つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

輪廻の選別

2019-10-30 | Weblog
消費税増税による落ち込みは来年の春頃より顕著に現れてくる。
あれっ、生き苦しいなぁという思いは、今までもそうではあるが、
これから起こる不安は尋常ではないと感じてくるはずである。その傾向は巷のあちこちに現れる。
唖然とする出来事が身近に起こり、いよいよ世も末と誰しも心に思う。
増税は、ただ単にきっかけ。
人的な禍の大きな転換期となった。
人々は、上にも下にもただ翻弄されるだけで、祭りごとも災いに転じる。
七転び八起きは七転八倒に、悉く無力となる。
ただ茫然となった時、見えないものの存在を知る。
はじめて、誰しも意識を意識する。
もしかして・・・・?


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リンゴ型

2019-10-29 | Weblog
循環型エネルギーであるために、水は蒸発して上昇、空の雲を作る。
雲はやがて雨となって地面に戻る。この繰り返しである。
全ての存在は消えてなくなってしまったように見えるが、形を変えているだけで、
いつか再び帰ってくる。
エネルギーが円運動の自由にあるためである。
円運動は元に戻るためにゼロ、つまり浄化の性となっている。
だから、人の行為もすべて浄化の行為となっている。
ただ間違った浄化の行為をしているために、間違ったことが人生に起こる。
人は、水を汚し、地を汚し、それが天に上り地に返ってくる。
汚れが酷くなれば雲も黒々となり大雨となって降り注ぎ地を洗い流す。
地球の浄化作用である。世界人口が増えれば増えるほど、そして傍若無人にあればあるほど
回り巡る道理である。

意識体である生命エネルギーは、物質的肉体を介してのみ意識の向上がなされる。
肉体の活動行為が記憶を作り、記憶のエネルギーの積み重ね、そのエネルギーの統一されたものが想念となって、
心となっている。つまり意識となっていく。知の識が知恵となっている。
知恵は経験の識である。そのために、誤りのない判断となっている。
物事は知識で判断するのではなく、知恵を持って判断していかなければならない。
ただし悪知恵は間違った浄化の判断である。

経験されないことは知識となっていかないためにわからない。だから、
死が人の経験とならないために、人は死んだ後どうなるのかわからない。

分からないために恐怖となっている。
恐怖を克服するために超越した存在(神)を作り、それによって問題を解決している。
神に縋ることに由って恐怖が無くなっていくためである。
だから、恐怖を思わなければ、そもそも神などというものはいらない。
人の思いにある神というものは、そういう存在である。人の都合による存在なのである。
あるいは、人間よりもはるかに優れた能力のある生命体を神としている。
それは、地球外からやってくる知的生命体を神としていても理解できる。
が、ただ神とて悪神と善神がいるものである。人に悪人と善人がいるのと同じである。
エネルギーの法則に無知であれば、悪知恵をもってして与えられた知識を、
正義としてしまっても仕方がない。人類の歴史が、これほど戦争と殺戮の歴史であるのは、
悪心である知的生命体の企みであるとする。彼等には、
無知である人類を騙すのは、赤子の手を捻るように簡単なことである。
して、人間は地上から自由を奪われ、金融制度に支配されて、すべて
金の奴隷となって、金が無ければ何もできないものとなっている。
金が人生の通行券なのである。だから、従順にして労働に服し、一生を隷属という
鎖を自由と錯覚して、金を稼ぐために費やす。
これが正義となって、誰一人疑うことが無い。というより、意識あるものは、
ここまで制御されていては、太刀打ちできないと知って、意識の転換期である周期(浄化)を
想像するものである。自然の周期である。♪信じることで必ず最後に愛は勝つ♪想像は現象を起こす。
エネルギーの法則は、観音経にある方便を雄弁に語っている。
イメージ(想像)することである。是(善神)は訓示る。そう受す。
エネルギーの法則は、円(縁)運動である。ただ回る。という意識であるために、
善悪というものは無い。無いために絶対善の道理である。
道理には、0から9までの数字が意図されて創造されている。すべての数字には意味をもって
意識されているが、自由はゼロ点である。
それは、深遠にしてゼロポイントに帰す。
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量子的

2019-10-27 | Weblog
宇宙は意識の存在である。
全てが意識的にある。
その意識は全知全能という。
全知全能は、全知全能であるために過去・現在・未来すべてを知っている。
そのために、存在の意義そのものを失う。
そこで、意義をつくる。ゲーム(遊び)である。
忘却というゲームを意識して、すっかり忘れてしまう。
意識すればするほどはまってしまう、という性質を持っている。
だから、存在の意義を失うことが無い。

不思議なゲームが不可思議となってしまった。

全知全能には
今も昔もこれからもが同時に存在している。
全ての方向性を作ることができるために、
意識によって、すべての選択を同時に行うことができる。
この世の様な時間の流れというのは無い。
ただ忘れてしまったために、時に縛られてしまった。
一方向にのみ進むという縛りである。それは、
本来の自由が不自由となっている。それは不本意である。

