つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

滅亡への進化

2014-04-24 | Weblog
釈迦もキリストも法を理解し、その上で、
近い将来、人類は法によって滅亡していくことを知った。
それは、法の予言である為に百パーセント間違いないことと知り、
そのために、死後の世界をけっして恐怖としないようにするために説法していった。

死というのは、肉体の死であって、生命は永遠に生きていくものである為に、
死後の世界こそ生命の生きていく世界であり、人が生きていくのはその世界の為の行為となっているとして、
訓えていったのである。
しかし、死というものが生命そのものが無くなってしまうことであると誤って理解しているために、
訓えが正しく伝わることなく、人類は誤った進化を続けている。

人類の作り出すエネルギーは、悪のエネルギーとなって地球を蝕んでいる。
その悪のエネルギーによって、人類は自ら滅んでいく進化となっていることに気が付いていない。
どうだろう、自分の身の回りを見ても不条理なことが多く、あの人は、この人はと悪口に絶えなく、
いじめ、虐待の事件が多く、殺伐とした社会となってきているではないか。
子供に、いじめは良くないよと訓えていながら、自分は職場でいじめをしたりしている。
譲りあい、愛しむ、絆などときれいごとを言うが、いざ、自分の事となれば我が身ほど大事なものは無く、
浅ましさが露呈する。
中には、善人もいるけれども、多勢に無勢で、運命共同体となっている。
世界を見ても、いつも争いである。どこかで争い事が絶えず、一触即発状態はあちこち。
同じ人間でありながら、いがみ合っているのが現状である。

人はみんな自分が善であり、他人は悪であるとして判断しているためである。

我が身を抓って人の痛さを知れ」という言葉があるように
本当にそれを理解するなら、争うことなど無いものであるが、
煩悩にまみれて、なかなか理解されないのである。
救われていく道が説かれていながら、理解されないのである。

人は必ず死ぬ。でも、生命には死が無い。それは法が無くならないからである。
絶対死ぬことを条件に生まれてくるのが生物である。
それは、肉体の無くなった魂の世界が生命の本当の生きていく世界だからである。
その本当の世界を幸せな世界とすることが目的で、肉体をもって行為としていくのである。
そのために、人の肉体行為はすべて浄化の行為となっている。生命の浄化となっているのである。
それが正しい行為とならず、誤った浄化の行為となっていれば、死後の世界は地獄となっていく。
法の世界であるために永遠となってしまう。だから、生きている時が大事なのである。
死んでからでは肉体が無い為に、正されることが出来無くなってしまうためである。

死後の世界は、人それぞれの世界である。
すでにあるという世界に赴くという事ではない。
自分の記憶が作っていく世界であるために、自分の心が地獄となっていれば、
地獄となるのである。だから、記憶に心に悪を抱かず生きなさいよと神仏は訓えているのである。

天災が強大化してきているのは、地球浄化の作用である。
がん細胞のように、我が物顔で地上にはびこっていく人類の悪の浄化である。
それはもう、いたしかたないものである。

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キリスト教と仏教

2014-04-22 | Weblog
キリストが「始めに言葉あり」として語ったのは、
経典で述べられている「如是我聞」と同じ意味である。
啓示によって語られたための言葉であるとして付けられた言葉である。
キリストは観音と呼ばれるようになった人の死後の世界からの啓示を受けたために、
死後の世界を知ることができ、死後の世界が法に依るものであることを覚り、
人は死後の為に生きていくものであり、その世界を愛の国、天国となるようにするために、その行為を説いていったものである。
愛することによって悪を認識せず、
すべての人が清浄となって現象の世界となっていくためである。
神の国でもなく、神の愛でもない。死後の世界が天国となるよう、その準備のための行為を説いたのである。

キリストは、12・3才ころより
29・30才ころまでの17年間インドに渡り、舎利子の一人として修行を積んでいった縁によって、
菩薩の啓示を受けたもので、キリスト教も仏教も本来同じ宗教である。

