つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

2014-10-30 | Weblog
生命は法則の自由によって作られている。
神仏もその自由の内である。超えて存在とならないためである。

日の廻りが法則であるために是といい、
その変化が昼夜を作り、昼夜の別が男女の別となっている。
廻る変化によって昼夜一対となり同化、男女の縁となっている。
この縁が男女の結合、生殖行為となっている。ゆえに、絶対行為となり、
善の行為となっている。そのために、
互いを美化して愛の行為となっている。
それが性行為である。
それゆえ、性行為は生命の絶対善の行為となって、
男女は愛し合う。その行為が生命の自由であるために、
何ものにも侵されることのないものとなっている。
結婚して夫婦となるのは、二人だけの性行為を絶対善としていくためである。
そのために、誰にも邪魔されることのない行為となっている。
性行為が善の行為であるために、生まれてくる子供は絶対善となっている。
そのために、わが子はかわいいとなる。
絶対善であるために、浄化され、悪のない存在となるためである。
そのようにして、家族が善の存在となり、家族のためとした行為となっていくのである。
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常住不滅

2014-10-29 | Weblog
是が宇宙の法則である。
エネルギーの円運動であるために、
ゼロが接点となり、始まりが終わりであり、終わりが始まりとなっている。
そのために、無くなることのない運動となり、絶対となっている。
この運動が法則の自由であるために、何ものにも侵されることのない絶対世界となっている。
生命は法則によって作られている。
神でも仏でもない。もし神や仏が創造したとするなら、
その神仏は誰に作られたのであろうかという
疑問が尽きなくなる。
限りがない、行き着くということがなくなる。
それは、法則の説くところの安住という不変とは違う。
法則の不変とは、普遍にしてあるもので、
法則の自由である。
それは法則が唯一であり、この上ないものであるためである。
して、必ず行き着くものである。
行住坐臥にして日常といい、その行為が八正道にして辿り着くものである。
そこが常住という法則の絶対世界である。
極楽浄土という処である。
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とある智慧で思う

2014-10-28 | Weblog
仏教の祖、釈迦にしても
キリスト教の祖、キリストにしても、
その誕生は荒唐無稽なものである。
当時にして、男女の性交なくして、
受胎するということはなかった。
処女懐妊というのは道理上ありえないものである。
しかしながら、彼らの誕生は性交のない誕生である。
であるなら、それは、
つまり、その受精は授精という人工的受精。
意図的に創られし者ということになる。
人工的というのは、優れた知能を有していた者、いわゆる知的生命体ということになる。

現在の人間の科学において、ようやくクローンという技術がある。
遺伝子操作により神がかりなことができるのである。
まだ確実な術はなされていないにしても、可能な技術である。とすれば、
人間よりも、千年も万年も進んだ技術を持つ生命があるとするなら、それはいとも簡単であろう。
まして、
高等な知恵なくして、宇宙を飛び回ることはできないものであるのに、
大空には、人の知らない知恵ある船が数多く飛び回る。ずいぶん昔からといわれる。
それは、見える人と、見えない人と、見る人と見ない人がいるのであるが、
人の知恵で、荒唐無稽と思われることができる知的生命は、確かにいるのである。

人もまた、他の星から見れば宇宙人であるのだから。
地球だけに生命が宿るというのは、「井の中の蛙・・・」であろう。
どうか、そのあとに我ら人種が付けたであろう「…されど空の青さを知る」とする、
一つのところにいるが故の深遠なる智恵でもって見ることである。
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「皆同じ」から成る

2014-10-27 | Weblog
宗教は共通の理念を持つ。
それは、
助けあいという‘あい’。
‘愛’である。
それ故、ひとつである。

私はあなたを、あなたは私を、
一人は皆のために、皆は一人のために、とする。
互いに持ちつ持たれつである。

ウ冠に示すと書いている。
天地四方が示し教える物事である。
つまり、真理は一つであるために、
宗教は一つである。

わが神が云々とするのも、一つに帰すものである。
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世の中の仕組み

2014-10-26 | Weblog
是がすべての存在の仕組みである。
そのために、その存在で作られている私たち生物は、
無常にして根本は常住である。
有限の中の不増不減である。して、不垢不浄である。
それは、きれいも汚いもない、つまり、良いとか悪いとかの感情の無いものである。
感情に動かされることの無い世界である。それが法則の世界である。絶対世界である。

存在は是というエネルギーの法則でできている。それが、円運動であるために、
無くなることのない動きとなって、常住存在となっている。その理由は自由である。

その自由が唯一であるために、無上甚深微妙法として説かれている。

そのエネルギーの法則がなくなることのない存在となっているために、
宇宙は無くなることがなく、生命も無くなることはない。だから、すべてが円運動となって
無常、変化して元に戻ってくる。繰り返すのである。

