つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

徳が積まれる

2013-09-30 | Weblog
返ってくる。
何もかも。
さて、何を覚ったか。
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心違い

2013-09-29 | Weblog
人は往々にして心違いをして生きる。
一つの生涯を終えるとき、‘今度生まれてくるときは・・・’とまた生じてくることを願う。
死して、何もなくなるとして生きていながら、無くなるものでない自分がいるとも思い、
‘来世にはきっと…’とか‘来世でも君と一緒に…’とか、再び生まれてくることを望む。
一生涯生きて、あんなに苦しく切ない思いばかりと嘆いたのに、亦という事を望む。なぜ?

仏は言う「この世は一切皆苦」であると、生まれてくることは苦しむことであり、苦そのものであると訓え、
生まれてこないことが極楽であることを訓える。
だから、人の一生は輪廻を離れることにある。輪廻を離れるにはどのようにして生きたらよいのか?
ただそのことに尽きる。生まれてきて「生きる」というのはそういうことである。・・と仏は訓える。

生命(心)に死が無い為に、生命本来のあるべき場所、つまり、肉体を持たない心(生命)の記憶の世界、それが死後の世界であり生命の真の活動の場である。
法則の絶対世界である。
そこに正しく安住するために、人は生きるのである。人の究極の目的である。その死後の世界を地獄の世界としないために生きていくのが
人という生命の目的である。
地獄というのはもともとあるわけではない。心が作り出す世界である。地獄に赴くというのは、すでにあるという場ではなく、
心の思いである場所となっている。そのため、心に悪がなく、正しい思いを持っていれば、地獄が作られることはなく存在しないものである。
すべて生命という心の問題である。

エネルギーというのは、何かに反応して形を成し、その形をもって存在の有無を示していく。エネルギーそのものでは、ただまったりとあるというだけである。
それは、見えもしないし、見えなくもないというだけのもので、それは‘陽炎のような’という表現ができる。
ゆらゆら立ち上り見えて、やがて渦という反応を示す。界ができていく。
私たちの宇宙である。それは無上であり、他に類のない唯一という存在である。有限であり閉じられていて無限と感じる。その外側は何もない。
考えることができない、必要のないということである。
「無上甚深微妙法 百千万劫難遭遇」としてのものである。

「こんなにつらかったけど、幸せだったよ。有り難う。今度生まれてくるときは・・・。」
苦から喜びを知り、苦があるために、ではどうすればよいのかを知ることができるものである。
一切皆苦であるこの世の慈悲である。慈悲の慈である。でも、えてして人は、往々にして思い違いをして生きる。
一切皆苦であるこの世の慈悲の悲を正しいとして生きてしまう。
亦生まれたいと、苦の連鎖を絶てないで生きる。
あの世というのは、この世の常識を離れたところにあるために、なかなか非常識を見破れない・・・。

心違いをして生きるために、正すことを訓えているのが般若心経である。如何やそれも・・・。
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究めるということ

2013-09-28 | Weblog
何の為に生きるかといえば、死ぬために生きると答う。
それは、人は死を絶対条件として生まれてくるためである。
不老不死というのは肉体にはない。
無常なる肉体を介して、心(生命・魂)がいろいろ覚り向上するためである。その向上は浄化にある。
どんなに科学が発達しても、肉体の不老不死は叶わない。多少の延命はできても多少である。
それは、無常という法則の性質にあるためで、廻り行くものという変化にあるためである。
円運動となっているためである。その運動による変化が生死となって繰り返していて、その変化が常住となっている。
是という永遠の動き、万物の発祥の基となっている。だから、無常にして常住となって他に無い唯一という
法則であるのが宇宙である。生じては滅するという刹那的繰り返しである。
そこに時間があるとかないとかは幻の如くというものである。

