つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

道理=智慧

2006-12-31 | Weblog
よく道理を観て、道理に従い、道理に生きれば
道理に適い、よく道理に守られる。
どのようなことでもうまくいく。
この世にあるために、禍に会わないことはない。しかし、
よからぬことに出逢っても、幸いにしてすり抜ける。
よくよく道理に守られる。
迷いにあるうちでも、道理に適えば、禍 少なくてすみ、また、
禍転じて福となす。
理の慈と悲はそのようなものである。
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思いがつくる

2006-12-31 | Weblog
今日は一年の区切り。
また新たな一年がめぐる。

一つのものから、別の一つのものへと移っていくが、その変化は
はっきりとした区切りは無く、知らず知らずのうちに移っていく。
それは互いがにじみあうように、どこからどこまでがということではない。
一日が過ぎて、亦別の一日が来るが
昨日と今日は全く同じ一日としてある。明日も同じである。
一年という区切り、百年という区切り、千年という区切りが来ても
人の思いついた区切りである。回るという法則に区切りは無い。
何も変わらない。
回るために起こる移り行く変化は、円いために切り目が無い。
左から右、前から後ろ、上から下というように見えても、
そのどちらでもない。
一つの中に在るもので在るために同じものだが、
変化はあいまいに滲みながらはっきりとしてあらわれる。

変化を受けて、別をつくるのも人の思いである。
苦があるのも人の思いである。
そのために悪をつくらず、悪を思わない。
変化の過程は、楽なものには苦が実り、辛いものには快いものが実る。
ありのままに人の思いとは別にある。


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円の回転

2006-12-29 | Weblog
「過ぎたるは及ばざるが如し」と言われるように、
度が過ぎる、事が過ぎる、時が過ぎる。
何事も何事も過ぎるはよろしくない。

何事も過ぎてしまえば後の祭り。
「後の祭り」=時機が遅れてしまい、用をなさないこと。
過ぎることは遅れてしまうこと、過ぎているのに遅れている?
はてさて、過ぎ去るもの、遅れてくるもの、同じ意味をもつ。
この相(かたち)は円の容(かたち)、法の相(すがた)。
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「・・・知らざるを知らずとなす これ知るなり」孔子

2006-12-28 | Weblog
私は生命の旅人。
人であるために人として久遠、旅をする。
果て無き旅に行き着く旅を求めて。
あるときは 獣の心で暮らした。あるときは 凡夫の心で暮らした。あるときは 天使の心のように暮らした。と妄執から遠ざかりながら、尚 凡夫に向かって走る。そのために、計り知れない輪廻を受けた。
箍の緩みを引き締めて、天使の心の絆をたどり
今を最後の身体として、果て無き旅の果てにたどり着きたい。

私は何も知らない者だったと知ったために、
果て無き旅の果てのそばに来たようだ。
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2006-12-26 | Weblog
人の脳は優れた能力を持つ。
おおよそ、‘思い’とうまく通じる道ができていなかったり、
あるいは細いために疎通がうまくされない。
そのために、思いどうりにいかない。
意思疎通がうまく通じる道ができれば、思いはそのまま脳に伝わり
脳の持つ能力を最大限に操作・調節することができる。
超と思われることでさえ、普通に存在することであり、不可思議なことではない。
ただその現象をつくる道を知らない、創れないでいるだけである。
例えば、運動において、鉄棒の懸垂をする。その運動は主に背筋を使い鍛える。
もちろん腕等の筋肉が補助的に使われる。が、背筋に意識をおいて、できるだけ背筋のみを効率よく動かそうとしても、慣れてないうちはなかなかそこに意識を集中できない。
そのためによく使われる腕などに意識がいきやすく、腕がはってくる。
背筋につながる神経系があまりできていない為に、或いは細すぎて
命令がうまく通じないためである。あまり意識して使うことが無く、
使わないもの、使われないもの、使わないところは退化していくためである。
そのため、背筋は思うほど発達しない。
しかし、何度も繰り返し使われていく、意識されていくことによって、
道ができていく。
たびたび使われていくことによって発達し太くなり、その道は
思いをよく通す。そのために、思いどうりに現象を創りだす事ができるようになる。意識をよく集中できるようになる。
脳は優れた能力を持つために、脳と意思疎通が易々とできる道をつくっていけば
未知なる能力を操作・調節することができる。
思いを可能にすることができるようになる。
人は脳を持ちながら、脳を知らない。
心は脳に宿る。
それは、経験の記憶というエネルギーによってつくられていくためである。
肉体はなくなっても、記憶はエネルギーそのものであるために、なくなることがない。
記憶のエネルギーは脳に蓄積されていく。

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今ある愛は本物か?

