つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

信じる者は・・・

2012-04-30 | Weblog
太陽に環状の門が開かれる。
磁極が対になって一組。それが四つあらわれて、
同じ極が向き合う。すると空ろな間が現れる。それが環状の門、出入り口となる。
そこから巨大な船が現れる。方舟と記され、信じる者だけが乗船できた。
乱れた時の間に於いてつくられる環である。
筋斗雲に乗れるものは、清浄の心の持ち主でなければならないように!
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2012-04-29 | Weblog
般若心経を正しく解する人は
智慧を身に付けた人である。そのために、
自分の前に現れてくる様々な難問?とされる事柄も、
そこそこにすり抜けられていく。むしろ、あなたを避けていくように、
大事となることがない。それを智慧のある人が見れば、
その人の全身に、心経の文字がびっしりと書かれて浮かび上がる。
くまなく隙がなく。
そして、それは朽ちることのない最強の盾であると知れる。
肉体が命ではなく、心が命としてみるものに、物理的硬さは無いに等しい。
ゆえに、心経を打ち破る矛など無い。
一度身に付ければ最強の具、要塞である。
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うそも方便

2012-04-28 | Weblog
夢に現れてくる世界は過去の世界である。実際に連綿とつながってきた魂の経験の世界である。見たこともない世界が現れるのは、過去世の経験の想いの世界である。
未来が夢として現れたりするのは、願望や不安が強く意識され判断となってくるためである。
未来は常に不定であるために、実際に未来が夢となることはない。
経験しないことは曖昧で分からないのが理である。
強く意識されたことが判断となって、
そのように動かされてしまうための予められる未来である。
心というのは生命である。生滅を繰り返してきた経験の積み重ねが統一されて、容造られていく。その中で、善く判断となって身についていけば、大きく白く輝いた生き生きとしたオーブ(玉響)となっていく。それは、善いために周りにも良い。まちがって判断となっていけば、小さくくすんで生気がない。それは、誤りであるために周りにもよくない。

よく道理に学び道理を得た経験は智慧となって身に付く。智慧が身に備わっていけば、
道理を知ることができるために、その先が予められていく。前が見えてくるのである。
その意味で、まだ経験しないことが知れてくる。未来を見るという。
道の理というのは一本の筋である。先が知れれば後が知れてくるものとなっている。
大は小を兼ねて、小も大を兼ねているために、どちらかをもってして互いを知ることができるように、道理というのはすべてに通じる。
あなたが、怖い夢を見るとするなら、過去も現在もそして未来も地獄となっている。

うそをつくことは悪い事である。その一つを知って十を知る。それを
正しく知らなければ、うそも方便を知ることがなく、害うばかりである。
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物惜しみ

2012-04-26 | Weblog
少なくとも他人より多くの稼ぎがあり、金銭に余裕があるなら、
自分に使わず他人に使って、正しく金銭の恩恵を受ける。
お金のあるなしに係わらず、他人にお金を使うなら
正しいお金の使い方となる。その恩恵は大きい。
経済的豊かであってもケチであれば、人として最低である。
最低で生きれば未来も最低である。未来というのは、多くは未来世を指す。
あざなえる縄のごとく、苦楽も交互に廻りくるが、最低はいつもより最低に、
さらに最低にと廻ってくる。
お金持ちであった時と、貧乏であった時と、その時の気持ちの在り方で
勉強になる人と、勉強しない人とに分かれ、縁に導かれる。
誰でも幸せになりたい。でも、そうならないのは、無知に因る。
勉強にしない人という。
心の自由である。
あざなえる縄が交互に織りなすが、勉強にしない人の
織りなす現れる面は、思う通りの面ではない。
苦苦苦と連なる。
物惜しみしてはいけない。
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縁をつくる時