廻るという変化に刺激を受けて、その刺激に様々に反応して、あるべきエネルギーとして形作る。
だから、その場に適したものとなって存在となっている。
場に応じて生きていく容となっている。その姿は応じていく為の様々な能力(智恵)を身に付けていく。
臨機応変、エネルギーの自由というものである。その自由が浄化という本質である。
自由であるために、そこには何の理由もない、目的も無い、ただそういうものであったというすべてである。
エネルギーそのものの本質は自由であるために、個々、目的を持つ、目的がある、とするのも自由であるが、
ただまったりとあるというだけである。

「私が思った」という心は法と同じエネルギーである。だから、心には死がない。
エネルギーが変化に対応して形作った肉体、それを介して成長、向上、という進化する。その進化が浄化という
法の自由にある。浄化が法の質、自由となっているために、
肉体を介して、その様々な刺激、情報に正しく対応(浄化)していくことによって心がみがかれていく。
その与えられた肉体の刹那的な時間をもって、一進一退、試行錯誤、心を育てるのである。
なんど生まれ変わってのことであろうか?
一つの一生を無知から始まり、どれだけ覚り、また次の一生につなげていくか、心の育成が浄化に繋がっていく。
そうしてある人生、菩提となって、生死の繰り返しという輪廻を離れて、常住である安楽に宿る。
常住であるためにそこには変化がない。だから時間も無い空間も無い、永遠である。自由があるだけである。心の自由な世界である。
外部からの刺激を受けて、反応した一つの生命エネルギーの本質に返る過程である。

ひとつの人生は、正しく浄化することにある。一つ一つ日々行う人の仕種が浄化となっているのである。が、
その一つ一つの仕種が間違った浄化の行為となっていれば、
その縁によって間違った世界が繰り広げられる。間違った世界というのはひとえに地獄のことである。
死というのは肉体の無くなった心の世界である。心の記憶による世界が死後の世界であるために、その心の間違いで
世界が作られてしまえば、それはまさに地獄となっている。だから、人は死ぬために生まれるという。死後の世界を地獄の世界としないためである。
心の世界には、時間も空間も無い為に永遠となる。つまり、地獄が作られれば永遠に苦しむ世界で暮らすことになる。もし、縁があって、再びこの世に生じてくれば
子供の動きとなって無知となっている。死後は時間空間が無い為に、再び生まれてきた時は、前世との間に時間の差は無い。死後の世界で何万年いたとしても、
生まれた時は前世との時間の差は無いのである。瞬時と感じる。
心は以前より培われてきた質にあるために、成長するにつれ性格が現れてくる。
その性格が生きていく過程で、どう変化していくかである。受ける刺激に対して正しく思い対応されていけば、正しい浄化となってよく性格も変わっていくのであるが・。

往々にして人は心違いをして生きる。

仏になった人は言う。善いことをしなさいと。これは真実である。ひとえに自分の為であると。

人は死ぬために生まれ、ある一生涯で悟ることができれば、再び生じるための行為を離れて
二度とという繰り返しの無い安楽な世界となる。死して、心の自由な世界に安住する。

人は死ぬために生まれる。それも、二度と生れないとするためにである。心に死がないためである。
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ずる賢い

2013-09-26 | Weblog
国民の義務として集められた金、税金。強制的集金は国民のためにとして使われる還元にあるが、
その使い道を考えやりくりする者が、適当、つまり、いい加減、つまり、粗末であるために、
やりくりできずに行き詰まり、無駄に使って金をなくして、挙句のはてに、もっと無駄づかいしたいからと、
もっとよこせと値上げを要求。結局ん~も言わせず強制執行、
わが国のため、民のため、ため、ため、為一途として訴えてからくり。
やりくり下手を棚に上げて、まことに取りやすいところから取ろうとする無能ぶり。
それも、弱者がもっぱら痛手をこうむる仕掛け。
高学歴をもちながら、その賢さをずる賢さにして悪智恵を働かす。
やりくり下手なのに、自分の取り分は高額にして触れずに、金が無いことの一点張りに周知する。
あぁ~、世も末…。
仏は言う、どんな善いものでも無常にして、末法、滅法となっていく。

・・・一掃されて、再び過ちとなりませんようにと、儚くも思う。
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驕れる者・・・

