つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

神秘

2017-06-29 | Weblog
生命は不老不死である。
エネルギーであるために、精力的、活力的、
だから、動的である。
そのために、変化するものであり無常にしてある常住である。
生命は、だから、若い。常にである。

地上にあるもの、一日のように一旦として終始にある。
ただ、にわかにそのままを受け継いで生き延びる個体もある。
生きながら眠り(衰えて)につき、よみがえる仕組みを持つのである。
現象の個体を、
陽炎のようにして脱ぎかえ、若返る。
不死にしてある。
自然は神秘である。
自由であるために。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

理非曲直

2017-06-27 | Weblog
あなたの生活は苦しくはないか?
苦しくなる一方ではないか?
そうではないという人は、格差の中での優位の人達。
その人達は慢にある人達。
格差を好み優位を好む。利己保身にある人達。
やがて、その優位は酷くしっぺ返しをくらうことになる。
悪は悪によって裁かれるものである。
辻褄が合うというのは世の道理である。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

驚愕の始まり

2017-06-26 | Weblog
驚天動地は富士山噴火と同時期にして近隣国
北からの飛翔体、更に、関東沖巨大地震が重なる。
この驚天動地は偶然ということではない。ある思惑から起こる。
5億という数字は、まず神の降り立ちし国より一億が消され、
始まりとなる。
その未曾有にして危機と受し、正義たる智者達は阻止を図る。
神々の凱旋となるも多数の犠牲は伴う。
時を追うこと十年未満にして、八十億が地上よりはじかれる。
5億どころではなく、一旦としての区切りがつけられる。
そして、誰もいなくなった。
宇宙にちりばめられた八十億の生命エネルギーは、
芥子粒のごとく無に等しかった。
やがて、
涙を満々と湛えた青い地球は、
緑豊かな地上に変化する。
時の進化は確かにあって、新たな一日が始まる。


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

驚愕の始まり

2017-06-26 | Weblog
驚天動地は富士山噴火と同時期にして近隣国
北からの飛翔体、更に、関東沖巨大地震が重なる。
この驚天動地は偶然ということではない。ある思惑から起こる。
5億という数字は、まず神の降り立ちし国より一億が消され、
始まりとなる。
その未曾有にして危機と受し、正義たる智者達は阻止を図る。
神々の凱旋となるも多数の犠牲は伴う。
時を追うこと十年未満にして、八十億が地上よりはじかれる。
5億どころではなく、一旦としての区切りがつけられる。
そして、誰もいなくなった。
宇宙にちりばめられた八十億の生命エネルギーは、
芥子粒のごとく無に等しかった。
やがて、
涙を満々と湛えた青い地球は、
緑豊かな地上に変化する。
時の進化は確かにあって、新たな一日が始まる。


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今はまだ・

2017-06-25 | Weblog
宇宙を航行して地球に訪れるには、
とてつもなく優秀でなければできないことである。
高度に発達した知能なくしてはかなわないことである。
物理を知り尽くして、また、様々なストレスに耐えうる未知なる物質が
なければ航行することは無理と思われる。
フリーエネルギーを操れてこそ、はるかなるを自在としている。
その難題を克服して彼らはそれらを手に入れているために、
光の速度を超えて、はたまた時空を超えてはるかかなたより飛来してくるものである。
地球人から見れば、神と呼ばずにはいられない存在である。
しかし、彼らとて全知全能ではない。このエネルギーの法則の下の存在である。
釈迦もキリストもミケランジェロもダビンチも孔子も孫子も老子もアラーも
アポロンもモーゼもゼウスもミロクも空海も等等等、みな地球外知的生命体である。
荒唐無稽として捉えられてこそ彼らの思惑である。
ただ一つ、時の流れが明らめてくれるであろうその進行の度合いによって、
彼らは姿を現すものである。今は、
「時にあらずと声も立てず」となっている。
今はまだ、知ったとしても知識にならず、不思議として
荒唐無稽となることである。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

償い

2017-06-24 | Weblog
報いを持って償われる。
人生、老若にして死を迎えるものそれぞれにあり、
罪深き者として一生を得る。
死にたいと思えども死ねず、また、死すに及ばずと生かされるものあり、
死にたくないと思えども死におびえながらある者あり、
苦しみというのは反省ということを促すが、罪深くして死にたくない者に死を与え、
深く深く償いを与える。
楽あれば苦あり、苦あれば楽ありの時々の在り方に
裏腹を思えば、これ苦を脱して安住にしての死を迎える。
この世は一切皆苦であるために、‘不自由を常と思えば不足なし’である。
病に死すものも、早死にするものも、長くして生きるものも苦たるや
無知にしてがほとんどである。
もうこれ以上この肉体において改善は見られないとあるものに、
死は訪れる。一つに、無理という道の理、一つに、達成という道の理。
その肉体を離れて、無理の理にある者、一切皆苦にしての輪廻を負う。
達成にしての理にある者、向上の理にして天界を得る。すれば、
この世のものに未練を現わすことができる。
「汝、私は見ているし、側によることができると。」菩薩にある者である。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

予めての心構え

2017-06-21 | Weblog
バトル・オブ・ロスアンジェルス
このような映画は、現実になる未来を予測しているものと思われる。
心して拝見するとよい。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