ただ、処が違えば育ちも違い、思いも違ってくる。
キリストは受けた啓示を正しく伝えたのであるが、
弟子たちには素直に伝わらなかったのである。
そのために、言葉が神の言葉となり、神の愛となり、神の言葉を受けるには神の子でなければならないとなり、
キリストを神の子としていったための、弟子たちの誤りによって聖書は作られていった。
キリストは、神を説いたのでもなく、神の愛を説いたのでもない。まして、神の国を説いてもいない。
死後の世界を愛の国、天国としていくための行為を説いていったのである。
それが正しく伝わらずに、人の罪によって処刑されていった。その最後の言葉に、
「許したまえ、彼らは知らないからである」と言ったのは、彼らを正せなかった悲痛な懺悔の言葉である。
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般若心経の意味

2014-04-21 | Weblog
般若心経を正しく訳すことができる人は、すべての経典を正しく訳していける。
般若心経に出てくる舎利子を呼びかけられているとして訳されているものは、すでに誤って訳されていると知ることである。
その様な訳され方の心経を何度読んでも何の徳も無い。
得られるものなど何一つなく、むしろちんぷんかんぷんの訳が分からない、或は、
分かったようなでもわからない、ただよいことを聞いたんだなぁぐらいでしかない。
それはまた、卓越した人(僧)達の智慧で語られているために、
凡人である普通の人には理解できなくて当たり前なんだろうとして解釈してしまう。
まぁ執着しないで無我になって生きることがいいんだろうとしてしまう。
だから、得られるものは何もなく、悩める道は開けていかない。

もしも、卓越した能力があり、優れている者であるならば、劣っている?とするもの、
精神的未熟であるもの、つまり、理解が難しいとされる者の事を考え語るのではないだろうか。
難解な事をより簡単に単純にして、なるべく理解できるように語るのではあるまいか。
それが優れている者であり、微細なところにも心が配れる者ではないだろうか。
また、神仏と呼ばれるほどの者であるならば、情けあり、劣った者ほど救うということに主となるのではないだろうか。
頭の回転がよく、一を訓えて十を知る者には、それほど導きはいらないものである。
また、独学にて道を切り開いていける者であれば、道標はいらないものである。
優れた者というのは、そのように、繊細に心配りができるものである。
それが欠けていれば、自分の優越の為に、難解なものをより難解にして語るのである。
それは煩悩でしかなく、心無いものである為に正しく伝わってはいかないものとなる。

対機説法というのは、それぞれの能力に見合って話される訓えである。
そのために、真逆にして説かれるようにも聞こえたりするが、訓えは常に真実一つが答であることに終始するものである。
神仏と呼ばれるものはそのような事を心得て話されているが、それでも、聞くものに心が無ければ難しいものである。
ただ、真実優れた者というのは、難しいことを簡単にして語っているものである為に、
けっして説かれていることが難解なものではないのである。
聞く者が難しいものとして意識しているために、迷い惑うのである。
どんなに簡単にして教えられても、心無いものには難しいものである。
送信機があっても受信機が無ければ、届かないように。

般若心経は法を語っているものである。それも、法の世界から語られているものである為に、
真実嘘の無いものである。
人の経験とならない世界から語られたものである為に、知識で考えてしまうとけっして理解されることは無く、
訳の分からないものとなってしまう。
人の知識は、経験を絶対として知識となっている。
そのために、経験とならないものは知識とならなく、どんなに考えてもわからないものである。
人は、死が人の経験とはならない。だから、どんなに考えても、死後の世界は知ることのできないものとなっている。
分からないものは怖いとなって恐怖となるのである。それ故、死が人の絶対恐怖となって、すべての恐怖の基となっているのである。
死後の世界は、
法の絶対世界であるために、一切の反応の示されることが無い。
釈迦は、悟りを開いても死後の世界は知ることができなかった。
そのために、死んだらどうなるかという質問にも答えなかった。
もし、知ることのできないものを想像で語ってしまうと、それが誤りでも正しいとなり、
正されなくなるために語ることはしなかったのである。
だから、輪廻していく永遠の生命の空白の世界であるとして、死後の世界をとしたのである。
輪廻と輪廻の間の世界を知ることができないために、生命の空白の間であるとして、死後の世界を「空」としたのである。
空は虚しいとか、からっぽだとかとする意味で付けられた文字ではないのである。
それを誤解して空を否定の言葉であるとして解釈していくために、無の意味も否定の文字となって、
実態がありながら幻であるとなって、訳が分からない難しいものとなってしまうのである。
般若心経が、死後の世界から語られた啓示であるために、人の経験できない世界から語られた言葉である為に、
人は理解することができなく、仏の言葉であり、仏智であるとなり、凡人には理解できないものである為に、
ただ唱えていれば後利益があるものとなって解釈され、わからないために仏の真言であるとなり、
一心に読経する為の経典となっているのである。唱えてさえいれば仏に通ずるものであるとしているからである。
経典は訳されたものである。日本人に他国語で語られても理解できないように、
漢文に訳されたものを唱えても、仏とて分からないものである。神仏であるから優れているのだから理解でき、
通ずるものであるとするのは人の勝手である。
真実、経を唱えて、願いが叶いましたか?祈り唱えて叶うなら誰も苦しむことなどないではないか。
さて、道理(法)を正しく見て、法を身に付けた智慧をもって、
般若心経を訳していくことである。そうすれば、心経に出てくる仏たちが何の意味を持って出ているのか、
釈迦が語ったものは一つとして無く、経典が正しく訳されていくものである。
宗教の知識など一つも必要することなく、難行苦行という修行もいらなく、
覚っていけるものである。そのために、般若として、悩み多き大衆の心をみがくうたであるとした題名となって、
摩訶般若波羅蜜多心経と付けられているのである。仏の智慧の完成として付けられているのではないことが分かってくる。
般若の般は一般人の般である。若は数を表し、若干名の若である。
つまり、般若とは、不特定多数の一般大衆という意味で付けられている文字である。
その様に、人の知識ではなく智慧で読み解いていくと、正しく文字が理解されていくものである。
知識を滅して智慧で判断していくことである。
釈迦は、人の知識を滅していく修行、識滅の行をしていったのである。
そのために、山にこもり、自然の中での修行となったのである。


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是、エネルギーという世界

2014-04-20 | Weblog
もう一度「是」というものを語ろう。
「是」というのは世の法則である。絶対正しいものである為に「是」として諸々の法則となっている。
それは、太陽が東より昇り西に沈んでいく日の運行が絶対なもので、絶対正しい為に
日が正しいと書いて是とし法則であるとなっている。
この法則がすべての存在の法則であり、宇宙の法則であり、エネルギーそのものの法則であるとなっている。
絶対であるために絶対正しいものとなっている。
なぜ絶対正しいとしているかといえば、その性質が円運動となっているためである。
円運動となっているために、始まりとか終わりとかが無いものとなって、永遠に変わらないものとなっているためである。
なぜそういう性質なのかといえば、エネルギーの自由であるためである。
その自由をもってエネルギーは円運動の性質となり、太陽の回りが変わらないものとなり是として法則となっている。
これが宇宙諸々の法則である。この法則以外のものは存在せず、存在とならないところは、
無である。無であるために考えることもできないものであり、考える必要の無いものとなっている。
このエネルギーは有限であり無限ではない。無限ではないが閉じられているために、無限のように広がっているものである。
それは様であるだけで、有限となっているものである。
エネルギーの外側は無である。だから、無を尋ねられて答えられるのは口一文字である。
我々には無というのは、考える必要など無いものなのである。
これが理解できなければ、矛盾は尽きない。

