つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

凡人にて

2023-05-31 | Weblog
我が国の指導者は、世襲。
君主制ではあるが絶対君主政体ではない。
制約される制限君主政体ではあるが、世襲には違いない。
その弊害は今の政治に多く表れてきている。
特にこのウイルス問題(事件)で、歪さが露呈した。
外側から、また内側から暴露され、誰を信じてよいのかすらわからなくなった。
仲間(味方)なのか敵対する者なのかさえ疑う事となった。
「信じる者は救われる」というのは、自身が善悪のない正義にあらねばならない。
でなければ、信じて騙され、疑って騙され迷い道の袋小路となる。
周囲に好く振り回されて疲弊、厭世観で自暴自棄になり自爆してしまう。
それでも、自分を振り回した者共々道連れとなればまだ救われるのだろうが、
迷った者は的を得ず、惑わされてただ自滅となる。もし、
自身が抱いた共和という社会が築けたらとする幻想が、現実よりも本物であるとするなら、
虚空の意識に繋がりその道を知る。
さて、日本国は明日より悪事がより露呈して、隠しきれなくなって、
悪事は悪事によって裁かれあう。そして共倒れという一掃に向かうが、
多くの混乱を避けるために、一つ一つ「まさか」の坂を下る。
気づきのある人ははっきりとその事象を見るが、多くはぼんやりとやり過ごす。
奇跡が無かったかのように、日常の中に、少しばかりまぶしく輝く日の出入りを感じるだけである。
風邪を引いた後は、適度におさまるように、以前より、ウキウキはつらつとして感じる。
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臨機にして自身の意識次第

2023-05-30 | Weblog
般若心経で説かれている「無」という文字の意味は「ない」という意味ではない。
「無くならない」という意味でつかわれている「無」である。
このことを理解できるなら、一切皆苦であるこの世から離れられる大きな一歩を踏み出したと言えるだろう。
この世では、これから安寧を得られるだろう。
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かつて・・・

2023-05-27 | Weblog
未来は不定であるが、このままの時間線上で進んだ場合は、100%絶滅危惧種である。
生命エネルギーは、円運動の法則にあるために無くなってしまうという事は無い。
物理的制限のあるエネルギーは無くなってしまう。というより、違う形の物に変化しての存在となる。
輪廻転生である。
めぐることに由る刺激を受けて反応、応対したエネルギーが形(物質)を作る。その応対は「縁」である。
縁で形作られたエネルギーはその物質に閉じ込められ、自分というエネルギー意識でもってその形を操る。
自由から分かれてきた意識生命エネルギーであるために、自らに然り(その通り)として存在していく。
存在は、すべて自分の意識の在り方であるが、転生したばかりのエネルギーは、無知となって今までを忘れている。
生命エネルギーは、精神的(意識)エネルギーが本質のエネルギーである。
その根本は「自由」が主体である。簡単に言えば自由エネルギーの存在である。
エネルギーが円運動となっているのも自由たる性質。だから、なぜそうなの?の答えは「自由」だからに尽きる。
意識エネルギーは、物理的エネルギーに宿してのみ向上を図り成長していくが、寿命という制限をもたされて、
死ぬたびに記憶が消される。記憶をつかさどる脳が無くなるためである。意識は死なないために記憶は連綿ではあるのだが、
肉体(脳)が無いために思い出す事ができない。生まれ変わり新たに肉体(脳)を持っても、
記憶を取り戻すことが難しいと意識してしまうために、一旦クリアー、綺麗(ゼロ)となって記憶を呼び戻すことができない。
稀に思い出す事ができる生命がいるのだが、それは、精神的生命エネルギーであることに気の付く(縁)エネルギーであるためである。
意識生命体である私達は、未来を過去にかえなが進化している。その進化は、
悪のエネルギー進化となっているために、化学は核爆弾を作り、自らを葬り去ろうとしている。
これは事実であり現実である。作れば使いたくなるのが愚かな途上にある人類史である。
そして、誰もいなくなった、と続くが、再び人類は地上に誕生してくる。劫の時を要するが、
その劫は、10万年か100万年かは人類の学習進化に由る。
あの世には時間は無いために、この世に生じたときは瞬時と感覚するも、無知である。
意識生命エネルギーに死滅は無いのである。


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拝金主義社会からの解脱へ

2023-05-25 | Weblog
兎にも角にも「愛」は無償にて存在する。
それでもお金に支配されている社会であるために、様々な理屈をつけ、
「愛」という情けにかこつけ、お金儲けをしようとする輩が出てくる。
宗教を謳うのはいい例である。
金融支配社会というのはまさに偽善がまかり通る社会である。
そのため、知らずしらず教育関係もお金儲け主義が正義となって、高学歴を目的として、
一流とされる企業に入るための教育となってしまっている。
それは、他よりも一つでも先んじるための教育、いわゆる他を蹴落とし、競争という戦いの下、這い上がり勝ち抜いてこそ
あなたの夢をかなえる近道と思わせる。その夢は、金銭にまみれ、
お金こそがあらゆる願望をかなえる力だとする欲望の塊。とどまることを覚えない餓鬼の世界を作る。
その世界に「愛」という情けなど微塵もない地獄の中の一つの世界となる。
虚構の世界。「愛」も有償となって、何かをしてもらうのに代価を払ってこそ愛も生きると疑わない。
それではお金のない者には「愛情」も受けられなくなってしまう。
だから、金を稼げと、情けのない世界への堂々巡り。
「愛」は無償にて愛であるという存在である。
愛が有償の中にあれば、世界は地獄の世界そのもの。
もし、誰かが、この世は地獄ではないというのなら、「無償」にて行動していなくてはならない。
理屈などいらない。
「ただ与えてただ去る」のみ。本物の「愛」であり「情け」である。
労力は賞賛にして称賛を本望とする。愛ゆえに労わる力である。
これこそ精神世界であり、物理という制限を課せられた世界から抜け出せる方便である。
魂という生命エネルギーは精神エネルギーである。
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無知ほど怖いことは無い

2023-05-23 | Weblog
今年ももう半年近くになった。
これまで「まさか」と目を疑うことが多くあったが、6月に入ればもっと多くの「まさか」
を見聞きすることになる。その「まさか」は厳然たる始末を伴って現れる。
事の顛末は、起こした者へ取り返しのつかない後悔を与えて終結する。
報いは避けられないのがこの世の道理である。
今年の後半期は喜怒哀楽が入り乱れ、その業に由って現れるため、少しでも心当たりのある者は、
覚悟が必要である。事の顛末は辻褄があわさってあるのであるから、避けられない。
後悔は先には立たない。道理を知っていながら侮るからである。
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トリック(企み)の罠(トラップ)

2023-05-21 | Weblog
戦争をやめさせるのに武器を与えてはならない。それは共謀にあたる。
本当の仲裁には武器は必要としない。話し合う事に尽きる。
何度も何度も折り合いがつくまで足を運びあうのである。それが平和的解決策なのだが、
人間の進化は悪意の進化となって、自らを滅亡へと導いている。
未来は不定にしてあるが、それを確定とする過去を作りながら進んでいるために、
道理に従って予められる。予(かね)てより先達は言うに、
人間は悪の進化エネルギーによって、滅亡を繰り返すと。
それが、科学、化学の進化である。
身を守るという防御をたてに、攻撃こそ最大の防御となって先攻する。
物理的とする動物の域を出ないために、あらゆる面で縛りがあり、
制約、制限にして不自由を担い、暴挙に至る。
精神(魂)が動物の域を出れない生命エネルギーであるために、物理を越えられないためである。
ゆえに、
善の正義を装い悪の正義として、殺戮の道具を与えるのは暴力に加担することに他ならない。
悪を正当化するトリック(策略)、罠(トラップ)である。
不自由とはかくも苦しく、よく騙される。

