つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

人でなしを見極めろ

2022-02-26 | Weblog
茶番戦争を仕掛けた方は、その思惑が外れて企みが露呈する。
悪事の自業自得は、破滅である。
悪いものは反省がないために、そのまま地獄へと落ちる。
地獄の世界は、反省のない世界であるために、永遠にそこにとどまる苦しみを受ける。
なぜそうなったのかを知ることがない。
騙し続けた世界は300年ほど続いたが、朝の来ない夜がないように、悪事は終焉を迎えている。
表向きは善人の顔をして、心は悪人であった。
我が国は、過去の戦争での敗戦国であるために、勝者国の傀儡にある。
勝者の国の誤りは、敗者の恐怖に二度とさらされないための、極度の防御を行った。
行き過ぎた防御は、敗者を家畜化することでる。まさに我が国は、まんまと隷属しなければならない罠にはまり、
なんでもお伺いしなければならない現状となった。
奴隷のように。
勝ち誇る者は、その驕りにあずかり過ちを犯す。天使と思えたものが堕天使となったのである。
その堕天使は、世界の警察として、権力をわがものにふるいだす。
善人としてのカムフラージュ(変装、偽装)して裏の顔を持ち、冷酷なことをする。
家畜にされた者たちは、
そのカムフラージュに目をつむり、見ないよう見えないようにして騙され、従順なる犬を装う。
そのうち気を失い、善悪転倒してしまう。すべからく悪が善となり、気違いとなることにさへ
分からなくなる。
直接的に悪事をなさなくても、それに従い加担するのは同罪、報いを受ける。
傀儡戦争は直終わるが、その後、我が国も被害を被るのは必須である。
特に、中枢とされるところが解体となる。
導くものの誤りは、それだけに重罪となる。

表向き争うことはいけないが、不意に襲われたら誰しも抵抗するように、
当然の成り行きでことは進んでいく。
ここに一つ、小さいことに目を配り、
虐めるものの嫌らしさ、いじめられるものに非は無いとすることは大事である。
さて、
この世の中は、諸行無常である。
変化していくことが常住である。
生命も然り、ただ私達は生死という変化していくだけである。
そこに進歩という進化がなければならない。それも浄化に行き着くという進化である。
道理で生きれば、勘が働き、直感が冴える。見えないものが見えてくる。
諦かなる映像が心に映る。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

騙す現実

2022-02-25 | Weblog
テレビの影響は大きい。
映像は作ることができる。
ある部分だけを切り取って、また、
繋ぎ合わせたりといろいろ加工することができる。
伝えたい側の都合によって編集するために、
真実に嘘が混じる。嘘ではない真実が嘘となったりする。
嘘であることが真実となったりして、仮想現実が作られる。
見破るには、素朴にあることだ。
その時にある感受。
今は未だという流れを超えていないとする知恵。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

克つ

2022-02-23 | Weblog
日々、日常のことを満遍なくこなす。それは、
日々のことながら、自ずと浮き沈みはあるが、
それなりにも満遍なくやり通すことが最後を克ち取る。
そつがなくというわけでもないが、ただ行うべきことを行うことが、最後に克つものである。
怒りはあれど面に出さず、憂いはあれど傍らに置き、
喜びは大いにはしゃぎ、あとはただ黙して頷く。
そういうことが克つ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

本当の春が来る

2022-02-22 | Weblog
暦の上のおよそ一月弱遅れで春は来る。
今までにない新しい春である。
このぞろ目の日より、春というのはウキウキワクワクな気持ちになるものだ。
兆しとして、2歩進んで1っ歩下がり、3っ歩進んで1っ歩下がりながら、こんどは 
ときめきは進みっぱなしとなっていく。想像もしなかった流行り病が起こっったように、
今度は、想像もできなかった春の景色がやってくる。
実に、私達の常識は、非常識だったと思う。
信じない人と信じる人が入れ替わり、のち10年程の束の間という世を、私達は謳歌する。
ささやかながら、目覚めの償いであると思われる。
約10年後の時間は、新たな人たちが進化した形でこの場にいるが、
当然、そこには私もあなたもいる。進化した意識のかたちで・・・。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

とある記事の抜き書き・生きるヒント

2022-02-20 | Weblog
「かつて、ここに人が住んでいた。多くのドラマがあった。幸福な人もいれば、不幸な人もいた。
幸福な時もあれば不幸な時もあった。人々は話し、笑い、怒った。泣いた。苦しんだ。
人の出会いもあった。別れもあった。愛し合った人もいた。憎しみあった人もいた。
裏切りもあった。傷ついた人もいた。
大切なことは、ここに今の私達と同じ人達がいたという事。
あなたがいて、私がいたという事。言葉や習慣の違いなど些細な事。何が違うというのか。
野に散る頭蓋骨を見ればよい。彼も彼女も、一度はこの青い空を見た。広い星空を見て、遠い宇宙に思いを馳せた。
私達はどこから来たのか、それを問い続けた。なぜ私達はここにいるのか?そして、何のために?
私達は死んだらどうなるのか?誰がそれを教えてくれるのか?その人はどこにいるのか?
長い時間が過ぎ、いつの間にか人は消えた。
長い時間が過ぎ、新しい人々がそこに住んだ。
新しい笑い声、新しい悲しみの声、新しいドラマが再び始まった。
『人は来りて、また去る。人来りて、また去る。かくて私のあなたの、彼の彼女の、そして彼らの人生が
あたかも何事もなかったかのように、あたかも何事もなかったかのように』
もう一度、廃墟を見よう。そこにいたはずの私やあなたを見よう。
そこにいた私やあなたはどこへ行ったのか。私やあなたはどこへ消えたのか。
いやいや、どこへも行っていない。消えていない。
彼はここにいる。彼女はここにいる。それが私である。それがあなたである。
失うことを恐れてはいけない。死ぬことを恐れてはいけない。
あなたは何も失わない。あなたは消えることもない。
長い時の流れのあと、私は生まれる。あなたは生まれる。
違った時代の違った場所で。

命は自然の恵みを受ける。命は自らを繰り返す。
あなたは違った言葉を話す。違った生活をする。が、
それがどうしたというのか?些細な事。
今の私、今のあなた。同じ私がそこにいて、あなたがいる。
その私が青い空を見る。星空を見る。
私達は、かつてここにいた。今もいる。私達は、いつかここにもどってくる。
あなたがどこに住み、何であるかは問題ではない。あなたが誰であるかも問題ではない。
私が誰であれ、また、何であれ私達は今ここにいる。
分子と光の織りなす世界で生きている。
星々が瞬くその瞬間に生きている。
これを奇跡と言わずしてなんと言う。
人間に違いはない。人間の歴史に違いはない。
傲慢になってはいけない。貪欲になってはいけない。
私やあなたは、謙虚になろう。生きていることに謙虚になろう
このとき人間は、動物から離れ、精神的な存在となる。
これこそが、その答え。なぜ、私たちが今ここにいるのか、それこそが、その答え!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

諦観

2022-02-20 | Weblog
忍辱を超えた人は朗報になる。
苦しみもいつまでも続くことはない。
喜びはやってくる。
冬が必ず春に変わるように。
一喜一憂は人間だもの、哀しい時は憂えるものだ。楽しい時は大いにはしゃげ。
「人間万事塞翁が馬」と知りつつも、取り入って才能があるわけでもなし、
ワクワクして生きたいものだ。人間だもの、「まっ、いいか」として
諦めること。
あるがままの人生を、ただ「ありがとう」と言って、感謝して。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

表裏一体で存在

2022-02-19 | Weblog
街の景色は、どこもマスクをした人達。
3年前は想像もできなかった光景である。
この想像もできなかった景色が、
今や当たり前となって、誰も不思議がらない。
とてもおかしな光景であるにもかかわらず、疑問に思わなくなった。
洗脳教育は、あたかも自ら進んで行うようにするために、
全て自己責任として縛る。
従順というのは奴隷である。自分で考えることをさせずに、
みんなと一緒という路線を歩ませる。従うことは自由を奪われることでもある。
ただついていけばよい楽を与えられるが、それは愚かにも不意を突かれる。
おかしな景色はこれからも現れる。
それこそ、想像もできなかった景色が突然にあらわれてくる。
それは、多くの喜びと、少数の落胆とに分かれるが、共に驚嘆する。
嘆は、共に正反対の意味を持ってあらわれる。

「あたおか」は逆転現象という不思議にあった。

称賛は、これから10年の間に、それぞれの意識の中に、報いと報われとに分かれて現れる。
その違いは、意識が生命エネルギーであることを知っている人は報われて、
知らない人には報いとなって現れる。
善の正義と悪の正義の称賛という違いである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

死ぬために生きている

2022-02-17 | Weblog
縁起である。
自身に気づきがあるなら、相応の現象が発生する。
もう見れる者には見えてきている。
自身の意識の幻想は真実である。
死んでいく身にありながら、天国と地獄の分岐点は今である。
この一年、はっきりと知れてくる。
善いものは報われるのである。
悪いものは報いるのである。
道理は絶対である。
なにせ、生命に死は無いのであるから。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

時の成長

2022-02-16 | Weblog
暦は春だが、季節はまだ冬。
凡そ一月遅れで巡っている。
その時間差で迷わされるが、戸惑わなくてもよい。
まごまごせず初心を信じることである。
感官研ぎ澄まし、聴く耳を持ち、見えるものの影を見る。
姿形には似ても似つかない様相が躍る。
智恵から起きて勘は的を射る。
大人というに、表と裏がある。
私達は、もう子供ではない。
表裏の区別が分かる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

不可思議な情

2022-02-15 | Weblog
挑発には乗らない。かろうじてには見えるが、軍事力戦争は起こらない。
人間は学習能力がある。
感情というある意味不可解な意識を持つ。
起伏する様々な刺激を受けて、それぞれに対応した果に学習し、
応変に対応する感情を制御することができる。
左右それぞれを繋ぎ合わせて、時に応じて感を働かせる。主に直という感である。
それは、普通にして想像もできないほどの能力である。
私は、観音力というにふさわしい能力であると思う。
必須、それは的を得る。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする