つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

能力きわまりなく

2014-01-31 | Weblog
時が過ぎ去り、
とてつもなく高度に発達した技術を得た者がいる。
過去も未来も遙か彼方の隔たりとせず、今という不定の現在に置き換える。
混在という中に一定の規則を見出して自由として行き来する。
進化というのは自由自在極まりない。
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学ぶという事

2014-01-30 | Weblog
「金持ちと灰吹きは溜まるほど汚い」と
諺にもあるように、お金というのはきたないものである。
そのきたないものから人は幸せになる。
その幸せが本当の幸せというものなのかどうかはわからないが、
きっとそれは、
貧乏となってくればわかってくる。
きれいなものときたないものとが
よくあらわれてくる。
本当の幸せという
その良し悪しが見られるのである。
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きれいごとでは生きられない

2014-01-29 | Weblog
貧しくとも施して生きる。
お金は無いけどまごころで!

きれいごとで世の中は生きられない。
「同情するなら金をくれ!」というあるドラマでのセリフがあった。
その通りだとつくづく思う。
世の中、お金は必要不可欠、なぜか哀しいかな本当だもの。
同情するなら・・・お金は有難い有難い!
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老いるという事

2014-01-28 | Weblog
物価はすぐ上がる。
税金もあがる。
こんなに寒いのに灯油価格は馬鹿高い。
ガソリン価格も馬鹿高い。
働いても満足に暮らせないほどの収入。
老後の安心としての年金も、支給年齢が引き上げられていく。
いつになったらもらえるのと不安がつのり、もらえる年が来たと思えば
とてもそれだけでは暮らせない支給額。
自分の家だとしても、固定資産などとして税を払わされる。
滞納すれば資産没収。すると、それは借り物ということだろうね。
医者に掛からなくても、健康保険税などとして取られる。
かかればかかるでまた取られる。
黙って家にいても金はかかり、外に出れば出るでもっとかかる。
寝ても覚めても金、金、金がかかって生きている。
介護にも金がかかり、満足な介護を受けようとすれば、
多大な金がまたかかる。
とどのつまり、動けなくなったら死ぬしかない。
死ねという事なんだ。
人の世、
表向きは助け合いと言いながら、金が無ければ屈辱を味わう。
仏の顔も三度までと言うようなもんでね。
生きているという事は、‘苦しきことのみ多かりき’確かである。
老いるという事は、役に立たなくなるということに他ならない。
意思に反して疎まれていくものだな。
美しく咲いてた花も、しおれてきたならしくなり、疎まれて捨てられる。
花の命を見て人の命が知れてくる。
この頃の、
一日のなんと早く過ぎ去る事か。
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まったりと

2014-01-27 | Weblog
浮き沈みながら前へ進んでいく。
前へ前へと進んでいくが、いつしか後ろにたどり着いていた。
それでも前へ前へとただ進んでいるように思えた。
前へ前へ進んではいるのだが、いつも同じ場所にあった。
それでも遠近はあり、はるか向こうに見える前と後ろであった。
浮き沈みながら進むのであるが、それはいつも同じ点で準えていて、
だから、波瀾万丈にして幻のようで不増不減である。

進むという変化の一過程の増減で、それは、相殺してなんら変わらないものなのである。
その時にあったものが出くわしているというものである悲喜交々。
それによって、
以前はこうであるが、今はこうであるという違いがあるのである。

「ある」というのは、変化に富んでいるものであるから感じられるものであり、
変化が無ければあっても無いに等しいが、まったりとしているのである。

常住にして諸行無常という常住に「ある」ものである。
それは、進化が本命である。
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智慧を持て!

2014-01-25 | Weblog
人間というのは優れたものであるも哀しいものである。
人というのは大したものであるも小さなものである。
綻ぶものであり切ないものである。
苦楽は一体にして切り離すことはできず、
悲しみがあるからこそ喜べるもの、不二にしてある。

難行苦行にして為の有無を知れるもので、難行苦行は福の為とはならないと覚れる。

苦にして楽とならず、楽にして楽ともならない。
お陰様として避けられていくものである。

これといって努力も無く、その願い一致するものである。

何ら努力という努力もせず、力が具わっている人がいるものだ。
当初より質があり、「好きこそ物の上手なれ」というように、
努力はしてはいるのだろうけれども好きなことであるために、努力も大して努力とも思わずに、
事がスムーズに成就していく人がいる。或は、遺伝というものがあり、そんなに努力せずとも
ある事に長けていく人がいる。
神業とも思える人がいるのである。
それは努力に努力を積んでなる人と、そんなに努力無くなる人とがいるのである。

釈迦においても、並外れた努力と、卓越した精神力の持ち主だったから悟れたもので、
同じ様に修行を積まないものには、悟りは開かれないものであると説いていた。
しかしながら、どんなに修行を積んで悟りを開いても、死後を知ることはできなかったのである。
それは、人である以上、経験できないものは知ることができないという無理にあったからである。
死後、何百年も経った頃、同じように釈迦の修行法を行じて観音と呼ばれるようになった人達が死して、
同じく釈迦の修行法を行じていた舎利弗と呼ばれた人達に、修行が縁となってその心にあらわれて、
死後の世界を語り説明していった。
それは、釈迦の説いた法が正しいものである証明となったもので、また、生前釈迦も知り得なかった死後の世界を
語り、難行苦行も必要とせず、信仰なくとも心のあり方、持ち方によって修行と同じ悟りを得られるものであることを訓えたのである。