無常であるために進化があり退化がある。
円運動の刺激によって、エネルギーが対応した変化となるのである。
様々な刺激に対応した存在となっていくのである。
それは無常であるために消滅(生滅)となって繋がっていく。
いったん元に戻るために、すべてが浄化となっている。それが、善悪の無いということである。
ゼロに帰すのである。ゼロは円である。その中のすべての物語。
それを言葉に表して、「中がうつろで膨らんでいる」という世界。
宇宙というのはそういうものである。エネルギーの存在である。

善悪が無い為に絶対善として浄化の法となっているのである。
そのために、人生、正しい浄化として生きていかなければ、法則の自由に合わず、
摩擦となって苦しむ生命となってしまう。
たとえて、
悪いことを善いことだと勘違いして繰り返して行えば、
それが正しいとなって、善悪転倒となってしまう。
すると、悪が善であり、善が悪となってしまうという浄化となる。すべからく‘悪だらけ’となるのである。
その世界を地獄と言い表す。それが正しいとなってしまうのである。それが法則の仕組み、自由である。
だから、客観である自然(法)を見て、自然に沿い生きなければならないのである。
この世の中は法の自由により、何でもある。不自由と思えば不自由、自由とすれば自由。
さて、どちらを選んで生きていくかは自分次第である。

置かれた立場(生まれた環境)は、不自由にして自由である。
それは、受として、受けた刺激に対しての反応、つまり、自業自得による。
この世はすべて受ける刺激によって現れた世界である。
そのため、受想行識の世界となっているものである。いかにして自分が対応したかによってである。

ここに一つ先人の訓えを示す。
「己こそ、己のよるべ(頼るべ)、己をおきて、誰によるべぞ。」

どんなに超人と呼ばれる人でも、誰一人として助けることはできない。

救いを求める者が、自ら気が付いて、行動するのみである。
傍はただ気づきを与えられるだけである。

生命(魂)というのは、この世においてのみみがいていけるものである。
あの世に逝ってからではどうすることもできない。
輪廻するまで、どれほどの長い間、自業自得を受けるのか、悪事に染まって生きるとは、
思ってみただけでも恐ろしいことである。
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全知全能という法則

2014-10-25 | Weblog
般若心経は訓える。
エネルギーの法則が是である。
是は円運動となっている。それは、
法則の自由である。
その自由がすべての存在の元である。
宇宙の法則となっている。
宇宙は人知計り知れない広さを持っているが、無限ではなく有限である。
そして、それは減りもしないし増えもしないもので、変化のないものであるが、
常に揺れ動いている。
それがあたかも増減しているかのように感じられるが、
常に一定に保たれている。
それは、円運動となっているためである。どういうことかといえば、
わかりやすく、元に戻るという仕組みであるためである。言い換えれば、
閉じられている世界である。
その仕組みが自由というものである。
ゆえに形は円くなっている。その外側は、あえて言うなら無である。
無であるために法の存在とならず、私たちの考えるに及ばないことである。
つまり、考えても仕方のないことであり、また、考えることのできないことということになる。
調べても調べつくすことができないということである。
だから、無という概念は思考から外して、法則の存在ゆえの事柄のみ精査していくものである。
それが進化という過程であり、変化のない常住という場にたどり着くことである。
もしその場にたどり着けば、永遠不滅の自由、法則の自由そのものであるために、
安楽この上ないものである。

人は肉体を持つ以上、時間と空間に縛られていて、この宇宙の端から端を見ることさへできない。
つまり、たどり着くことはできない、知ることもできないものであるが、
心の存在という本来のエネルギーの姿に戻れば、
瞬時、宇宙の端から端まで行き来できるというか、知るというか、エネルギーそのものの自由に帰しているために、
端であり中央であるという、常に隈無く、満遍であるとなる。

是=太陽の運行を絶対正しいとしている一事が万事。
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自由

2014-10-24 | Weblog
人間よりもはるかに進んだ頭脳の持ち主を、
神と呼んで崇めたが、
その神は誰に作られたのか?
そう考えれば堂々巡り、答えが出ない。

自由というのは深遠である。
考えれば考えるほど。
日常のありのままに答えは見える。
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失敗の分かれ道

2014-10-23 | Weblog
失敗という漢字をみて、
敗れて失うと書いている。

何かに負けて、何もかも失ってしまうととらえる人と、
失敗は成功の基というように、
敗れることを失うとして、
もう負けることはないととらえる人といる。

確かに、正反対。
価値あるものとするもしないも、思い違いによって分け隔てられる。

「勝つことばかり知りて、負けること知らざれば、害その身に至る」と先人は訓える。

さて、
一つに、
大きく飛び跳ねるには、小さく小さく縮んで縮んでこそ大きく大きく飛び跳ねれる。
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知的生物