存在には可能性がある。無理というのは存在にはない。
忘れてしまった意識が無理を作っている。
無理から離れるには、意識を変えるしかない。
忘れてしまったという記憶を呼び覚ますことである。
そして、全知全能であるための退屈さを意識すれば、
存在の意義を取り戻すことができる。
自由とはそういうことである。
存在は自由から生じている。自由意識である。

一万人の中に一人理解する物語である。


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何々のためとして責任を転嫁する

2019-10-25 | Weblog
また一人大臣が辞めた。ついこの間就任したばかりである。
自分のことは棚に上げて、他人のことは非難する。人の世というものである。
人倫完璧というのは、俗世間いない。私達は哀しい世の中に住んでいるのだろう。
起こること、どれをとってもあまりに常軌を逸している事件が多い。
何の因果なのだろう?自分の心の性を省みる。

震災の復興、その後の自然災害の復興、なかなか進まない。
被災されている人達には、長く苦しい時の流れであろうに、
なのにオリンピックは、
4年にして受け入れ態勢ができてしまう。それも豪華な建物ばかりが完成していく。
オリンピック、パラリンピックあわせても一月ほどのこと、
その後の使い道は、それほど考えられることもなく、先ず造る。

急ピッチはどこにあっていいのだろうか?道理を知るなら、被災しているところにあらねばならない。
すでに東日本震災からは、オリンピック4年に一度の倍の年月が経っている。
つい最近も台風15、19号の甚大な被害、復興も進んでいないのに、更に本日も大雨。
履んだり蹴ったりである。
それでも、日本の中枢である国を操る人たちは、こんなもんで済んでまずまずだといった大臣がいた。
ん~、情けないどころか、もうこの社会の終焉が来ているような気がしている。
あまりに悪事の多さの多勢に、愛情ある人達がいても、無勢になって道理が阻まれている。

夏が来る頃、日の照りに悪意が憶える。人災は、企てに幾ばくかの憐みを抱いて、急きょを無理やりとして、
僅かばかりの妥協を安らぎとする。幸運と不運は、その人の行いに反応して現れた。
これをもって知る人は、僅かばかりであれども、戒めというものを心底刻む。
後悔は先には立たないためにそう言う。
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生きるというゲーム

2019-10-22 | Weblog
意識が生命であると言っても理解している人はほとんどいない。
「思う」がエネルギーの自由たる動きである。存在の原点である。
「どう思ったか」それについてどう行動したかが重要となってくる。
思ったことを行動に移したができなかったというのは、特に問題ではない。
ただ投げ出さずに継続していたかは大事である。紆余曲折というのはあって然りである。
当初より完璧であるというのは、そもそも問題など起こらない。
未完、不完全であるために、「動」である。
この「動」がエネルギーである。すべての存在である。このエネルギーの根本が自由というもの。
だから、自由がエネルギーの源であると言える。エネルギーであるために(動)であり、
この(動)による変化(刺激)を受けて意識(心)、つまり思い、その識別、そして行為(動き)となっている。
完成されたものには動きなどない。(静)である。・・ように見えるだけで、存在であるためにある(動)、ある意味「無」に等しいという感にある。
「無」と記す以上、それは存在という「有」の中にある。つまり「無」という存在である。
無=有、矛盾しているように思うがそもそも、有(存在)には無というのは存在しない。だから思考できないのである。

存在のエネルギーを形に表すとゼロ、円となっている。それは、点という言い方にもできる。
あるでもない、ないでもない幻のようであるが現実(幻実)であるという、いわゆる、
陽炎のように目には観じる。これをただ無という存在にしてあらわしているだけである。

自由=エネルギー(気)=動=意識
想、念、思、考、精神、魂、心=霊性である。
形あるものではないが円いと観じるのである。
いかようにでもなる形と言った方が当てはまる。例えて、水のようであると言える。

生命は霊性というもので、意識体である。
円満となって善である。その意識体は、物質的エネルギー体に変えて経験(動)をしていくことで進化を得る。
それがエネルギーの自由であるために、物質的経験を介して意識の向上を図らねばならない。
エネルギーの根本である自由を覚った時、物質的肉体を離れることができる。
何の制限もないそれこそ本物の自由を得ることができるのである。
だから、肉体に宿り覚まで転生を繰り返す。輪廻転生は一切が苦である。
この苦しみから逃れる、つまり意識体となることに気が付くために必然与えられる制約である。

自由は、本来全知全能であるが、全知全能であるのは、存在の意味を失くしてしまう。という思考で、
存在をを維持する。、そのために忘却を創造する。そうして忘れることをして、
忘れることの虜となる。何のために存在(生きる)のか?と思考し続ける。
このことによって存在の意味を作り維持する。
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肉体の死が生命の目的である。