一般大衆を悟りに導くのが神仏の願いである。その願いがあまりにも難解で、根性の優れた者でなければならないとすれば、
大衆を導くには程遠いものである。ごくわずかな卓越した能力の持ち主でなければ救われないとなればその意に反し、
何の意味も無い。
大衆を導くには難解であってはならなく、卓越した者だけであってはならないのである。
釈迦の修行を行じ、菩薩となった人たちは法を見て、難しいものではないことを伝えていったのである。
そのために、当時多くの人達が悟りを開き救われていったのだが、多くの時が経つにつれ、その訓えも正しく伝わらなくなり、
間違った解釈がなされるようになっていった。そのために、以後悟りを開いた人は一人も輩出されなくなったのである。
啓示として語れる人もいなくなったのである。啓示として語ることができなくなったのである。
ただ単に仏の説教は有難いものである読経の為となり、祈るためだけのものとなって、荒唐無稽、意味不明となって、
そのために、仏にしかわからない言葉であり、真言であるとなって、唱えてさえいれば功徳があるとなっている。
唱え祈っていれば功徳があるのなら、今頃みんな幸せになっているはずであるがどうだろう?
真に仏の伝えたいことが伝わっていないために、何の功徳ともならなくなっていったのである。今の現状である。


貧乏にして優れたものが輩出されるのである。
満たされていて知ることなく、
不足にして満足を覚えるのである。

右にして左を示し、左にして右を指すもので
後先もまた同じである。
その様に示し申されていて、
その様に申し示されている。

不幸を望まないものであるためには幸福も望むものではない。
そうするにあたり辛くなくなっていく不思議となる。

辛に一文字を足して幸になるのである。その一文字が智慧の一文字。
智慧をもって自然を見つめていくことである。それが正しい進化である。
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虚空蔵

2014-01-25 | Weblog
人生80年、
ちょうどよい潮時というものだろうか?
お釈迦様も80年の歳月だったとある。
悲しみも喜びも頃合いのほどであり、それ以上でもそれ以下でも
悲喜こもごもよろしくはないものとなる。

生じては滅し、滅しては生じと繰り返しの中から、
やがて、とてつもなく進化した能力(順応)、或は耐性によって10倍もの肉体生命を得られたとしても、
精神、魂、心という生命エネルギーのあり方においては、何ら比べるに値しない長さであり、50歩100歩というものである。
長じて、精神、心をみがき魂を輝かせることである。
その気は宇宙エネルギーと融合するために、自由そのものとなる。
だから、祖となるものであり開祖となるものである。

あらゆる弊を超えて、遮蔽は無く当然遠近も無い。
瞬時を気ままに自由自在である。

是が故にという事を心得る。
虚空であり空虚である。
絶対でありやぶれることが無いのが自由である。

自由にかんじて、こうすればこう、あーすればあー、となるのである。
智慧というのである。それは、絶対から来るものであるために正しいものである。

心を回らし
知恵を絞り
行うことに破れてしまうという事が無くなるのである。

人に習うのではなく、虚空に習い自由をつかむことである。
それが免許皆伝となるものである。
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む・な・し・く・あるなし

2014-01-23 | Weblog
とめどなく
ただ過ぎ去るものだから、
ただ過ぎ去るものだから、
ただ過ぎ去るものだから、
みんな一瞬、
ただ
記憶の中の永遠に、
残るものと残らぬものとに。
足早に今日一日も、明日もとして
ただ過ぎ去るもの。あるなし。
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愚禿

2014-01-22 | Weblog
肉を食べ、酒を飲み、
妻帯している。
もっともらしく説教をして暮らしている。
僧侶という職業。
派手という色彩を持たせないでいるものの
高価にして煌びやかな衣。
師と弟子、階級意識を持ち多く弟子を侍らす心情。
‘今の’という僧。

なぜ戒律があるのだろうか?
毎日勤行して功徳がありますか?

糞雑衣というのは、汚い着衣というのではない。
ぼろでも清潔であるという着衣である。

糞雑衣を身に纏い、肉は食せず、酒は飲まず、妻帯もせず、
よく経の説くところのことを理解して読誦し、供にとして集う。
もちろん、奉仕にして見返りは求めない。献身にしてあるものである。

信じるというものを見てはいても、見分けることができないでいる。
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摩訶般若波羅蜜多心経

2014-01-21 | Weblog

観自在菩薩行深 般若波羅蜜多 時照見
五蘊皆空 度一切苦厄
舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識 亦復如是
舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減
是故空中 無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法
無眼界 乃至無意識界 無無明 亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽
無苦集滅道 無智 亦無得 以無所得
故菩提薩埵 依般若波羅蜜多 
故心無罣礙 無罣礙 故無有恐怖 遠離一切顚倒夢想 究竟涅槃
三世諸佛 依般若波羅蜜多 故得阿耨多羅三藐三菩提
故知般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 能除一切苦
真実 不虚 故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰
羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提娑婆訶 般若心経

舎利子に観自在菩薩が降臨、舎利子の口を借りて語られているものである。
舎利子として語られたところから、以無所得までが自在菩薩の啓示である。
このことを理解してなければ、間違った解釈となっていく。
どうぞ知恵をもって解いていただきたい。
もし、正しく理解されたなら、心経は最強の盾となり功徳である。
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