つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

当たりの前

2018-11-16 | Weblog
この世の中は、経済によって縛られている不自由な社会である。
本来、経済は経国済民のことであり、人民の生活苦を救うためにある。
なのに、ほとんどは経済的に苦しんで不幸せに暮らしている。
お金がないばかりに、なにもできないでいることのなんと多いことか。
はっきり言って、お金はすべてではないのだけれども、金さえあれば笑顔は見られる。
お金がないばっかりに、助けてあげられない事のなんと多いことか。しなくてもよい苦労のなんと多いことか。
して、
世の中は、お金に縛られた奴隷社会となっている。
すべての隷属は苦にして、その根源はお金。束縛されて生きている。
奴隷社会は言うまでもなくピラミッド型である。それは格差肯定にして、
一部の悪徳者の築き上げた構図。隅々までその構図はいきわたり、
当たり前となって、誰一人疑うことのない正義の構図となっている。
人類の歴史は、この悪魔によって築かれてきて、そのために地獄絵図が繰り広げられてきた。
弱肉強食、合ったら最後、いがみ合い、紛争、戦争、殺戮の歴史は今でも続く。
殺人はいけないことであるが、戦争で多くを殺せば英雄となった。

矛盾を人間は解決できないでいる。

さて、エネルギーの法則は円運動である。そのために、形は円い。角などない。
これが自由の原形であり本来の姿形である。凹凸がないのが自由の正義である。
然るに、必然正される。それがこの世紀中、地上の変化の周期にあたる。
自然は矛盾をいつまでも放ってはおかない。





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情熱があれば

2018-11-14 | Weblog
人の心は見えないものだが、
情熱は見える。
情熱がなければ心は伝わらない。
情けをもってあたれば心は見えてくる。
何事も成就する。
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感謝をもって人生とする

2018-11-10 | Weblog
こんなに科学が発達した現代でも、宇宙には地球人しかいないと思っている人達がいる。
井の中の蛙みたいな心の人達がいるものである。
宇宙は人知及ばぬほど広くて謎めいているが、微なるものから大なるものを知ることができるようにできていて、
当然、大なるものから微なるものを知ることもできるようにできている。
それは、自由が宇宙のエネルギーそのものであるから。
なぜそうなのか?という疑問の答えは自由からきている。この自由という意味を、
理解できなくては謎を解くことはできない。

エネルギーは動きである。動きがあるために静が生じるが、この静は動にあることを理解できるなら、
有無の答えも必然に知れてくる。自由が為す術には矛盾などない。

動=エネルギー=自由意思。この自由から分かれてあるエネルギーだから自分。
自分は何も知らないから、当然、自由であるエネルギー自体も何も知らない。
知らないから、動きによって様々を得る。その経験が識るのはゼロに由る。
ゼロが自由の元処である。綺麗も汚いもない。何もない。だから、綺麗に動いている。
これが道理である。
ゼロという有の道理である。これが自由の性質、エネルギーである。
ゼロ故に丸い形で、故に円い動きのエネルギー、故に絶対善の自由で動いている。
そこから分かれたエネルギーの自分は、動くことによって様々な刺激を受して、
どのように動いていったかの自由であるための、自分の歩んだ意識の世界が繰り広げられていく。
綺麗も汚いもないというのは、善悪がないということと同じである。
善悪がないために、絶対善が自由エネルギーの性質である。ここを理解できなければならない。それを、善もないのだから絶対悪とするエネルギーが
自由の間違えた解釈のエネルギーである。このエネルギー世界が地獄の世界である。
善いも悪いもないために、間違えてしまえばそれが正義となるために、正せなくなってしまう。だから恐ろしい。
エネルギーの法則は、ただ自由が本質であり善悪など持たない。ただ回るだけである。
そのために、元に戻りゼロとなるもので、浄化となって繰り返しているだけである。寸分の狂いもなくただ回るが、
回るための変化で歪になったりするが、必然元に戻る。道理であるためである。それがエネルギーの意思である。
この回る変化が刺激である。この刺激に応対してエネルギーが様々に生じる。もし、この対応が
本質にあっていれば、ゼロにかえった時点でそこから抜け出すことは無い。
静の動きとなって安定する。それが涅槃寂静の世界である。つまり、時空のない永遠の世界である。

人間の意思にある善悪などない。
善悪がないために善であることを理解できて自由が正しく知れてくる。
エネルギーは自由であり意思である。それが正義であるために、正しい意思をもって
刺激を受し対応していけば、その義はよく守られる。
くれぐれも悪の意思を持たないこと、作らないことである。もし、悪を為したら、
気が付いて正していけば、本質の義は守られる。間違えたら改める!これが修行であり、
生を受けて人生としている時である。極めて稀なる時であるために、大事にして努力することである。
生命は、特に人間は、本能的に無知であるために間違うものである。
が、他の動物と違い学習能力が優れる。そのために、無知をなくしていけば、間違うことが無くなり、
苦るしみのこの世界より抜け出していける優れた生命エネルギーを持っている。
今生きていることに感謝して、
エネルギーの法則を解き明かしている般若心経を正しく理解することである。

未来は不定であり、常に変化する。衆縁和合によって生じてくるために、
怠ることなく修行(努力)して、稀なる人生の時を感謝にかえ、生きて魂は救われる。
それが法則の功徳である。





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摩訶般若心

2018-11-08 | Weblog
この世の中は、善人ほど生き辛いものだと先人たちは言う。
経済的に貧しい人々には優しい人が多くいて、
経済的に恵まれている人々ほど、冷たい人が多いものだと、人生大半を生きて思う。

確かに、物事をあれこれ思えば、苦しみの中からは喜びが生まれ、
楽しくある中からは、不安やらは哀しみが生まれてくる。
対立している物事がそれぞれ反対に生じてくるもので、
なんとも不思議なものである。

同じ人間であるのに、違いがうまれてくるのを、
理性をもって情理あたれば、感に振り回されることは無くなる。
同じとして違いを認識し、認め合うことに、情は正しく濯ぐ。

俗世は、どんなに言ってもわからないものがいるもので、
ただ哀れなるものとしか言いようがない。
それでも、一を聞いて十を知る者もいて、更には、百千万覚るものまでいる。
彼等は有為である。

少なくとも、「千里の道も一歩から」のものであることを誇りと思う。

優勝劣敗なる世俗に於いて、今生の覚りにて、あの世ではただ優勝たる。



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諦観

2018-11-06 | Weblog
還暦をとうに過ぎ、日一日とあの世に近づく。
難なくできていたことができなくなっていく。
「年寄り笑うな行く道じゃ」と言うが、当事者にならなければなかなか分からないものだ。
笑われても仕方ないと失笑するだけである。
不快なる怒りも起こらないものだ。
ほとんどのことにあきれてしまう達観という見方に転じて思う。
仏に近づくというのは、角を立てず何事も円く見る諦めの境地だが、
なげやりとか投げ出してしまったということでは全くない。
明らめたとしての口一文字なのである。

人生は誰の為でもない、自身の為にある人生なものだから、
悪く生きるも善く生きるも自業自得に繋る。
死後の世界が自身の決めた生き様に現れる。
「我が身をつねって他人の痛さを知れ」をくれぐれも生きた人は、
不安などどこにもない。もちろん死後の世界に。
今生の不幸せを一生懸命に生きて、未来世はただ安心である。
喜怒哀楽その時々を省みて正、それを全うに生きたということになる。

明らめる=諦める。人生明らかに見て、諦める。
そのために、言葉という字に、帝王という最高の位を付けて、
「諦」として賞賛の文字である。
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