つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

常識を持たない

2018-01-31 | Weblog
月食である。興味のある人はしげしげとその様を眺めているだろう。
天体ショーを見て何を思うのだろうか?
月の住人もこちらを見ている。彼らは地上より
はるか鮮明に私たちを見ている。
科学技術の進化は、私たちの不可能をいとも簡単に克服していて、
人類をつぶさに観察している。しかし、彼らは単に人類を見ているのではない。
内部に住んでいる知的生命体の動向を注視しているもので、
人類は敵ではない。彼らが見ているのは、外宇宙に匹敵する科学技術を持つ土着の知的生命体である。
次元の違いに、互いに迂闊な行動をとれないでいるもので、
その点では、地球は守られていると見てとれる。ただ、緊迫は続いているもので、
智者とてその動向は闇にある。
人類に希望があるのは、精神のもつ可能性である。
案外これが絶望を覆す最も有益な力である。
自力にある方向性である。その後ろ盾は自由が担っているから大きい。


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必要悪の世界、この世

2018-01-31 | Weblog
端整であるから頭脳明晰とは限らない。
美しさというのは、その種の持つ感覚からくるもので、一様ではない。
ただ自然界の持つ黄金律と白銀律にして美なるものがはかられる。
自然界に善悪はなく、だから、絶対善として正義となっている。
この「善悪がない」ということを正しく理解できなければならない。
ここが間違ってしまうと正すことができなくなってしまう。
正すことができなくなってしまうということは、何を説いても理解されることは無くなってしまう。
神を信じるものに、それは邪神にあるといっても理解されることは無い。
むしろ、冒涜するものであると迫害されてしまうのが落ちである。
善悪がないために絶対善となっていることを理解できれば、
人にある善悪も、自然に沿うものとなって、、矛盾することが無くなる。
悪があるために善を知れるということが要らなくなるのである。
絶対ということはそういうことである。

この世の中は、相対するものの中で判断する。
だから、矛盾であり、曖昧であり、迷いであり、、戸惑いである。
地獄であり、天国であり、とするのも10対1ほどの割合で存在し、それも混沌である。
そのような世界であるために、その中からでしか判断できない。
だから、迷わされることなく、或いは、迷わされて戸惑うが、騙されても気づくことである。
そうすれば、、この世界より抜け出して「待多千億仏、発大清浄願」の世界となっていく。
相対するものがない世界である。
まことに、端正で頭脳明晰で、黄金律と白銀律の兼ね備えた世界となっている。
疑いのない世界である。

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虚空

2018-01-29 | Weblog
神々とて未来は不定であるとして関与するものである。
だから、間違った方向性にあるなら、正すことをそれとなく促す。
このままいけばという方向性の未来は予知できるからで、それは、是の法則を理解しているために、
エネルギーの自由を進化進歩に置き換えて、智慧の術を駆使して、
是の波長に同調、無限なる道筋を知れるのである。
今のところ、この時間にある手立ての一つの段階を選択して現象とする。
それは、粗雑なものをふるいにかけて、少しでも良いものを選び取るという刺激を与えての、
その反応の自由度に任せるというものである。決して強制的な変革はしない。できないといったほうが正しいのだろう。
なぜなら、強制は束縛であり、エネルギーの自由を侵害してしまうことになるからである。
エネルギーの自由は神とて変えられないものであるからで、もし、不自由を与えることになれば、
神そのものが存在とならなくなるためである。
エネルギーの法則、是というものは、帰る・返る・戻る、故に、無くならないというものであるから。
それを知るものは、如何なる力も動かすことは無理となっているのである。
知的生命である神々は、よくそのことを知っている。
運動という変化は永遠に有り、
どのように理解するかが動き、つまり、時間を覚るということにある。
不確定にしてあるものであるから、おそらくという知恵に委ねられる。
知恵は道理から学び得られる識である。
一を知り十を見ることができるものであるのが自由である。
いささかも何も、難しいものには難しく、ある時、ふと明白に
理解を受けることがある。それは、ほんとに瞬間、優しく(易しく)考えられた時である。
確定と不確定はゼロエネルギーの存在そのものである。
私達が自身を知らないように、それがエネルギーの自由である。
飽くなき探求が動であり割り切れない中にいる、不確定と確定したときの自由が静、ゼロエネルギーに帰す。
円満で空間も時間もないところの場、虚空である。
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命短し

