本物という師となる者は、誰にお教わることが無く師となるものである。
エネルギーの本能より感受し、独学するものである。そのために繊細である。
一風変わって気概をもつのは、エネルギーの本能である。
生まれつきというのは、生命エネルギーの性質であり個性である。
個性というのはエネルギーの自由から成っている。
その自由が外部の刺激に正しく反応していれば、先見の明という事が開かれてくる。
つまり、自然と知れてくるのである。それが、端的に言えば智慧というものである。
智慧は経験の識である。それは、一を知ることにより自ずと十が知れてくるものである。
不思議な事としてある。因みに、不思議というのは、思議不要のことである。
あれこれ思い煩う事が要らないことという事である。つまりは、即断できるという事を言う。
道理をもって道徳を知るために、不可思議なことが無くなっていくのである。
この徳を説き訓えているのが観音経である。妙法蓮華経の二十五番目に説かれている
観世音菩薩普門品偈である。この経は、エネルギーの法則(是)をよく理解し、
諸々の法則となっていることを覚り、
その法則(智恵)を身に付けることによって得られる様々な法力を説いたものである。
瞬時に思い通りの現象を操れることを説いている。つまり、法を身に付け観音となった人の力を
譬えに表して教えたものである。法を身に具えることによって誰でも観音となれる
者であることを教えたのである。その身に具える方法を教えたのが般若心経となっている。
誰でもわかるようにと簡単簡潔に述べられているのである。そのために、
最も短く説かれたのであるが・・・
エネルギーの質には善し悪しがある。それを優劣とするが、本来優劣というものは無く、
ただ波長の合う合わないということにある。それは、エネルギーの個性であり自由にある為に、
合えば水を得た魚の様に、或は雲の取れた月の様に世を照らすのである。
全ての存在のものには垢が付いている。その垢は、動くことによって取り除かれたり、また付着したりする。
エネルギーの回る運動は、その垢を除くものであるとともに付着するものでもある。
だから、浄化の法ともなるが、間違った浄化となれば垢がさらについていく。
どちらも法の正義なのである。 正義である為に、なんの反省もされないものとなっていく。
これがいわゆる天国と地獄という現象である。そこにはどちらか一方という事だけである。曖昧は無い。
いずれにしても、人間は観音経も般若心経も、正しくその意味を理解することができなかった。
理解できたのは説かれた時のほんの一時である。その後は、正しく読み解くことができなくなっていった。
それは、物事が伝わっていくにしたがって、正しく伝わらなくなっていくためである。
円いものが三角や四角になって伝わってしまうのである。聞くものの時と場によって
同じことを聞いても、違って捉えられてしまうのである。そのために、
大勢ともなれば、最初のものとは違って歪なものとなって伝わってしまうのである。・・・
エネルギーの本能より感受し、独学するものである。そのために繊細である。
一風変わって気概をもつのは、エネルギーの本能である。
生まれつきというのは、生命エネルギーの性質であり個性である。
個性というのはエネルギーの自由から成っている。
その自由が外部の刺激に正しく反応していれば、先見の明という事が開かれてくる。
つまり、自然と知れてくるのである。それが、端的に言えば智慧というものである。
智慧は経験の識である。それは、一を知ることにより自ずと十が知れてくるものである。
不思議な事としてある。因みに、不思議というのは、思議不要のことである。
あれこれ思い煩う事が要らないことという事である。つまりは、即断できるという事を言う。
道理をもって道徳を知るために、不可思議なことが無くなっていくのである。
この徳を説き訓えているのが観音経である。妙法蓮華経の二十五番目に説かれている
観世音菩薩普門品偈である。この経は、エネルギーの法則(是)をよく理解し、
諸々の法則となっていることを覚り、
その法則(智恵)を身に付けることによって得られる様々な法力を説いたものである。
瞬時に思い通りの現象を操れることを説いている。つまり、法を身に付け観音となった人の力を
譬えに表して教えたものである。法を身に具えることによって誰でも観音となれる
者であることを教えたのである。その身に具える方法を教えたのが般若心経となっている。
誰でもわかるようにと簡単簡潔に述べられているのである。そのために、
最も短く説かれたのであるが・・・
エネルギーの質には善し悪しがある。それを優劣とするが、本来優劣というものは無く、
ただ波長の合う合わないということにある。それは、エネルギーの個性であり自由にある為に、
合えば水を得た魚の様に、或は雲の取れた月の様に世を照らすのである。
全ての存在のものには垢が付いている。その垢は、動くことによって取り除かれたり、また付着したりする。
エネルギーの回る運動は、その垢を除くものであるとともに付着するものでもある。
だから、浄化の法ともなるが、間違った浄化となれば垢がさらについていく。
どちらも法の正義なのである。 正義である為に、なんの反省もされないものとなっていく。
これがいわゆる天国と地獄という現象である。そこにはどちらか一方という事だけである。曖昧は無い。
いずれにしても、人間は観音経も般若心経も、正しくその意味を理解することができなかった。
理解できたのは説かれた時のほんの一時である。その後は、正しく読み解くことができなくなっていった。
それは、物事が伝わっていくにしたがって、正しく伝わらなくなっていくためである。
円いものが三角や四角になって伝わってしまうのである。聞くものの時と場によって
同じことを聞いても、違って捉えられてしまうのである。そのために、
大勢ともなれば、最初のものとは違って歪なものとなって伝わってしまうのである。・・・