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*精神的な生命であることを知るために・・

2023-05-21 | Weblog
予てから仏曰く、
「かつて、ここには人が住んでいた。多くのドラマがあった。幸福な時もあれば不幸な時もあった。
幸福な人もいれば不幸な人もいた。人々は話、笑い、怒った。泣いた、苦しんだ。人の出会いもあった。
別れもあった。愛し合った人もいた。憎しみあった人もいた。裏切りもあった。傷ついた人もいた。
大切なことは、ここに、今の私達と同じ人達がいたという事。あなたがいて、私がいたという事。
言葉や習慣の違いなど些細な事。何が違うというのか、野に散る頭蓋骨を見ればよい。彼も彼女も、一度は
この青い空を見た。広い星空を見て、遠い宇宙に思いを馳せた。
私達はどこから来たのか、それを問い続けた。なぜ私達はここにいるのか?そして何のために?
私達は死んだらどうなるのか?誰がそれを教えてくれるのか?その人はどこにいるのか?
長い時間が過ぎ、いつの間にか人は消えた。
長い時間が過ぎ、新しい人々がそこに住んだ。新しい笑い声と新しい悲しみの声、新しいドラマが再び始まった。
『人は来りて、また去る。人、来りてまた去る。かくして、私の、貴方の、彼の、彼女の、そして、
彼らの人生が流れる。あたかも、何ごともなかったように、あたかも、何ごともなかったかのように』
もう一度、廃墟を見よう。そこにいたはずの私やあなたを見よう。そこにいた私やあなたはどこへいったのか?
私やあなたはどこへ消えたのか?いやいや、どこへも行っていない。消えていない。
彼はここにいる。彼女はここにいる。それが私である。それがあなたである。失うことを恐れてはいけない。
死ぬことを恐れてはいけない。あなたは何も失わない。あなたは消えることもない。
長い時の流れのあと、私は生まれる。あなたは生まれる。違った時代の違った場所で。
命は自然の恵みを受ける。命は自らを繰り返す。
あなたは違った言葉を話す。違った生活をする。が、それがどうしたというのか。ささいなこと。
今の私、今のあなた。同じ私がそこにいて、あなたがいる。
その私が青い空を見る。星空を見る。私達はかつてここにいた。今もいる。
私達はいつかここに戻ってくる。あなたがどこに住み、何であるかは問題ではない。
あなたが誰であるかも問題ではない。私が誰であれまた、何であれ私達は今ここにいる。
分子と光の織り成す世界で生きている。
星々が瞬くその瞬間に生きている。これを奇跡と言わずしてなんと言う。
人間に違いはない。人間の歴史に違いはない。
傲慢になってはいけない。貪欲になってはいけない。
私やあなたは、謙虚になろう!生きていることに謙虚になろう!
この時、人間は動物から離れ精神的な存在となる。
それこそがその答え。なぜ、私達が今ここにいるのか、それこそがその答え!」
*精神的生命エネルギーであることを知るために、私達は今ここにいて、それを学ぶ!
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我が心の善悪

2023-05-18 | Weblog
金融社会に縛られているために、お金が欲しいと思うのは当然の話だが、
その中においても、心無いお金の稼ぎ方をする人は、やがてお金によって最期を遂げる。
ことわざに「金と灰皿はたまればたまるほど汚くなる」というのがある。まったくその通り、
現実にして頷くこと多い。
金融制度、本来経済というのは、経国済民=国を治め人民の生活苦を救う意と辞書にある。
経世済民(民生を案ずる事を本意とする、人民のための政治)としてあるべき姿である。が、
金融資本となって経済組織を支配するに至り、格差を決定的に作り上げ、庶民を生活苦に貶めている。
一部の裕福な傲慢さが災いを招いて、歪な世界を作り上げられ、
そして、庶民は奴隷となってお金のためにあくせく働く。
賢さにずるが付く者は、裕福にして格差を広げ、金を稼ぐことだけに長けて、
数字だけを動かして、無から有を生んで膨大な利益を得る。そのトリックの技は頂点を極め、慾の増幅に至る。さながら、
とどまることを知らないために、結局、汚いことわざに至り、終には地獄を見る羽目に。
今現在、長年仕切ってきたトリック(策略)のテクニック(技)は、汚物を極め、
あまりの腐敗に浄化の法則に裁かれることに。きれいになる寸前にある。
悪あがきにもほどがあり、さらに救いのない決定的浄化の対象を作り上げ続けるが、
浄化は目前である。
道連られるのは、日和見にしてある意識と頑固な意識であった。
選別ははっきりとして二者択一であった。間に合うのは、損得のない意識だけである。
地獄に仏とは今しかないと、心ある者だけが感じた。
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独学

2023-05-17 | Weblog
公共とされる処が嘘をつくはずがない、と信じ込まされているために、
公共報道が正しいとして疑う余地すらない。この社会の風潮に疑問が見いだされたのは、
嘘は嘘を拡大し続けるために、やがて隠し切れなくなり露呈してくるためである。
悪事は悪事によって暴かれ、悪事は悪事によって滅ぶのである。
その被害を被るのは、見ない聞かない言わないとする消極的な負の意識によって被る。
ある傾きである。
回避するには、
聞こえてきた以上内に閉じ込めてはいけない、発散して追い払うことである。そうすることによって、
その情熱は冷めて治まる。情けとして払う事にある。ただ「情け」としてである。そうすれば
負は正に変わり瞬時厄を落とす。
聴く耳を持つことに道は開かれる。「南無」である。
正義とはその義(いみ)、道の理に無知であってはいけない。存在の道理はすべて正義にある。
意識にある自身の持つ善悪ではない。道理に善悪は無い。ただ正義として存在する。だから、
正義の無知を破れ。抽象的と思うも思わないも自身の無知によるために、無知を破ることである。
それを学ぶのに、師は自然のみである。あえて人物にあれやこれやと教えられるのは
身に付くことが無い。
必ず忘れてしまうのである。本物とはならない、不思議な事に。


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性の格の向上、解脱

2023-05-14 | Weblog
自然は一対としてある。
1+1=2となるが1でもある。
1つの在り方は対として初めて成り立つ。
裏と表があって紙が存在となる。どちらが欠けても紙は存在とならなくなる。
紙の存在は裏表一対で1枚。常の識である。この常の識を切り離すことはできない。
存在というのはそういう事にある。これは私達物理の中にある質にしての在り方である。
もしこの物理の在り方の質を超えるには、この常なる識から離れなければならない。
それを荒唐無稽と捉えるなら、私達は制限のある領域から出られない。どんなに時が経っても無理となる。
理が無ければ無駄。
私達は、生命というエネルギーの存在である。
端的にこの存在というエネルギーの性質での界隈、円運動の自由から成り立っている。
エネルギーが円運動の自由たる性質であるために、無くなることのないエネルギーとなっている。
この自由を正しく理解できれば、貴方なりに無理はなくなる。
このエネルギーの外側は存在しない。つまり考えることもできない。
だから、考えても無駄であり無意味、それを無理という。
今存在していること(生きていること)に、存在しないことを考えても答えは得られない。
貴方が望んでいる答えはいられない。明確というのは妄想の中に。
貴方自身にあるのは自由である。エネルギーの自由である。これが自然を作り自分が生じている。
自由に垣根は無い。垣根を作るのは自由を理解していない意識、生命エネルギーに由る。
だから、物質である物理に縛られずに、自由にして、意識の存在を思い出す事である。
私達はすべて自然から作られ自由である、だから、自分といい
示し申すと書く神である。自然そのものの分身。
制限のある肉体に宿り生きて、何を示し申して生きるのか、その生き様が性の格を決める。
それが物理的解脱へとつながり、真の自由を得る。
宇宙の存在のすべての方程式を超えて、永遠の称賛のなかに生きることができる。極楽である。

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