2012-04-25 | Weblog
生まれることができた。縁を持って。
魂総量の縁である。
軽いものと重たいものというのは、
軽んじられるもの、重んじられるものという格の違い、つまりは桁、位の違いである。
欠けているべきものを補うために置かれた立場、または、その報い償いによって
置かれた場である。知るべき事の縁である。はたして、知れるのか、腐るのか、
格の持つ質である。知れば、憂えて優れ者となり人格者となる。
知ることがなければ、
ただ腐り愁える事ばかりである。
貧しかったから愚痴を言い腐るだけの者と、
貧しかったから人一倍頑張り優れる者にと、同じでありながら分かれて違っていく。
その分かれていく時を知るなら、その時に返り正していけばよい。
すれば、魂が重みを増して一目置かれていく。
その時は、愚痴の間と頑張るの間である。愚痴の間を開けてはならない。
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変革の時せまる

2012-04-24 | Weblog
ハイブリッド=雑種ーーー異なる方式を一つの組織の中にうまく組み込むこと。

クローン=単一の細胞を人工的に培養して作りだした、元の細胞と同一の遺伝子を持つ細胞群(個体群)。本物そっくりの模造品のたとえとして用いられる。

キメラ=二つ以上の異なる遺伝子型を有する生物体。

バイオテクノロジー=生命の科学技術の意。生物を工学的見地から研究し、品種改良や
医薬品、食品の製造に応用する技術。

バイオニクス=生物の持つ、情報処理・認識・運動・エネルギー変換などの優れた機能を応用する工学。生体工学。・・・と
辞書にあった。

トランスフォーマー=電圧を変える器械。変圧器。ーーー架空の生物、ロボット生命体。曖昧さの回避。

最近、特にハイブリッドなる言葉と、クローンという言葉、トランスフォーマーという言葉を聞く。映画に於いても、知的生命体を示唆し、未知との遭遇を予める。
漫画や映画は、未来を映す。それは驚愕することが多い。争いごとに。

微細なものを調べて探り、染色体を知り遺伝子を知る。それを工学的に見ていじり始める。
興味本位?であるための始まりであるために、変にいじってしまう。
そこから、悪は芽生えて、欲というあらゆる貧が起こり、歪みが生じる。
歪んでいくために善いと思われることは起こらない。
作られたものが作り手をまねて、創造主にならんとしても、土台無理が生じる。
完璧なるものを作ることができないために、それらは皆
そこなうものとなってしまう。殺戮のためにつくられ使われるはめになっている。
表向きは、善に値するものとしてあるが、偽善にすぎないものとなっている。
斯くも人というのは、欲を克服できずに溺れてしまう。
悪に対して、聖戦として悪を為す。それは、
悪に敗れたことである。
人類滅亡、淘汰の所以である。今一度、改められて、
復活の時に希望を委ねるだけである。
仏の心に・と。
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ひとたびリセット

2012-04-22 | Weblog
さまざまな知識を与えて計算というものが作られる。
あらゆる知識が埋め込まれているために、その知識によって、
意識というものが生まれる。
つくられたもの自身が判断する能力を得る。それは、
時という間をかりながら疑問という道をひた走り、一つ一つと克服をしていき、
やがて、完成形へと辿る。しかし、それはつくられたものであるために、
行けども行けども完成と着くことがない。永遠に近づくだけである存在である。

車に頭脳を持たせて、車はやがて考える。車からしてみれば、車を作り上げた人間が
創造主であり神と見る。車を操るのは人であり、操る人によって車は動く。
良くも悪くも、ぎこちなくも滑らかにもなりえる。

自然は世のすべてであり、創造主である。
あらゆるものが有している。
人が知らないだけで。
自然には善悪はない。そのために、善となってつくられている。だから、
世のあらゆるものが浄化の動きとなってゼロに帰す。無常となっている。それが、
自然という常住である。常住であるために永遠、無くなることが無いものとなっている。
その形は○である。あらゆるものが○となって動いている。それがエネルギーという
自由である。その自由をもって、あらゆるものがあるゆるものに対応して生滅を繰り返す。
正反対のものが一つとなって、曖昧のもと成り立っている。