2019-10-17 | Weblog
魂は死なない。
永遠にあるものである。
そこに、始まりとか終わりとかは無い。
ただ「ある」というものである。
「まったり」としてという言い方が当てはまるだろう。
魂は心であり精神であり気である。これが生命であり
霊性という。
エネルギーという存在である。
存在がエネルギーである。その存在が記憶となって魂となる。魂は心であり・・・と繋がり繰り返す。
エネルギーは円運動の自由となっているために、有限でありながら無限の動きとなっている。
整然としてあるために性善であり正義となっている。
これが光である。揺れ動く粒子である。円い。
忘れていた記憶が甦るとき、闇から光へと向かう。その指向性が道徳である。
道徳に従うのは、それこそ生命の得となるからである。
全てが円満となって存在である。
これが道理であるために、心が円くなって人生達観である。

人は死ぬために生まれてくる。その意味をエネルギーの法則が訓えている。
覚るも覚らないも生命の自由である。悟るまで輪廻する。
死は、生命の無くなることではない。生命は永遠である。
唯まったりと存在している。
それが存在である。自由というものであるために、一切の妨げは無い。
妨げを作っているのは心の自由である。それは、記憶の無知からくる。


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後悔先に立たず

2019-10-15 | Weblog
台風19号災害で、
人命第一と言いながら、ホームレス生活の人の避難所受け入れを拒んだ自治体があったと報道にあった。
それも日本の中枢である東京都である。
人間が生き残るための唯一の手段は愛情である。
この弱者救済拒否報道を聞くに、あまりにむごい仕打ち。
命最優先と謳っておきながら、ここまで酷い状態とは?
偽善の何物でもない。
大和魂の日本国にあるまじき行為、もはや、災いから逃れる術を自ら断っているようなものである。
また、こんな報道もあった。教師たる身にありながら、同僚を数人の教師でいじめていたとする報道である。
その中には女性の教師もいて、また、生徒のいじめ対策担当の教師もいたという。
そのような教師に教えられていては、いじめが無くならないはずである。

道徳を知らない「先生たち」が世にあふれている。だから、

これから先、

道徳とは何か?そう問う事件は起こる。
人倫乱れに乱れて、地獄絵図が日本の中枢に見える。
少し昔、
あの時も空は青かった。そして暑かった。誰しも日常に疑問は持たなかった。
ただ暑かった。
だが様相は一変した。
悲惨さは「まさか(真逆)」を伴って訪れた。
それが、必然であることを知らなかったのは、醜さに覆われていた人間だけであった。

癌細胞と化した人間は、いよいよ本体を蝕んでいった。
愚か者である。

ひとつ、
精神が病んでいなければ、どこにいても安心である。



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希薄、本当の自由

2019-10-13 | Weblog
ますます大きくなる自然災害勢力、何を語っているのかを理解しなければ
甚大さは増す。
災害にあった人々は命からがら、これからもにあるために、愛情が無くてはならない。
非情にあってはならない。
愛情は無償にして存在である。そしてこれは永遠である。
永遠にしてという変わらぬものである為に、期限という限り(隔て)は存在しない。
愛情があれば、災害は大事には至らない。

便利が高じれば不便が募る。そこそこに足るを知ることに生気(精気)が宿る。
「不自由を常と思えば不足なし」、生きる気力とは、自由を忘れたふりをして宿っている。
自由を忘れたふりを忘れない自由を取り戻せ。
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一人ひとり唯我独尊

2019-10-10 | Weblog
この世は金に支配された社会である。
社会全体隅々までこの支配はいきわたり、改善される余地を持っていない。
なぜなら、我欲、利己主義にあるためである。
誰しも自己は愛しい者であるが、愛しい者であるための理解力のなさは酷い。
そのために、そのまま優先順位を自己に置き換えてしまい、最も愛しい者から遠ざかって、
害する者となっている。
100人いて99人までが酷い理解力である。もって、
多勢に無勢、悪いものは瞬く間に蔓延り、勢力を持つ。
これが現社会体制である。今昔変わっていない。
我が身をつねって他人の痛さを知れるなら、この単純にして置き換えることの
善の正義を知らないために、自分自分となってしまい、共存であることの共栄を無視する。
結局、生き辛い社会体制を作り上げる。弱肉強食は生命の底辺の底辺、
ウジ虫に等しい。汚らしさと卑しさとその厭らしさは地獄そのものである。

そんな社会体制を作り上げている一分であるとする責任を理解するなら、
この奴隷社会から解放できていく。
精神的生命であるものは生物的物理に未練は無い。全てに制約ある肉体に執着していて、
何の自由か。矛盾だけである。
自由とは、自らに由るということである。その自らは心に従う。
心に付き従うものである為に、精神を生命として制約を破れ。
精神的生命は自由そのものである。その責任を負うものは自分であるとすれば、
奴隷となることは無い。
精神的生命エネルギーであることを思い出せ!
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汝愛する者?

2019-10-09 | Weblog
来年の7月電磁波動狂鳴(共鳴)となり、首都中枢壊滅的ダメージ、
再起不能、悉く愛の行方求む。
神曰く、兆候もってして幾度改まる兆しなくして自由に他力なし。
及ばざるは過ぎたるより勝れり。
過ぎたるは猶及ばざるが如し。と。
この時間線上、愛情失くして現実となる・。
唯、未来不定にして愛神足に以って危機一髪、
愛する者のみ瞬時を得る。
意はそう識る。
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