は、一度かかればなかなか厄介で、その後のケアが大事であるが、
いかんせ、「その身ではもう覚れまい」と判断されてしまえばこの世の縁の切れ目である。
私たちは、見えないもの、見えていないもの、というのを意識していなければならないものである。
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感謝の念

2015-06-18 | Weblog
若い頃はいざ知らず、年老いてくればそれなりに覚ってくるものである。
例えば、人付き合いの礼儀というものも智恵をもって知れるもので、
互いに独り身であるなら気心知れた仲、欠点美点もあからさまに言い合うものにして、
気兼ねなく無礼講の様でもいいが、
友に伴侶やら身内のもの、また、その友がいっしょにいれば、
奴(彼、彼女)を立てて手ぶらで訪ねてはならない。
人付き合いの作法というのは相手を敬う事にあり、
何より気遣いである。
その形が気持ちとして現されて、ささやかながら「献」をもって
訪ねるのである。敬うという気持ちが礼儀である。

年老いて尚浅ましくあり吝嗇にあるものは、
貧乏をかさにかけて「してもらう」事ばかりを思い、「させていただく」という事を知らない。
まして、どうしても仕方なくするときも目上目線で「してあげる」という言い方をする。
年寄りの心の貧乏ほど蔑まれるものである。
「貧しき者よ、汝等は幸いである」と山上の垂訓に説かれたのは、幼少期なればこそあてはまるもので、
青年期はさておき、壮年、老年となれば、心の貧乏はあまりにも悲しい存在である。
貧しき者というのは、貧困に苦しんでいるものではなく、教養も無く知識無く信仰も無い為の貧しい心のことであり、
故に、キリストの説いたことが素直に受け入れられ、行為となって行き、天国が作られていくため、
汝等は幸いであると謳われているのである。
たとえまた、実に貧困に苦しんでいるものほど、苦しみ故労わりあうもので、分かち合い助け合うものである。
吝嗇にあるもの年老いて
何を学んで生きてきたのか、甚だ無駄にした人生である。

世の中は、辻褄が合うものであり、片寄って成り立ってはいない。
幸せと不幸せは同等にしてあるために、どちらか一方に偏ってあるはずもなく、
そう思うのは、知らず知らずにして行っている自分の偏った行為によって成っているもので、
辻褄合わせができていないためである。世の中は辻褄が合って成っている。
だから、必ず合わされる。
していただいて生きるものであるために、して差し上げて生きるものでなければならない。
していただいてばかりでして差し上げてこなかった人は、積もり積もって相応以上の苦をもって合わされることになる。
物事は、いっぺんにやろうとしてはうまくなく、常日頃から少し少し積み重ねてがそれほどの苦も無く成就となる。
それは、日常がいっぺんにあるわけでなく常日頃の積み重ねとなっているからである。
辻褄が合わさって円くおさまっているものである。
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外れる

2015-06-17 | Weblog
理路整然としてあるものである。
曖昧もその中にある。
明確とは対峙しているが矛盾は無い。
曖昧という明瞭で解する事。
どっちつかずではあるものの、
相対するものへの自由の時勇の事由。
通念上非常識にある。
これは、永遠にして半分そのまた半分と辿り着くことのない辿りである。
マクロはミクロからできていて、一如である。
そう考えるのも曖昧にしてある。そのための現象となっている。
それは、思い通りにならない思い通りの道理である。
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有無を語る・趣致

2015-06-14 | Weblog
因果応報!
昨日は昨日、今日は今日。
同じ一日には違いないが、違う一日である。
そうして新しい一日が始まっていくが、
新しいと思うのは
また日が昇るってくるためである。
本当は何ら昨日と変わらない一日なのである。
くるくる回って繋がっているに過ぎない。
もし太陽が無かったら一日も何もあったもんじゃない。
回っていたところで闇ばかり、変化の無いものである。
変化の無いところには時間も無く空間も無い。
感じることもない。
全身麻酔を掛けられて眠らされて、何も感じない感じられない状態、
それが無という状態。無と表される状態。
この状態からはずみで生まれるのが有である。
状態はエネルギーである。真円であればあるほど動きが感じられないが、
動いている状態である。
‘はずみ’は感じられた状態、刺激である。
刺激に反応して‘有’となって、対応したものとなって現れてくる。
趣。
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