つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

病むという自由にして不自然となる

2014-06-30 | Weblog
是は自由である。だから、
何でもある。だから、
不自然という事もある。
でも、不自然というのは一時であり、
崩壊してしまう。
自然ではないためである。それは、
道理に非ずという事であるためである。

相対するものがあり、
凹凸がある。
正反対があって成り立っている。
凸凸だけ、或は、凹凹だけという合わさり方はあっても、
その中から凸凹は望めないのである。望めば無理となり
泡沫にして崩壊のみである。

対となって平坦であり、平等、丸くおさまっているのである。
それが道理であるが、自由がある。
その自由は一時をもってある道理である。
だから、不自然は認められるがそれまでである。
それを超えて自然とすることはできない。
不自然極まりなくなれば当然消滅してしまうことになる。
自由であるが、道理にないことは成り立つものではないのである。
泡沫にしてあるのみである。
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誤った解釈

2014-06-29 | Weblog
新聞を読む、雑誌を読む。
近年病に倒れて闘病生活を強いられる人の多さに気づかされる。
特に、血管や内臓細胞の炎症による病が目立つ。
その病、高脂血症、○○梗塞、○○硬化、うつ等々、弾力性、柔軟性を失い、腫れ上がり、また、
細胞壁が脆く破れる状態にある。心まで蝕まれる。

数多くのストレス状態に置かれて、様々な条件、
因みに縁
重なり合わせて、免疫が下がり対処することができずに、
病発症となっていく。

体に良いものをとして、様々な健康食品が販売され、
ストレスに負けない体づくりが叫ばれているが、何でも繋がりあって成り立っているもので、
いくら良いものとしてもそのもの一つでは何にもできない。様々があっての効果効力である。
まして、威力のあるものを絶え間なく取り続けていると、逆の作用も与えられる。
継続は力であるが、配分は必要である。
たとえば、優れた者達だけを集めて優れた果が得られるかというものでもないのが自然である。
自然は優劣は無いが、優劣とみる部分が合わさって成っている。強弱はその時の合わさり方である。

医食同源、理に適っているものであり、出来るだけ自然のままの食材を
自然に摂っていれば医者いらずとなるのであるが、
様々に加工され、人工添加物で食味をよくして、その一点に重点が置かれ、
すなわち、売り上げに通じるものである為に、挙って力が注がれる。
体の中に入って、それらがどのように分解処理されるかをあまり考えずに作られるのである。
作物生産、野菜や果物にしても種無し○○という手間なし、食べやすさ、などが作られ、
遺伝子操作で作られたりする。大量生産、或は、季節外れのものなど、売らんがための操作であるために、
不自然か否かという事はあまり考えないで作られる。
不自然であるものはやがて障りとなって現れてくる。それを心得ていなければ、何かと後で不都合が生まれてくるものである。


よくこんなことが言われる。口チョコレートで、甘い言葉と暗い道などと、
その裏腹なものを皮肉れはするが、口当たりの良いものは好まれる為に、迷い惑い騙されたりするものである。
そのために、商売ともなれば売上第一に考えられ、口当たりの良いものだけを作ろうとする。
そのために、特に甘いもの(美味いとするもの)が喉元過ぎてどうなるのか、
その場の好ましさに騙されて、後々の後から来る
好ましからざる状態にまで気がまわらない。後々の事だからである。また、喉元過ぎれば熱さ忘れるで、
苦い思いをしても人は忘れて、また同じ過ちに陥ったりするのである。
して、近年、
命を脅かす病が数多く蔓延る。
それが、日頃の自分の行動にあることも知らずに。
食べ物は、商売として作られるものには、見かけの良さと(格好と綺麗さ)うまみであり、
健康的を謳いながらも、そうではないものが多い。例えて、
植物と付くものは健康に良いものであると信じているが、そうではないものも多い。
名指して、植物油脂であるマーガリンというものは、バターのように常温にして固まっている。
植物油というのは常温では液体、それが、動物油脂であるバターと同じように固まっているのである。
それは不自然、、人間が考えて加工したもので、口当たりがよく価格も安く扱いやすくしたものである。
そのために、体に良い悪いは特に考えず、植物性=健康的、しかも安くできるとして様々な食品に使われる。
そして、その名も様々に用途によって変えられてつけられる。加工油脂、ショートニング、ファットスプレット等々である。
これらは、自然界に無い化学構造を持ってしまう。プラスチックに似ているために、プラスチック食品と呼ばれていたりする。
これらの油脂加工された食品は、プラスチックでコーテングされたようになるために、分解されにくい。
体に入って細胞炎症を促進する性質をもち、悪玉と呼ばれる物質を喜ばせたりする。
最初に掲げた病の原因でもある。

体の中は意思に関わらず、微細なものに分解して取り込まれていく。
自然にない化学構造をしたものはどう処理したものかわからない。そのため、なかなか外に排出されにくくなる。

不自然なものは当然体にはよろしくない。
そのもの一つでは微量残留であっても、あれにもこれにもと含まれていて、
結局かなりの量を取ることになる。それも毎日であるとなれば
影響は出てくる。
あの人が死んだ、あの有名人も病に倒れた等々、悲報は頻繁である。
ミクロなもの、事、マクロなもの、事にしても、
人の誤った思いで、あちこち不都合が現れてきているのを省みなければならないのであるが、
危機感はまだ薄いままである。
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恥知らずの恥さらし

2014-06-28 | Weblog
年の功、老いてこその為なのに、

若いが故の恥はかき捨てられるが、
老いて尚恥知らずでは情けない者である。

私は貧乏だから、
浅ましく生きてても仕方ないと、ケチにして生きてる人がいる。
施されることは喜び、施すことは毛頭思わない。
同じ人間であるにしても、品性というものがこんなにもなく老いる人がいて、
ますます浅ましく貪欲になる。

何にしても、
気づきが無いというのは甚だ救いようが無く、救われ難いものである。

そうであるのに、

そんな人だから、我さきの救いを欲しがり、
救われて喜ぶ姿を自分にしか求めない。
して、ずーっと不平不満の貧乏、嘆いてばかりのそれまでである。
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自浄其意

2014-06-28 | Weblog
自然の猛威を思い知らされる。が、
自然の猛威とは、日常にあるいつもとは少し違ったという異常な振る舞いというのではない。
そのすごさ人知をはるかに超えて絶体絶命の力がある。

昔も今も自然の脅威は変わらずにあるのだが、
その威厳さは、環境の汚れの増減に反応して現れてくる。
自然を汚すだけでは当然排除されるのが道理である。

自然は、エネルギーの円運動という法則によって生じているもので、
故に、浄化の性質となっている。あらゆるものが一旦ゼロに戻り、
再びという繰り返しによって進化している。
その変化は不増不減であり、常となっている。

季節があり、夏至と冬至があるように、、その長短は対等なもので、打ち消し合って釣り合っている。
どちらかに傾きかけても、一方となることは無く、その時の対処増減で元に戻る。
常に対等にして成り立っている自由を持っているのである。

悪が増えればそれとなく対処に与り、常に清らかという浄に帰す。

さて、人の心とその行為に対処して、自然は示し申し諭す。
その促しに疎ければ、絶命は避けられないものである。
それは絶対である。是であるためである。
是が法則であるためで、自然の法則、エネルギーの法則であるためである。
その自由によって、人の悪のエネルギーに対応して、今までありえないという状況を
少しづつ、そして頻繁にと現れてくる。

一人一人の心は小さいものであるが、集まり、大衆ともなればそのエネルギーも大きい。
自然に多大な影響を与えてしまうものである。
それが、我儘なものであれば、言わずと知れず自然は反応するのである。
法則に沿わないものは淘汰されるのである。浄化である。
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その器にある人

2014-06-27 | Weblog
現世、裕福である身分に与えられている使命は、
布施である。

自分の努力によって裕福になったとしてある人生でも、
糾える縄の如くの経験値であるに過ぎない。
その時の振る舞いの試しが計られている。
縁起の振り分けである。
あるいっときの事柄に起源して、
そうして、幸不幸時適切に善であったか否か。
よく正しく浄化となっていたか。
生命が人格を判断されているのである。
その責は多大にして、貧困時の比ではない。

現世、貧困に喘いでいて、その意味は、
我が身を抓っての人の痛さを知る、慈しみである。
その使命にして、腐ってばかりの一生では、
何ら見出せずこの無駄を貪るだけである。
自分の怠慢にしてある人生でも、
糾える縄の如しの経験値に過ぎない。

経験則と経験知は善にして適切であったか。
現世、その身分に適切な浄化となっていたか。
それを知るに、是をもって計れるものである。

意味の無い人生なんてありはしない。
そう思うのも人の心である。
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特技

2014-06-26 | Weblog
師となる人は、
最初
誰に教わるのだろう?
そう、誰からも教わらない。
ただ自然から教わるのである。
自ら自然に学んでその資質である。
それが師となる人である。
そうでなければ師とはなれない。それも本物という師である。
稀に、諭し示されて学ぶ人がいるのも
師となるものである。
感性豊、知恵ある人の優れ。
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紛れるな

2014-06-25 | Weblog
年老いたらそれなりに賢くならねばならない。
いろいろな経験を積んできたのだから、
それなりに知恵を付けていなければならない。
老いるというのは難しいことなのだ。
単に年を取るというのは老いぼれである。
特に、我が身を抓って人の痛さを知っていなければならない。
そうでなければ老い耄れも老い耄れ、慕われるという事は皆目ない。
年相応に礼儀を弁えていないのは軽蔑に値する。
若気に至る年寄りというのは情けない者だ。

どうぞ、その短き命、人の為を思い尽くしなさい。
この上なく自分の為となる方法です。

人は、自分が一番愛しいものです。だから、他を優先として適うのです。
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経験の識

2014-06-24 | Weblog
よく知恵を身に付けていれば、
自然に前が見えてくる。
誰に教わったわけでもなく、
自然と示されてくるのである。
して、それがよく道理にかなっているもので、
案ずるという思いが微塵も生じない。

威風堂々、何やら臆せることも無く、
普通にしていられるのである。
して、また、そのとおりになるのである。
信望厚く弛まないものである。

個の経験の識である。
是を知る人である。
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窮める

2014-06-23 | Weblog
本物の○○というのは、
何もそれなりの学校で学び
資格を取得したからといって先生というのでもない。
本物というのはそんなところにはいない。

感覚というのは優れた感性である。
その感性にして先生となるもので、
人から学び取れるものではない。
個の感覚である。
窮める知性。奥義。
そういうところにある。
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魂を込めて

2014-06-22 | Weblog
ただただ、いつも忘れずに魂を宿していれば、廃れることは無く
甦って来る。
復活というのは、忘れないというところにある。

心に魂をもってなんにでも当たれ。
難易というものはなくなっていく。
難儀という事が無いのである。

その気は法の気と何ら変わらない為に、
瞬時、正しく解していけるものとなって、何れにも
礙げられないものである。
それを思議のいらない心と言い、不思議という。

さて、般若心経は大衆の為に説かれたものであり、
大衆に語っているのである。
仏が一修行僧に説いているのではない。
一舎利子という修行僧に乗り移って大衆に語っているのである。
だから、難解なものではないのであるが・・・。

誰に教わることなく、事の様が見えてくるものである。
それは、魂を入れて見るのである。それは、
既存に囚われることなく、心を自由に解き放ち見ることである。
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