つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

正しく

2011-02-28 | Weblog
規則正しく生きる。
暗くなったら寝むり、明るくなったら起きる。
夜は眠るもので朝は起きるものである。というように!
   たとえば、
夜九時頃から、遅くとも深夜二時までには眠りにつき、朝は七時までには目覚めるように。
   このようにしていれば理に適い病もかかりにくい。
昇り来る朝日に向い立ち、大きく口を開け、胸を広げて差し込む日の光を吸い込んで、
体のよどんだ垢を吐き出す。
口に、足りないことは述べず、わずかばかりにも感謝を言い、
予期しないことに思いはやらず、明るいことに思いを馳せて、服装を整えて
はつらつであるように動きまわる。
善いも悪いも訪れてくるために、
邪なものと善いものとをより分けて、邪からは離れ去り、善いものには勤しむ。
謙虚であることに弱みは無く、はなはだ過ぎるも謙虚を欠く。
いい加減であることに智慧が働く。臨機応変の最大の盾である。
ちょうどいいころあいで人は生きている。
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てんごく(諂曲)

2011-02-27 | Weblog
嫌われるのは嫌である。だから、気に入られようと本心を隠して
従順を装いながら接するも姑息なものだ。
その心の中は勝他の念で、常に修羅の妄執。「諂曲なるは修羅」。


自分を見つめて、自分を治めて、
ただ自分に克つことをしていれば、相手に振り回されることも無くなる。
悲しむことも哀しまれることもなくなる。
競い争うのは自分というものとである。他と競争してはいけない。すべての競争というのは、
自分に向けての戦い、競い克つものである。他に向けては勝ることが無く、見かけの勝敗は共に安穏となることが無い。
悔しさと悲しさと、束の間の(慢)足と、(負)(追)われる苦しさとに(付)(疲)つかれてしまう。

八方に美人を装うことは適わないものである。嫌うものと好くものが同等、均等が取れて成り立っているものなのだから。
皆、唯一つの個である。他よりも優れるものを持ち、劣るものを持ち、
補い補われ、つながり入れ替わり共に生きている。

水は上から下に流れるものである。その流れに逆らい、上るものは唯苦しい。
流れの下はもとの上につながっているもので、自然に上につながっていて
上る。敢えて上らず、流れに任せて努力も実るものである。
心が曲がっていれば唯苦しい。


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是大神呪是大明呪、知恵の輪

2011-02-24 | Weblog
般若心経の功徳は計り知れない偉大なもの。
知識もいらない。宗教もいらない。信仰心など関係ない。
子供のように疑うことが無ければ、幸いである。
「貧しきものは幸いである」といったキリストの言葉がわかれば
信心を知る。
心経の言葉に惑うことも無く、功徳となるでしょう。
あるがままを知識で惑い、智慧で知る。
仏の教えもキリストの教えも、観音という総称によって啓示された同じ訓えである。
仏は愛するなといい、神は愛しなさいといい、同じ幸福を説き示す。
是大神呪であり是大明呪である。解き明かして即功徳となる。容なもの易なものであるのだが、
知識が難しくしてしまい・・・。
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生きるということ

2011-02-23 | Weblog
肉体が無くては修行もできず、肉体が無くては思考もされない。
肉体があるから苦しくて、苦しみを考えられる。
どうしたら苦しみを無くせるものかと考えられる。
生きているということは、
そんな大切なことを叶える術である。
無駄な人生など無いものを、無駄に生きるも無知なため。
無駄に生きるな。自分のための人生である。
魂は肉体を持ってのみ進化していくものである。
魂自体ではなにもできない。媒体となる容をもって
進化する。
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遠離一切顛倒夢想

2011-02-22 | Weblog
縁起によって人はつながっていく。
少しの仏心が、他の命を吾が身の命に置き換えて、哀れむ、愛しむ、思いやる。
昂じて吾が身の愛しさに
信心信仰に勤しむ。道徳を為して自然と縁を結べば同じ道の人、先人と繋がり、
意識に標が語られる。心の自由を持って都合が図れることを訓えられる。
未来の明るさも思いの前向きにある。想念に愛を抱けと。
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死とは何?