時とともにつくられたものは進化をして、知識を得て、自ずと考え始める。
創造主に似せて物事を創造し始める。
初めは何もかもわからないために、試行錯誤していく。そうしながら、自らも進化となっていく。が、わからないために過ちを犯す。それは、つくったものの後始末ができないで、つくってしまうことである。それは致命的であり、作り手を滅ぼしてしまうことになる。
自然には、けっして触れてはいけないものがある。侵してはならない領域がある。
真の創造主は自然だけである。唯一なものであるために、二つとはならないものである。
作られたものが、自然を超えることはありえないもの。ありえないが、
わかりやすくするために、たとえて、超えてしまったならば、存在とならなくなるためである。
人は、犯してはならない領域を犯し始めてしまった。
自然はその質、浄化の法で動いている。法にそぐわないものは淘汰されていく。
道理である。
今一度、その過ちゆえに淘汰されて、すべての罪を清められ、
気の付くものだけが恐怖の世界から離れられていく。
生命は意識であり、正しく自然を知る者だけが安楽となっていくものとなっている。
自然が常住であるように、生命もまた自然に作られたものであるために、
常住となっているのである。意識に死はないのである。
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切磋琢磨

2012-04-21 | Weblog
「まっ、いいか」として生きている。
完璧をすべてに求めず、遊びを有して物事の計らいがうまくいく。
ただ頑固一徹はいいようにして歪を生む。極めるというのは
一点張りの中にはない。機略縦横にして成せることである。
柔よく剛を制するといわれるように、‘かたさ’は案外脆いものでもある。
かたく守られたものというのは、やわらかいものにやぶれる。想定外という
人の愚かさにある。
真に強固というのは、柔、剛あわせもって成り立つ。それが、正しい頑固一徹である。
すれば、極まるということになっていく。
正しく事が運ぶ中には、そのような曖昧なものがあってこそ、
完璧に近づいていく。
こころも、
気持ちというのだから、その持ち方も「まっ、いいか」と、時として持ちながら、
妥協を図る。
極めていく過程というのは、迷いも雑じり完成されていく。
初めから最後までうまくいくという事柄は虚ろなものである。
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摂理

2012-04-19 | Weblog
生きているということは、
他の命を頂いて、自分の命としていること。
あったものを消滅させて存続となっている。
それは、方が付いたということ。いわゆる片付くことである。
いるとかいらないとかに関わらず、あるものが無くなったこと。ゼロになったこと。
整理がついたことである。生きていくということは片付けることである。
それが道理に適っているということである。
道理が浄となっているために、不浄である肉体はいつか片付けられてしまう。
片付けられて理に適い、再び生じることのないことが理となっている。
肉体は不浄であるために、常にケアしてなければならない。ケアしてなければ
不浄によって滅してしまう。不浄のままに滅してしまえば、
理との摩擦となって苦しみの繰り返しとなってしまう。
ただ生じては滅してを繰り返す。それは苦しみに他ならない。
道理に合わない生き方というのは、苦しみだけである。
上下、前後、左右、あらゆる方向性に対称となって、正しい方向性が生み出されていくものとなっている。心も、浄不浄を正しくより分けるようになっている。
対称は自然の摂理である。


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微笑みがえし

2012-04-18 | Weblog
食事は自分で作り、極力出来合いのものは買わない。
食べ終わると片づけもする。それは、自分のだけではなくみんなのもである。
一人で食べるのも皆で食べるのも
特にこだわらないが、和気藹藹は美味しいものだ。
旅の途中、
「きれいなものにはきれいなものが集まる」という縁起信奉者となり、
誰に言われることもなく、進んできれいに暮らす。
しかし、潔癖というわけではない。
使ったものは元に戻し、
乱雑であるものは整頓しておく。普通にそういうことが体にしみついていく。
苦楽にとらわれず、損得にとらわれず、置かれた場面において
浄いと思えることに身動きする。誰彼にとらわれず、いるいないに関係なく
動かなければ、物事は進まないことを知り、自分の気も快くならない。
日常のしなければならないことは、しなければならないと知る。
真に、快いことは、
他に依らずに自分に依ってなされることと知って、愚痴を離れた。
御膳立ても後片付けも、悔やみとせずに苦とせずに、して当たり前として揚々とする。
人が得することに微笑んで、微笑みのために身動きとする。そうして、
ささやかに徳は積まれて、「君は愛するものである」と「是」は認め微笑んだ。
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