2014-10-20 | Weblog
たとえば、
知能が高くあればいろいろなものを創造し、
生活を豊かにしようとする。
探求心が生まれてくるものである。
何か物を作ることによって望みが叶えられていくことを知る。
間接的なものに委ねることは、自分にできない直接的なものを可能とするための手段、
そのための知恵を絞り、その建設に努力を払う。
試行錯誤の故、叶っていく。
知的生物、それは人間も類であるが、まだ駆け出しであるに当てはまる。
にしても、コンピュウターというものを創造してからは、その進歩の度合いがすさまじくある。
3Ⅾプリンタなるもので立体物を作り上げることができるようになってきた。
つい百四五十年前までは刀を振り回していた野蛮な時代である。その頃の人達、
科学の進歩の恩恵という今の時代を想像できたであろうか。
居ながらにして、瞬時に互いの声や姿を確認できる機器をもって交流ができるなんて・・・。
そういうことを踏まえて、
もし、この時代にして、千年万年もの進化した時の流れにある者がいたとするなら、
想像だにして不思議を多分に持っているだろう。我々からは計り知れない智慧と見るだろう。
そういう者達を神と呼ぶに違いない。

人が人をコピー、或は、他の生物をコピーして社会を創造しようとする。・・・
・・・・
私たちが宇宙の一員であるように、
他にも同じような者達がいると見てとれる。
そしてまた、遙かに進んだ時代を生きているとするなら、神がかりとする術を得ていても不思議ではない。
私たちが動物を集めてサファリパークを作り、観覧、或は観察、或は監視して、
その生態を知らべ、また、交流するように、遙かに知能高くあらば、その場を星々に見立てることもできる。

様々にして餌を与え、また毒を与え、その振る舞いを見て考える。

それらが善の神々でありますようにと思うばかりである。

子供がアリの巣を掻きまわすように、邪見は無きにしろ面白半分という観察は、
アリにとってはいただけないものである。

そのように、過程にあるという者は、
いたずらにも観察をするものである。



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真実は一つ、創られし者達

2014-10-19 | Weblog
真実というのは一つであるが故に真実なのであって、
二つ三つはたまた四つとあるのではない。
もしもその様にいくつもあるのであれば、無数にあることになり真実とは言わない。
唯一という世界の変化の過程の現れである為に、いくつもあるように思ってしまう。
一はつね常に一で二になることはない。
一が常に一である為に、二が何の妨げも無くその意味を持つのである。
それは、三も四も、そうして繋がっていく数も同じである。
二は二としてあり、三は三として存在となっているのである。
それは文字も同じである。後ろの文字が前の文字を妨げることが無い為に、言葉(文章)となって伝わっていくのである。

宗教というのも真実を述べている。
ありのままに見ているつもりであるが、ありのままに見えてはいない。
虚実をもって現れたりしているために、虚実を真実だと見てしまう。
自由というのは、それこそ何でもあるということが言えるが、不自由というのと一如である。
そういうものであったという自由なのであるから。それが「仕組み」である。

一如であるために、
説くものがどう想いどう説いたかでいろいろに分かれてしまう。
そのため、あたかも様々となる。

真実に辿り着くには一つの道である。真実が一つであるためである。

同じものを見、同じく聞いても十人十色という様になる。
そこで、自分自身が確かめて初めて色の違いを見極めれる。
私はこう思うとしてその同調色に沿えば良い。
それが真実である。
真実には変化は無い。

もし、自分が変化をもってまた生まれてくる(輪廻の内にある)のであれば、それは真実に辿り着いていないことになる。
そして、生まれてきた時、誰も自分は生まれ変わりだとは知らないし思わない。そのために、
人生に於いて、
覚って初めてわかる人となる。そうなれば、どうすればよいのか術が分かり、輪廻より離れられる。
安穏という変化の無い世界の住人となる。極楽浄土という。
その反対が地獄という。無知にある世界である。

魂は死なないのである。唯一という真実が無くならないためである。
その真実がエネルギーであり、エネルギーの円運動となっているためである。
それを法則と言い是という。
日が正しいとして、太陽の回りが絶対であることを指し示している文字である。
これが真実である。宇宙の法則である。エネルギーという自由の法則である。
して、絶対という法則となっている。
魂の生まれてくる目的は、真実の自由を求めるためである。そのために、
人はなぜ生まれるか、死ぬためである。死後の世界こそが、魂というエネルギーの絶対世界であるためである。
死後の世界を快楽の世界とするために、人生を歩むものである。肉体をもってしてのみ
魂の向上ははかれないのであるから。だから、努力があり無駄に生きるなと諭される。
宿命と運命は、それこそ自業自得なのである。
えてして無知にあれば不自由となってしまう。
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