2006-12-25 | Weblog
経済的に豊かであるうちは愛があるようにみえても、
貧しくなったらどうだろう?
物質的に満たされているうちは優しくもなれるだろうが、
そうでなくなっても変わらず愛はあるのだろうか?
そう問いて、
豊かな場にあるうちの多くの人は、変わらずに愛はあるという。
はたして、
貧しさきわまって、豊かな場にあった人の多くは愛を失う。
変わらずに愛はあるといっていた人ほど、我先にと愛を貪る。
他人はさておき、先ず自分として悲しい性がでる。
そのような人は心と裏腹になる。

貧しき中にありて尚 施し分かち合う人は最上である。
貧しい中での愛は疑う余地が無い。
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法に依り、自燈明として

2006-12-24 | Weblog
今日はクリスマス・イブ。街はなぜか気忙しく、
時として幸せを思う。
幸せに時を過ごされている人はほほえましい。
誰かがそばにいる いないにかかわらず。

人は、誰かがそばにいるかのように生きているが、
生まれてくるときも独り、生きているときも実は独り、死んでいくときも独り。
人は、一人で生きているかのように思うが、誰かと共に生きている。
誰かの助けを受けて生きている。一人では生きてはいけない。
人の間(ま)に生きているから人間。間とは場をいう。力の及ぶ空間である。
人の力の行き交う間である。
同じエネルギーの連なる間であって、縁あっての間である。
そのために、他人(ひと)に依らず己に依れ。法に依れ。
法を燈明として、自分を燈明として
自燈明として、己を依り処として生きろ。
それが 幸せの拠り所である。
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惑わされて、さまたげられて・・・

2006-12-23 | Weblog
般若心経の文言に舎利子とある。
これは菩薩が舎利子に語りかけている言葉ではない。
「舎利子よ・・・」として呼びかけの言葉ではない。
菩薩の意思を受けて、舎利子の意識の中に菩薩が現身をして、
舎利子の口を借りて菩薩が語っているものである。そのため
舎利子は言った、語ったという意味として、「舎利子」として
書かれているのである。
はじめの「舎利子」は法則の性質を語っていて、次の「舎利子」は
その説明として語っている。

菩薩はすでに死んだ人であるために肉体を持たない。
そのために舎利子の肉体を借りて話している。
観自在菩薩も舎利子も釈迦の説いた法を修行したものであるために、法が縁となって舎利子に現れたのである。
厳密に言えば観自在菩薩が啓示として語っているものであるが、
現象として見えるのは舎利子が語っているのである。
般若心経はそのようにして、死後の世界からこの世の人を介して語られたものである。

人の知識は実に文字に惑わされるものである。
くれぐれも、礙げられないようにと念を押されているにもかかわらず、
惑わされて、礙げられている。
故に、真実を悟れない。
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思ってみる

2006-12-23 | Weblog
どんなに考えても分からない。だとしたら
このように思ってみる。
存在は縁起の法であるために、悪いことをして死んだ人は
地獄に行く。地獄へ行った人は、足腰が立たないほど苦しめられる。
だから、逃げることさえままならず、そこにとどめられる。
そのために、あの世へいけば 自分としては二度と戻ってこられない。
今の世と縁が無くなる。
善いことをして死んだ人は、天国へ行く。天国へ行った人は
あまりにもそこが楽しくて、快くてどこへも行きたくなくなる。
苦しいことは一切無くて不安が無い。
そんな天国から見ればこの世は地獄。とても戻っていきたくないはず。
そのために、あの世へいけば 自分としては二度と戻っていかない。
今の世と縁が無くなる。
かの世は、そのためにまったく反応しないものとなってしまう。
反応しないものとなるために、何をしても知ることができない。
今の世と縁がなくなるために、この世からあの世を見ることはできない。
・・・と思ってみる。

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慈悲を知る。

2006-12-22 | Weblog
慈悲=「慈」は衆生に楽を与える意、
「悲」はその苦を取り除く意。
仏、菩薩が衆生をいつくしむ心。あわれみ。と辞書にある。

慈=いつくしむ。かわいがる。あわれむ。大切にする。
悲=かなしい。いたましい。(仏教で)他人の苦しみ、悩みを取り除いてやろうとする、仏の博愛の心。
哀れむ=同情、(けいべつ)に値すると思う。かわいそうに思う気持ち。・・・
と辞書にある。

慈しむという文字にどうして悲しいという文字がついているのだろうか。
そして 慈悲として、いつくしみあわれむことという意味になるのだろうか。

道理に歩めば、「慈」は幸福をあらわし「悲」は不幸をあらわす。
慈は天国であり、悲は地獄である。法の慈悲をあらわす。
相対する世界であるために、対立するものが存在する。
その対立を慈と悲という言葉であらわしている。
対立が一つの中に含まれている世界。これがこの世。
対立が一つの中に含まれず、対立するものとして別々にある世界。これがあの世。
この世は、そのどちらも僅かながら垣間見ながら過ごすところ。
あの世は、そのどちらかで長い長い間過ごすところ。
この世は、そのどちらかを選べるところ。
あの世は、この世の選択によって決定されたところ。もう選択肢は無い。
あの世はこの世の業によって決まる。
何も知り得ないという無知であるならば、輪廻の絆に結ばれて
来世もまた業の報いを受け続ける。
あの世からこの世へと苦しみの中を行き来する。
生死の苦しみをただ繰り返す。

悪を為すなと無知なる人の為に法を見た人、仏は言う。
疑う者など助ける必要など無いのだが、これが法の慈悲である。
人の理解するところの慈悲である。
仏は神はただ法を説くだけである。ただ訓えるだけである。
悟って、博愛心を得ているために。
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