2013-09-25 | Weblog
経済社会としての人生だから、
金をいかに稼げるか否かで能力のあるなしとなっている。
儲けるということはどういうことか?
儲かるということはどういうことか?
十円だったものが百円あるいは千円あるいは万円で売れば、
それは儲かる。
薄利多売が良心的であるし、人を思う商売である。だから、
正しく商うというのは努力の割には儲からないものである。でも、存続していき親しまれていく。
よかったとして生きていけるのである。
その努力に多分な利をつければ、とっても儲かることになる。が、
努力はその人のいい値、そこに損得がある。暴利となればほくそ笑むことになるが、
ただ、
儲け儲けと儲けをはからえば、しまいにはどんでん返し、あらぬところで損となる。
損得ばかりを考えれば損となるのである。それも大損。

世の中は辻褄が合うものである。それは、相対である。どちらか一方への偏りは過程の中にはあるが、終には釣り合いが取れている。
偏りは歪であり円満とはならない。
法は円満である。だから、摩擦となることも無く永遠廻るのである。
歪なものは崩壊していくだけである。淘汰する。
‘驕れる者も久しからず、ただ春の夜の夢の如く’と無常に詠われたように。

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永遠である

2013-09-24 | Weblog
誕生し成長して旺盛となり衰退して亡くなる。
時の流れの知るところである。
未来には百パーセント死があることが分かる。
神でなくとも誰でも知っていることである。

亡くなって死後の世界へ逝くが、死後の世界もこの世と変わらない世界である。
それは、心が作り往くのであって、記憶で作られているからである。
記憶が無いものは現象にならず、世界とならない。
だから、もし、地獄に行きたくなければ、悪を思わないことである。
記憶に悪が無ければ地獄は作られない。でも、少しでも悪があれば天国は作られない。
死ぬということはそういうことである。
生前が大事なのはそのためである。悪をなすなというのはそのためである。

誕生し成長して旺盛になり衰退して亡くなる。この一連の流れは円の動きである。
だから、繰り返す。永遠という。法の動きである。これを是という。日の回りが絶対正しいとして、日が正しいと書いている。
諸々の法則となっている。これがエネルギーの法則である。エネルギーの自由で作られている。
この法則の下、物語である。
一旦という区切りをもってまた新たに始まるのである。
その一旦がゼロという時間空間の無い世界で、空白となっている。
けっして知ることのできない世界である。それは、その人の心の世界であるために、
人の心の中には入り込めないように、また、その人の記憶が現象となってしまうために、
一切残らなくなる。空白(ゼロ)となって繋がっていく。縁あって、
再び誕生となったとき、前世の記憶は消えていることになる。子供の動きとなって、
無知となっている。そうして、心は悠久生き続ける。魂という。
繰り返し繰り返し生き続けた経験の思いが統一されて現在の心となっている。性格、性質となる。

あの世で暮らした時のことは心の空白となるために、つまり、時空がない(ゼロ)ために、思い出すことはできない。
だから魂(生命)の空白の時として、あの世を「空」として仏は説いた。


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理由は無い

2013-09-23 | Weblog
未来は未だ来ていないからないものである。
過去は過ぎ去っているからあるものである。
未来はこれから来るものだからあるものである。
過去はすでに去ったものだからないものである。

未来にはないとあるがあり、過去にはあるとないがある。
どちらにも先と後が混在していて、だから、
過去を見て未来がみることができる。でも、それは、
不確定な幾つもの未来である。どの未来なのか計り知れない。
それは、神といえども知ることはできない。
一寸先は闇というように、道理であるために。
原因にその時の条件が重なって起こるために、確定はできない。
自由というものである。
自由に理由はない。
自由を知ることはできないものとなっている。それは、法を超えることであるために、
法を超えるということは存在にならないためである。

時間の中に未来と過去があり、ただ流れていると認識するが、
今という瞬間はそれぞれに違い、未来も過去も無い。
立場によって未来であり過去である。
ただまったりとあるだけである。