2018-01-28 | Weblog
必ず年老いる。だから、笑うな。
絶対死ぬ。だから、楽しく生きよう。
謙虚に生きよう!
優しく生きよう!
すると、
瞬く間と思うものだ。
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愚人の心なる

2018-01-26 | Weblog
「学を絶てば憂いなし」・「多ければ則ち惑う」・老子。

今更覚えようと思っても忘れてしまう。
ある意味、幸せなことと覚える。
年老いて、おおよそ皆馬鹿になる。
それは、幸せと思えり。
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善にあれば

2018-01-26 | Weblog
日本は長寿国、でも幸福度は低い。
医療技術が進歩して、本来、死して当たり前であった病から生還し、
寿命の先送りを余儀なくされる。本人が死にたいと言っても助けられるのである。
死にたいと思う人ほど助けられ、
生に執着している人ほど死神に誘われる。うまくいかないのが世の常である。
健康でお金持ちなら長生きも楽しい?のかもしれないが、頭もぼけて、容姿も衰えて、
身体のあちこちが痛み出し寒さに弱くなり、動作は鈍くなり何かと人の助けをもって生きていくのは幸せなのだろうか?
お金があればあるで、親族の相続争いが酷いとも聞く。無ければないで粗大ごみ扱い。国まで早く死んでくれと言わんばかりは、
なにかと制度に見てとれる。
邪険に扱われて、建前と本音が態度に現れてくる。
社会全体がそんな風潮にある。介護殺人は、身内であっても他人であってもよく聞く話である。
これから先どんどん増えることだろう。悲しい社会である。お金、お金、お金に
縛りに縛られて、身動き取れない不自由社会、人間のいやらしさが確立している世の中である。
隣の芝生は青く見えて、見栄、見栄、見栄をはり、互いに生き苦しく暮らしているのは何とも
愚かの一言に尽きる。この国はいったいどこへ行こうとしているのだろうか?いや、この国だけでなく、
人類全体がどこへむかって進化しているのだろうか?おそらく益々地獄の沙汰へであろう。
科学の進化は、滅亡への進化。一瞬にして上下次元へとそれぞれを誘う。

「行く川の流れは絶えずして、しかも、元の水に非ず。
よどみに浮かぶ泡沫は、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。
世の中にある人と住みかと、またかくの如し」方丈記の一節である。

過去現在未来は、ただ繰り返す。

うたかた、泡沫、うたかた。だから、縛られないでいきていたいものだ。
「武士は食わねど高楊枝」の志をもって、経済的貧しくとも心の豊かなという魂を目指して、
つましく、慎ましく、謙遜に、唯足るを知る終活とする。すれば、
憂えることなくあの世逝き!。
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独学

2018-01-25 | Weblog
先生とは、文字通り先に生きると書いている。
誰よりも先に生まれて、経験を積むことによって知の識が付く。
その識見は後生に高く評価されて師と崇められる。
単に「先んずば人を制す」の理にあるもので、だからといって一様ではない。
人様々なるものだから。
人格には資質があり段階がある。格段の相違は性格である。
性格の良し悪しは致命的である。が、必ずしも絶望的ではない。
苦にして学び楽に転じる術を得れば、良し悪しは上手く図られて、
それこそ道理に適い久しく敬われる。だから、本物の先生というのは、
経験の師、自然(大衆)に師事し、知恵を身につけた人を言う。独覚である。
重さのある言葉である。境遇から善悪を知り、無いものと見分ける。つまり、
共存にして正義であることを覚る人。


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不遜無く

2018-01-24 | Weblog
謙遜して生きる。
隷属することなく生きる。
楽しく生きるということだ。
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終わり良ければ総て良し

2018-01-24 | Weblog
感謝、謙虚、献身を心に持って、
隷属することなく群れを離れて歩む。
信じる伴侶があるなら尚楽しい。
信じるものなくして、独りサイの角のように歩む。
孤独を楽しむもの左右されず、覚えるもの命短く瞬き去る。
人知れず去ること幸いとなる。
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正正堂堂

2018-01-22 | Weblog
修行僧、在家にしても出家にしても、
仏の説くところの戒律は守らねばならない。
僧というのは、人に説き訓えるに、自らに行わなければならない。
他人に厳しく自らに甘ければ、誰も師事しない。
ただ世俗にある戯言である。

中道にして極端を覚り、避けること正道である。
偏りは道理ではない。公正を欠く見解は邪道にある。
優れる者、中道歩みて正邪を知る。


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