宇宙はすべて有的存在であるために、
その中では何でも存在してくる。
だから、「超」と呼ばれるものは存在しない。
超と呼ばれるものは、ただ単に、我々が知らないでいるだけのものである。
知らないために超常と呼んでいるだけである。道理にはあるために存在となってくるものであるから。
エネルギーというのは自由である。その自由でもって存在となっているために、
その自由を正しくもっていなければ、自由に振り回されてしまうのである。
本来無いこともあるようになってくるのである。それが現象の自由に振り回されてしまうという事である。
その状態を単純にして表すと、金縛りという様である。我々は手も足も出ない身動きが取れない状態で、
現象に縛られて、現象の自由に侵されてしまう。それを恐怖という。
この恐怖に侵されないためには、金縛りから解き放されていなければならない。
縛られないようにするには、例えば、
念じるという事をせず、信じるという事に置き換えることである。
このことを知識で思ってしまえば理解されることは無く、法の身に付いた智慧で見れば理解されていく。
法とは是である。円運動である。そのために、無くなることのないものである。無くなるもので無い為に、
恐怖が作られてしまえば恐怖が無くなることが無いとなってしまうが、智恵で得た苦の集滅道も無くなることが無い為に、
無くならないものは無いとして、恐怖を一切遠くへ切り離してしまうことである。それが生命の自由であり、
心の自由であり、エネルギーの自由である。智慧である。
もう一度言おう。
念じる、祈る、というのは、動かないことである。動かなければエネルギーは転換されて行かず、正しい回りとなっていかない。
滞ったエネルギーに侵されて行ってしまう。それに振り回されてしまうという事になる。正しい対応がされないのである。
信じるという事は、信じている為にエネルギーが滞ることが無く、正しく対応できていく。つまり、滑らかに回っていくのである。
そのために現象に振り回されることが無く、恐怖とならないのである。
法は円運動である。エネルギーの絶対性質である。だから、片時も止まることなく動いている。
是を法としているのは、太陽が円運動の法則となっているためである。その太陽の動きを見て絶対であり、そのために、
明日は必ず廻ってきて、信じられるものとなっている。信じられるから安心して生きていけるものとなっているのである。
すべてがエネルギーの法則でもって存在している。
生命もまたエネルギーである。だから、私達は考えなくとも、体は法則によって片時も止まることなく動いていくのである。
そして、その動きはゼロとなっているために、浄化となって回っているのである。
人の行為はすべて法に沿って浄化となっているのである。それが生命の浄化となり、法が無くならないから生命も無くならず、
人は死後の世界の為に生きていくものとなっている。肉体は何の自由も持たず、生命の自由に動かされていくものである。
それが法の自由であり、浄化の自由である。だから、決して誤った浄化とならないように生きていくのが生命の自由である。
死んでからでは浄化となっていかない。なぜなら、肉体はすでに無く、ただ現象の肉体となっているからである。
死後の世界は、生命という心の現象の世界なのであるから。輪廻して、この世に再び生まれてきて、
初めて浄化の行為となっていくものであるからである。
輪廻は法が無くならないから、生命も無くならず輪廻となっているのである。
その輪廻はただ一切が苦となっている。だから、生きていくのは苦しいものとなっている。
その苦である輪廻から抜け出して、絶対変わらない法の世界で生きていくための目的が生命の目的である。
法の世界には、時間も空間も無い。永遠であるために変わらない世界となっているためである。
すべてが円運動による変化が無常となり、それが変わらないもの、無くならないものという常住となっているための法による
物語の世界であるからである。
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待ったなしの状態

2014-04-19 | Weblog
世の中というのは、
弱者という立場に立たされた人には実に厳しい。
往々にして健常者目線にて作られているためである。
世の中は、金ではないと言いながら、金がほとんど指導権を握っている。
金さえあれば悪い人でも好い人になり、
善い人でも、金が無ければくそみそに扱われるものだ。
強面のお兄さんが高級車を乗り回し、こつこつと真面目な人は、軽自動車ちまちまと乗り回す。
金さえ積めば、銀行員はおべっかを使い、どんなによいことを言っても、
金が無ければゴミ扱いというのが人の世。
国会議員を見れば、嘘八百あちこちまかり通り、利益第一主義企業は、これまた偽装偽装の嘘八百押し通す営業。
みんなみんな私利私欲の煩悩社会。この日本にして住みにくくなるばかりで、
馬鹿と阿呆の絡み合いになっている。世界を見ればこれまた更なる私利私欲。
世も本当に末である。
確かに、真実善い人もいて、そんな人には頭が下がる思いであるが、
何せ多勢に無勢、悪人多くして運命共同体となっているのが俗世である。
その悪という運命共同体の為に、人類は今世紀をもって一旦終焉となっている。
天災が頻繁に起きるのは地球浄化の為である。
年々強大になっているのが兆候である。
人類の科学の進化もまったく及ばないものである。それはただ、
現代のはなむけとしての便利に終わるものである。
広大智慧観にして読み取れる現象であるため、
真実100%である。
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智恵の身に付いた判断