バーチャルリアリティー

2017-06-19 | Weblog
SF映画をもってして
未来の出来事を予め教える。
天変地異なる現象、未知なる出遭い、
仮想空間のようにして、パニック障害の軽減を図る。
まさかの坂はあるもので、今は気づかずにして上っている状態、
じきに下り始める。それは瞬く間に転がり落ちるものである。
映画に見る地獄絵は現実でもある。
過ぎたるは猶及ばざるが如しは人間の業にある。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

なぜ生きる?は・・・

2017-06-18 | Weblog
権力の座にあるものが悪事を為す。
正義の隠れ蓑をつかうためになかなか手ごわい。
こういうものが巨悪である。
人間社会では偽善にして噓八百が通ったとしても、
死を免れる人間はいない。たかだか八十年ほどの人生の終を
むかえるとき、言いしれない恐怖が襲い掛かる。
これから終わりのない死後の世界が訪れるのであるから。
死後の世界は時間を持たない世界である。
人生八十年など一秒にも満たない時の流れである。
永遠ともいえる死後の世界で、人生八十年の報いを受けていく。
悪業に対しては、それこそ苦の一字にある。
善業に対しては、楽の一字にある。
この死後の世界が生命の真実の世界であり、
絶対世界となるるために、死後の世界のために
一生涯があるのである。
なぜ生きる?は死後の世界を幸せにするためで、
死後の世界こそが生命の本当の世界なのである。
それを知らないで、死んだら何もかも終わりとして生きるために、
間違った人生を歩むのである。
人を騙し、蹴とばし、誰よりも偉くなりたいとして、そのためには
手段を択ばず悪事も厭わないでする。
現世がよければ何でもありとして生きる。
なぜ努力があるのか、苦があるのか、楽があるのか、死後の世界を理解できないために、
答えが見いだせないのである。
生命がこの世限りであるなら、努力なんていらないし、悪事を働いてよい思いをしたほうがよいではないか。
この世が、悪いことは為しやすく、良いことが為し難いのはなぜであるかをよく考えることである。
生命は連綿である。死後の世界こそ、生命の真実の世界であるために、
その真実の世界を幸せとするために人生があるのである。
だから、人は、生命は、死ぬために生まれるのであるといえる。
生命に死がないのは、エネルギーの法則が終わりのない法則となっているためである。
一日が一旦という区切りをもって明日につながっていることは紛れもない事実であり、現実である。
明日が来なかったという日はなかったように、そして、これからもないように、
エネルギーの法則というのは、なくなることのない法則となっているのである。
なぜなら円運動であるためで、だから、世の形は円くなっているではないか。
それがトーラス状といい、環状体状エネルギーであるためである。
その質が自由からきている。だから、すべてが巡っていて無常となり、
元に戻りながらとして維持されているのである。
よって、減りもしないし増えもしない。何も変わらないのである。
だから、永遠といい時間も空間もなく常住なのである。
これがエネルギーの法則であり、自由からなっている。
すべてがこの自由の下の存在である。
神も仏もこの自由の下の存在であるために、全知全能ではない。
ただ回る。だから、絶対となり善悪もない。
よって、絶対善として存在となっている自由である。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自・由、然、業、得

2017-06-17 | Weblog
天空より現れしもの、その高度な知的生物たちは、
人類などに興味はない。
ただ彼らにもさまざまな種がいるために、
人間より優れた知識を持ってはいるが、
宇宙からの来訪者の中では低レベルにある者もいる。
来訪者の中でもスーパーゴッドなる生命体がいて、彼らは地上に降りてくることなく、
地上の管理監視ができる。侵略しようとする意図をもって来訪する者たちから、
ある程度守護しているのは、彼らの仲間もこの地上に住んでいるためである。
未知との遭遇というのは、それらがどんな能力があり、どんな意図を持っているのか
わからないために、それぞれが牽制しあい知識を得ようとする。
生物である以上、敵としてみなせば、害が及ばないように排除しようとするものである。
まだ人類が地上に誕生する以前に、知的生物たち同士との争いがあり
核エネルギーが何度か使われた経緯がある。どうしてそんな過去のことが
知りえるのかといえば、スーパーゴッドが教えてくれるためである。
それは、エネルギーの法則なる自由の周波によっての同調である。つまり、
縁起という言葉になる。
啓示という言葉も縁起からくるもので、同調することによってつながることができていく。
その方便が、知恵ということになる。
時間と空間に支配された世界であれば、時間と空間がない世界を理解することはなかなか難しい。
が、魂、いわゆる精神、心というものはエネルギーであり時間と空間の概念がない。
概念を持つのは自由があるためで、その自由をどう捉えるかが性質であり性格である。
エネルギーはゼロを自由としている。それぞれの捉え方、自由によって現れるのである。
この自由がすべての支配である。そのために、いかなるものも、
不自由として他に与えることはできない。もし不自由として他を縛り付けるならば、
不自由を強いたものが不自由となるのである。
スーパーゴッドなる生命は、この自由を熟知して、だから、訓じ導くだけで、
強制的にということはしない。自業自得が自由からくるものであるために。

「求めよ、さらば与えられん。」この意味を思慮して、
深遠を解かねばならない。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする