つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

慧・さとい

2017-04-30 | Weblog
本物という師となる者は、誰にお教わることが無く師となるものである。
エネルギーの本能より感受し、独学するものである。そのために繊細である。
一風変わって気概をもつのは、エネルギーの本能である。
生まれつきというのは、生命エネルギーの性質であり個性である。
個性というのはエネルギーの自由から成っている。
その自由が外部の刺激に正しく反応していれば、先見の明という事が開かれてくる。
つまり、自然と知れてくるのである。それが、端的に言えば智慧というものである。
智慧は経験の識である。それは、一を知ることにより自ずと十が知れてくるものである。
不思議な事としてある。因みに、不思議というのは、思議不要のことである。
あれこれ思い煩う事が要らないことという事である。つまりは、即断できるという事を言う。
道理をもって道徳を知るために、不可思議なことが無くなっていくのである。
この徳を説き訓えているのが観音経である。妙法蓮華経の二十五番目に説かれている
観世音菩薩普門品偈である。この経は、エネルギーの法則(是)をよく理解し、
諸々の法則となっていることを覚り、
その法則(智恵)を身に付けることによって得られる様々な法力を説いたものである。
瞬時に思い通りの現象を操れることを説いている。つまり、法を身に付け観音となった人の力を
譬えに表して教えたものである。法を身に具えることによって誰でも観音となれる
者であることを教えたのである。その身に具える方法を教えたのが般若心経となっている。
誰でもわかるようにと簡単簡潔に述べられているのである。そのために、
最も短く説かれたのであるが・・・

エネルギーの質には善し悪しがある。それを優劣とするが、本来優劣というものは無く、
ただ波長の合う合わないということにある。それは、エネルギーの個性であり自由にある為に、
合えば水を得た魚の様に、或は雲の取れた月の様に世を照らすのである。

全ての存在のものには垢が付いている。その垢は、動くことによって取り除かれたり、また付着したりする。
エネルギーの回る運動は、その垢を除くものであるとともに付着するものでもある。
だから、浄化の法ともなるが、間違った浄化となれば垢がさらについていく。
どちらも法の正義なのである。 正義である為に、なんの反省もされないものとなっていく。
これがいわゆる天国と地獄という現象である。そこにはどちらか一方という事だけである。曖昧は無い。

いずれにしても、人間は観音経も般若心経も、正しくその意味を理解することができなかった。
理解できたのは説かれた時のほんの一時である。その後は、正しく読み解くことができなくなっていった。
それは、物事が伝わっていくにしたがって、正しく伝わらなくなっていくためである。
円いものが三角や四角になって伝わってしまうのである。聞くものの時と場によって
同じことを聞いても、違って捉えられてしまうのである。そのために、
大勢ともなれば、最初のものとは違って歪なものとなって伝わってしまうのである。・・・
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自己相似性

2017-04-29 | Weblog
科学進歩によって昔できなかったことができるようになってくると、
現在の常識というのが覆されていく。
常識というのも、時間の経過とともに変わっていくものである為に、臨機にあるべき事柄である。
私達は、常に無識にあるものだから、柔軟性をもっていなければならない。決して凝り固まっていてはならない。
それはまた、謙虚であらねばならないという事でもある。堪忍にして無事長久の基も謙虚の中にある事柄である。

相生相克は循環の仕方である。世の有り様である。
それは自己相似(フラクタル)構造であり、だから、小を見て大を知り、大は小を兼ねているものと知る。
我が身をつねって他人の痛さが知れてくる。

環状体状円環体(トーラス状、トロイド状、ドーナツ型)なるフリーエネルギーからなるプラズマである。
自由から成るエネルギーの円運動の変化、その刺激によって受けた反応現象体。

不思議にも、及ばざるは過ぎたるより勝れり、である。

まことに読み取ることは難しい?人の心というものは・
だからまた、個性というのは素晴らしいものである。
大衆に紛れるな、大衆迎合はいかがなものか・。
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アセンション