2014-04-17 | Weblog
是を身につけた智恵の判断で物事を見ることである。
そうすれば、広大智慧観となって、経験しないことでも理解できていく。
正しい判断ができていく。是を知ることである。そうして行為としていくことである。
人の行為はすべて、浄化の行為である。是と同じ行為である。
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是の智慧

2014-04-13 | Weblog
どうぞ、何度も繰り返して読んでみることが大切である。
そうすれば、誤解していたことに気が付いたりする。
文章は何度も読み返すことが大事である。
云わんとしていることが全く違って捉えている時もあるからである。
人は皆同じことを聞いても、見ても、
処が変わり育ちが違えば、受け取り方も違ってくるものだからである。
般若心経の解釈は、どの本を読んでも間違った解釈がされている。
どうぞ、
是を知り、是によって智慧を得て、智恵の身に付いた解釈で読んでもらいたい。
そうすれば、修行などいらず、信仰が無くても、学が無くても覚られていくものである。
本当にそうである。現知識を滅して、是の身に付いた智慧の判断をすることで謎は解けていく。
必ず覚れる。悟れる。
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心で語る

2014-04-09 | Weblog
心で話すという事が大事である。
精という文字を見て、米が青いと書いている。
米は実れば実るほどこうべを垂れていくが、それまでは、
青々とすくっとまっすぐに立っている。
それは、人生の過程に似ている。
若気というのは、若気の至りともいい、何かと経験が浅いため無知なことが多い。
そのために誤った方向性にあり、高飛車にして生きているものだ。角がってっていて
何かとぶつかることが多い。
怖いもの知らずというか、自己中心型である。
そうして、やがて育つうちに、いろいろなるものから申し示されていることに気づき(ぶつかっていくうちに角が取れていく)、
恐れを知り、我が身を抓って人の痛さを知るようになる。
そうして、精という字は精神となって正しく育っていく。

大人になればなるほど、腰が低くなり思いやることができ、
優しくなっていく。角を落とし丸みを帯びるのである。
だけれども、丸みの中には、隈なく研ぎ澄まされた感覚があり、
柔軟にして外気の刺激を吸収するために、何ら事無きを得て、
円満の侭である。

精神を込めて物事を語り、精神をもって物事に当たれば、
外部の如何なる刺激にも正しく応対となり、好い反応となってまた返ってくる。

老いはそれと同時にあり、苦楽を知ってただまっすぐに物事を見る。
ばかげたことにも只静かに見る。答えを知っているからである。
ばかげたものに、さわらぬ神にという恐れを知っているのである。


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心無い人

2014-04-07 | Weblog
不条理に出遭う。
融通の利かないというのは困ったことだ。
そういう人がたくさんいる。
我が物顔であっちにもこっちにも蔓延っている。
特に行政やら、銀行、病院といったところにそんな人が多くいる。
困った人の役に立つという役目を担っているのに、役に立つどころか、
腹が立つことがしばしば多い。
まさに偽善者、人の作った法律、人の作った法律であるために、
完全さを欠き、それを盾にただ一点張り、威張った目線で社会を闊歩。
赤信号もみんなで渡れば云々の類いである。
本当に思い遣りをもって役目を果たすという人の意は、
自然と人に伝わるものであるのに、建前ばかりで融通の融の字も無い人ばかり。
持って成すという持て成しの精神がなく、安易に語られても成就するということはない。
心無い人ばかりである。
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心の力

2014-04-05 | Weblog
心が関与すれば頭も気が付く。
自然というのは、ただここに何もないようにしてある。
何もないようにしてあるのだから、探せば何か見つかるものだ。
心はエネルギー、記憶の集大成、自然と同じである。
あらゆる可能性があるものである。
気を付けることである。
能力があるのであるから。
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