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無意識なもの

2013-09-22 | Weblog
人間というのは群れて生活している。
その意味で、互いに共存共栄を知らなければならないのであるが
同じ群れの仲間でありながらも差をつけたがる。優劣という違いを好み、
私はあの人とは違う、あの人よりも優れているとすることを誇りとしたがる。
協働ということを知らない。一時の協同に過ぎないものである。そのために、協調性に欠けて、一時を過ぎれば排除しようとする。
その思いが格差を作る。

確かに同じことをすることにおいて時間の問題が起こり、過ぎてしまえば元も子もなしとしてしまう
時間に縛られた生活をしている。
遅くて間に合わないという能率の差を生み、それは、「過ぎたるは及ばざるが如し」という一理に縛られて、そのために、
‘過ぎる’ということは過ちとも読まれてしまうほど時間に拘束されて生きている。
間に合うとは何だろう?間に合わないとは何だろう?役に立つ、立たないとは何だろう?長短所とは、個性とは、過ぎ去るとは、・・何だろう?・・
・・不必要なものはこの世にはなく、必要であるから生じているものである。そう知れたなら
偏に責め立てるということも如何となる。知らないというところに非が起こり無礼、非礼となる。
まず、自分を戒める。

現実は時間に縛られて、時間厳守が信用に値するものとなっている。それには、‘命短し’という人の動物としての時間により、
この世であるためである。
脳は肉体に司り、いろいろと戸惑る、迷う。動物という肉体に由るために、肉体を超えたところにある心をなかなか理解できないでいる。
心にはそもそも時間というものがなく、概念があるだけで、外部から受ける刺激をどのように見ているかにある。
肉体による脳は時間に支配されているために、とかく見るもの聞くものに惑わされて動く。素直に反応する。錯覚というもの幻覚というものが起こり、
それをどう心が受けるか、智恵が廻っているかでよく制御されるが、心が脳を離れ、客観的であれば瞬時物事はよい判断がつく。
時間の概念を自由とし、臨機応変とするためである。
心は悠久にあり遅延は無い。遅いも早いも関係がなく、「正しくできた果」の果にある。
それは、前(先)は後であり、後は前(先)でもあるためで、時間が流れているという概念がない。
「是」に由るためである。それゆえに、努力は好い果をもたらし無駄となることは無い。無駄とするのは時間に支配された脳の勘違いである。
時間の支配を離れている心には勘が働き、正しく感じるものである。

脳はよく惑わされてしまうが、その惑いに心まで迷わされてしまえば判断も誤る。
脳が反応しなくなっても肉体が動いていれば、つまり、内臓器官が動いていれば人の死とは言わない。
脳が反応しなくなってしばらくすれば内臓も止まってしまう。内臓が止まって初めて人の死となる。
内臓が人の意識で動くものではなく、法の動きとなっているためである。
その内臓がまだ動いている段階で脳死が人の死となってしまい扱われると、その人は断末魔、地獄となってしまう。
人の勝手に、人を地獄に落としてはならない。
人の意識でなく動いているものが、つまり、法の動き、自然に動かなくなって初めて、人は安らかに旅立っていけるのである。
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センス

2013-09-21 | Weblog
格好良さを重んじて実用性に欠ければ、
事あればコケる。それこそ不格好。
実用的でそのセンスに富めば、究めて自然に格好がついてきて、
よく好まれる。
形から入るというのは弱い人のすること。
見かけがどうあれ心構えの整った人は、形も様になる。
格好というのは敢えて作らなくとも、よいものには自然と付くのである。

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バランス感覚

2013-09-20 | Weblog
均衡が保たれているのではない。
皆それぞれ単独での存在である。
もしも均衡で成り立っているのであれば、
無常にしてすべてが狂ってしまい
存在が成り立たない。
物の影響というのは力の大小により与え受けて、
力が強大であれば、周りに与える影響も大きいが、
だからと言って、均衡とは無縁である。
それぞれがそれぞれに単独として有していて、
生死している。
関連していると思うのは錯覚である。
秩序正しく動いている、ただそれだけである。

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