2017-04-27 | Weblog
百年目というのは、どのような事からなのか?
私がエネルギーの法則、その道理より感受するのは、1917年5月13日にポルトガルの
ファティマに現れた聖母の事件である。
この事件は当時の新聞にも大きく取り上げられ、その後多くの人々に目撃された踊る太陽事件に始まる。
聖母?は、三人の子供たちにこれから起こる事柄を伝えたとある。その後、
その予言にあることが次々と現実となり、「踊る太陽」事件となって現れる。第一、二次世界大戦の終始も伝えられた。
予言はその通りになって、さらに、100年後に起こる悲劇も伝えたのである。
100年後と言えば、今年2017年に当たる。聖母?に言わせれば、100年という年月は昨日今日という時間の流れに過ぎないが、
私達が感じるに

今という今日このごろ、世界情勢は多くの人が知るように不穏な動きが高まっている。
小にしても大にしてもそれぞれの国の中で、知識人による呆れたことが行われ、
偏に愛のない社会が露呈している。どこの人たちも間違っている方向性を指示し、すでに行っているし行おうとしている。

聖母の予言はいままでも外れてはいない。
それは、ある意味故意的な事柄でもあるとみることもできる。
だとすれば、100%この不穏な事態は現実化してくる。
私は、「色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識 亦復如是」からエネルギーの法則を学び、
「故菩提薩埵 依般若波羅蜜多 故心無罣礙 無罣礙 故無有恐怖 遠離一切顚倒夢想」から正しい判断の方法を知る。
これがエネルギーの法則から感受する事柄である。今は「無無明 亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽」から
地獄の世界の実体であることを知る。
この地獄の世界から抜け出せる方便は、「無苦集滅道 無知 亦無得 以無所得」であると知る。

私達は、エネルギーの法則に全くもって無知である為に、間違った生き方をし、間違った社会を作り上げてしまった。
過った生き方である為に、過ぎたるは及ばざるが如しとなって、今生の救いというのは皆無となっている。
この地獄の世界から抜け出せる方法は魂にあり、魂の向上、つまりアセンションである。
次元上昇である。魂の周波数をエネルギーの法則の周波数に共鳴させ、
生命エネルギーである心に気を付けて、エネルギーの法則である是を正しく覚ることである。
「気を付けて」というのは、経験の識、いわゆる智恵である。
私たちには現世の救いは無い。でも悲観することはなく、
エネルギーの法則に共鳴して、永遠の動きであることを知れば、魂の真実の世界へ辿り着くのである。
釈迦もキリストも、私たちが神と呼ぶ善なる知的生命体も、様々な手法をもって訓えているのである。
エネルギーの法則である是を正しく信じることで救われると・・・。



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百年目の十三日から勃発

2017-04-26 | Weblog
さてさて、大人である人、
‘喧嘩はいけないよ’とわかりきっていながらも
喧嘩をしてしまうものである。
致し方なくという事態に陥ることは誰にでもあるのが人生でもある。
子供の喧嘩が大人になれば大事に至り、それが
大衆ともなれば紛争から戦争ともなっていく。
つまりは、人間関係ほど難しいものは無いのである。
人間が誕生して以来、この問題の解決には至っていない。
この現状こそ、人類の歴史である。
様々に名のついた戦争が起き、そのうち大きくして第一次世界大戦があり第二次世界大戦があった。
その都度悲劇は人類に反省を促しても、喉元過ぎて熱さを忘れる馬鹿者には、
効き目がない。三度の大きな痛みを伴う事が起こる。目前と見ていい。
科学が発達してくれば、広範囲に甚大な被害が及ぶ地獄絵となる。
さて、
プロメテウス達は、致し方なくこの自由を束縛することをしない。
ある意味、
人類の戦争は、神々による代理戦争でもあるのだから・・。
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極楽浄土

2017-04-23 | Weblog
・・外部の刺激を受けて想行識となっていく。
想とは、想念のこと。行とは、行為のことであり経験の行為のこと。
識とは、記憶のこと。記憶が知識となっていくもので、この記憶が統一されて想念となっている。
五蘊というのは、眼耳鼻舌身の五つの器官、つまり五官のエネルギーである。
五蘊の蘊とは、蓄積されたエネルギーのことを言い、五官による行為の集積されたエネルギーのことである。
この五官の行為と、生命エネルギー(法則のエネルギー)そのものの行為、
つまり、無くなることのない円運動のエネルギー、このエネルギーの行為を絶対行為といい、
外部からの刺激に反応して動く五官の行為と、生命エネルギーの絶対行為の二つのエネルギーのことを五蘊としている。
「五蘊皆空」というのは、人の行為がすべて空の世界、いわゆる死後の世界となっていくとしているものである。
端的に言えば、人が生きていくという事は、死後の世界の為にあるという事である。
どういうことかといえば、生命エネルギーに死が無い為に、
生の持つ絶対条件としてある死後の世界を幸せにする為に、人生としの一生涯なのである。
一生涯である為に、仕合せとなるまでは何度も生まれ変わる。
仕合せとなれば、生命エネルギー、つまり法則のエネルギーを覚ることになるために、
反省もなく苦となることが無い。生命エネルギーが、生まれ変わることを必要としなくなるのである。
これこそ輪廻からの解脱であり、苦からの解脱である。
永遠に変わることのない世界、時間空間のない世界へと辿り着く。そこは、極楽浄土である。
人は死ぬために生まれるものであって、死後の世界、魂の真実の世界を幸福とするために、
この世に生を受けて人生を歩むのである。間違った生き方をすれば、
なんどもなんども際限なく生まれ変わる。その業によって、魂の知らねばならないことを知る為に、
我が身の業によってそれなりのところに生まれ変わる。生まれ変わるのは一切皆苦である。
一切皆苦の世界であるために、人生は苦しいの一言に尽きる。だから、
正しい生き方をしなければならないのだが、煩悩具足の人間、ほぼ間違った生き方をするものである。
それは、偏にエネルギーの法則に無知なまま過ごすためである。
人生は、今生の幸せのためにあるのではない。魂の世界、死後の世界の為に生きていくのである。
自分にとって、今生が幸せな人生となったとしても、他人を押しのけて得てきた幸福であるなら、
それは間違った人生である。来生は、他人に押しのけられた人生を送ることになる。
何かを犠牲にしてなり得る世の中に於いては、決して魂の幸福を得られることはないのである。・・・
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おさらいして・

2017-04-22 | Weblog
いま世界人口は七十三億人ほどである。
ついこの間七十億人を超えたばかりである。
日本では、二千五十年ごろまでは人口がどんどん減っていくと試算されているが、
地球的人口は増えていく一方である。
エネルギーの法則は、生命エネルギーが魂八十億となった時、地上の変化によって、
一旦人類は滅ぶと合図する。
その原因は、人類の悪なるエネルギーの蔓延によるものであるとする。
言い換えれば、愛のない社会体制が作られて、改められる見込みがないと判断されたためと思われる。
それは、単にエネルギーの法則が、絶対善の動きとなっていることに沿わないための淘汰である。
法則に沿わなければ、摩擦となって円滑な流れとならなくなり、そのために、様々に良くないことが起き、
歪んで弾かれてしまうのである。道理である。道理は絶対にしてある為に百パーセントである。
地球は一日二十四時間ほどで廻っている。一日が経てばまた新たな一日が回ってくるように、
終わりなき世となっている。それは、二十四時がゼロポイントとなっていて、
即一時となって繋がっているいることでも分かるように、一旦という間が終わりと始まりとなっているのである。
その間は時間と空間のない間である。そのために、変化のない間であり、どれだけ長い間
そこに止まっていたとしても、零時と一時の繋がりは瞬時となって感受される。それが、時間空間の空白の間である。
この空白の間がエネルギーの絶対世界の間であり、生命エネルギーの真実の間となっている。
この空白の間があの世でもある。肉体のない世界であり、記憶の現象の世界である。
天国も地獄もこの間の世界である。

エネルギーが無限のエネルギーとなっているのは、円運動となっているための環状体状となっていて、
そのために、有限にして無限に動くものとなっているのである。その質が自由だからである。
この自由がエネルギーの根本である。つまり、全知であり全能という事になる。
ゆえに、この自由は他の如何なる力に於いても、動かすことはできないのである。
エネルギーの質が自由である為に、生命エネルギーも自由である。
回る変化が外部の変化となって刺激となり、この刺激を受けて反応したものが形となって現れてくる。
そのために、この世を受の世界として、受想行識の世界となっている。・・
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愛の失われていく世界は戦争

2017-04-20 | Weblog
今に始まったことではないが、政治家の不祥事が世間を賑わしている。
それも低俗な事が多々である。倫理感が間違っているのだろう。
そんな人達が大衆を導く立場にいるというのだから、呆れるばかりである。
だから、
世の中がよくなるはずもない。
今がそうであれば過去もそうであったし、そういう生き方をしてきたことに対して、
周りを欺いてきたのだろう。
得てして、そういう人達は税金で食べていて、普段ふんぞり返っているものである。
本物の馬鹿というものは、”先生”と呼ばれることにご満悦である。
いつも先生先生と言われて、ご満悦の体が染みついているために、
褒め殺しされていても気づかなくなるのだろう。
俗に、「先生先生と呼ばれるほどの阿保じゃない」と言われるように、
立場をよく弁えてあれば、その空気を読むことができ、傲慢な振る舞いはしないものなのだが・・・。
彼らは皆、よく聞いてきた諺さえ忘れてしまうのだろう、いつもおだてられる為の傲慢さゆえに。
   「実るほど頭が下がる稲穂かな」。
人の上に立つ者が乱れたものであれば、何をどう言おうと行なおうと、世の中は悪くなるばかりである。
税金は上がり、様々に保険料も上がり、物の値段もジワリと上がり、
大企業の給料はそれなりに上がるが、中小企業の給料は据え置かれ、待遇は落ちる一方。
年金は下がる一方、取られるのは上がる一方、底辺にいる者は早く死んでしまえと言わんばかりの社会である。
どこの国も、それは顕著となっている。
愛が偽善となって愛になっていない。
愛の失われていく世界は、生き辛くなっていくばかりである。
一般に、あなたの生活は豊かですか?一部の人達を除いて。
政治家、公務員、企業のトップにある者、お金を扱う仕事にある者等、一様に悪魔な手助けをしているものである。

さて、格差を好む人間のそんな欲に付け込んで、悪魔は囁いている。
戦争という「他人の不幸は蜜の味」を聖戦として行えと・。
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愛があれば心配無用!

2017-04-18 | Weblog
無理が通れば道理が引っ込む、
道理が引っ込めば成り立たなくなる。
それは、存在とならなくなるという事。
ただ滅亡にまっしぐら状態。
ただの一つも助かる術はない。
「一寸先は闇である」という今日このごろ。
現代科学の素晴らしさも、
全て無に帰す事となる。
ただ、
愛がある人には、案ずるに値しないものである。
どんなに悲劇が降り注ごうとも!
心配ご無用である。
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天に昇ること

2017-04-17 | Weblog
世界がぐらついている。
ぐらつくという事は、倒れる兆候。
兆候が現れれば
その先は当然、
起こるべきしてのことが起こる。

さて、事の事態が不穏になるのは、
愛の無さにある。
今更修正は手遅れとなっている。
百パーセントである。
忽然と消え去るように見えるが、人間が誕生して以来、
愛が最高の方便であること、途切れることなく唱えられてきたものを、
承知することが無く過ぎ去ってきたこと、兆候として知ることである。

今更という、「過ぎたるは猶及ばざるが如し」は絶対にある。

よって、仏陀の説く救いというのは、今生の救いではなく、
魂の救いである。愛のあるなしで昇天は決まる。
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無所属

2017-04-16 | Weblog
権力=その組織に属する他人すべてを、
自分の意志通りに動かすことのできる力。
{狭義では、国家や政府の持つ強制力を指す}
国家・政府・資本家など、権力を持つ側。と辞書にあった。

まずもって個人は
99%権力に屈してしまうものだ。
人間社会、必ずしも権力が正義にあるとは限らない。
不条理にあるものでもある。それは、人間が作ったものである為に、
不完全にしてあるから。だから、すべてに属してはならない。

「すべての隷属は苦である」と仏は訓え諭す。
人間社会は隷属にあり、
階級社会である。これが苦の根源である。

平等は自由にある。
智にあるものはこれを理解して、上下左右なく
一如として自由を苦にしない。



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