2011-02-20 | Weblog
死の恐怖が人のすべての恐怖のもととなっている。
命の無くなることが人の恐怖であるために、死というのが何なのか理解できたならば、
死の恐怖も無くなっていく。死の恐怖が無くなれば、すべての恐怖から離れられることとなる。
死がわからないために、不安で暗黒となり怖いものとして認識する。
死を知ることであるが、死が人の経験とならないために理解することができない。
人は経験とならないことは理解できない。
理解できないことは
どんなに説いても正誤がわからない、できない。もし、誤って説いていても
正しいとなってしまい、誤りを正せなくなってしまう。地獄を天国といっても
正しいとなってしまう。死後の世界は一切刺激とならないために、どんなに知ろうとしても
知ることができない。

命に死がないのは、エネルギーの法則がなくなることの無い法則となっているために、
エネルギーである命もなくならないものとなっているからである。
死は単に肉体の消滅にすぎなく、それに宿る命そのものは輪廻していくだけである。
ヤドカリのように肉体を変えて、あの人生この人生と輪廻していくだけである。
業という縁によって。

肉体が無くなった後の世界が死後の世界であるが、死が人の経験となることが無いために、
どんなに知ろうとしても知ることができないこととなっている。そのため、その世界を
命の空白の時間であるとして、空の世界と表している。新たな肉体に宿るまでの間の世界である。
それが死後の世界である。命の真の世界で法則そのものの世界である。エネルギーの絶対変わることの無い世界である。
変わることの無い世界であるために、時間も空間も持たない世界である。ちょうど、人が見る夢の世界と同じ世界である。
心の現象の世界である。・・・
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心の問題

2011-02-19 | Weblog
思いによって現象が作られていく。そのために、正しく念いをもたなくてはならない。
案外、脳は惑わされてしまう。あるがままをそのままに見て、隠れているものに気がつかない。
ある世界を創っている法則には善とか悪とかと言うものは無い。もともとは無記である。
善悪は人の思いの善悪である。
何度も何度も繰り返される行為は正しいとなっていく。反復されていくことで絶対となり絶対正しいとなっていく。
ひとつの疑問を抱くことも無くなり、誤った行為であったにしても、その行為の誤りに気がつかなくなって、正しいものとなっていく。

ある世界を創っている法則は、くるくると動き回っている。くるくると回るために、
何度も同じところをたどり回る。かならずもとのところにもどってくるために、一旦ゼロになる。そして亦始まり繰り返す。
始まっては終わり、始まっては終わりと絶えることが無いものとなっている。そのような質となっている。
そのような質となって生じている。回ることによって変化が生じ、その変化が時間を空間を生じさせ、変化が無いところには、
時間も空間も生じはしない。これは、すべてエネルギーの事柄である。微細なものが集まり、引き合い弾き合いながら動き、変化にみあった質が集まり、
かたちを作り出す。そのかたちも
もとをただせばひとつの点にすぎず、かたちの無い気、エネルギーである。

思いも気である。エネルギーである。相対しているものと中立、何にも関与しないもの、するものとで成り立つ。巴であり三つ巴である。
その思いによって世界があるために、おもいが正しければよい世界が現れてくる。おもいが正しくなければ
よい世界となっていかない。
誤った縁のために病が作られ、その病を思うために、病が気から離れなくなり、病が絶対となって病に犯されていってしまう。
病むのを忘れなさいといっても、思いは常に病を気にする。脳は惑わされるために、気にして闘うことをしてしまうが、闘えば敗れてしまう。
絶対には勝てないのである。
目の前のことに気をとられ、そのことを成し遂げるために
病んでいることも忘れて動いてしまうときがある。動けるはずも無いのに・・。機とわれに返り病んでいることに気がつき、痛さに伏す。
忘れてしまう‘気’を付けることが方便であるが、そうは言ってもであるために、病を克服することは難しくなる。

ただ、思いによってであり、現象するには時間の差がある。そのために、正しく思う訓練が必要となり、早ければ早いほどその差は縮む。
誤っている識を顛倒して思い、悪いとすることを思いの中から除いていくことである。
正と負であるために、正を常に気に掛け、負を抱かないことが肝要である。
エネルギー、心の問題である。
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与えて与えられる

2011-02-17 | Weblog
得をしようとすれば損をする。
浅ましく生きていれば得をすることはありません。
自分がされて嬉しかったことを思い、他の人が慶んでもらうことを心がけて生きていれば、
知らず知らず得することにであう。
ささやかに喜ぶ顔を見たくて、ささやかながら
そのひとのためをなしていれば、大いに自分が喜びに会う。
不思議だが本当だ。
この世の中は、よい人でも悪いことに出会う。悪い人でも良い思いをする。が、
ゆくゆく、善い人は良いことに、悪い人は悪いことになる。
災いも善い思いには大事となることが無く、常に難なく過ぎることとなっている。
不思議だが本当だ。
正しいことに心がけると味わえる事柄である。
良い思いで生きてさえいれば。
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2011-02-16 | Weblog
般若心経を正しく訳せば、なぜ生きる?という疑問が解ける。
自然に学び、その経験が智慧となり、智慧によって物事が見えてくる。
知識など要らない。智慧によって理解できていくものである。
智慧とは、自らの経験によって得られていく識である。誰の知識を必要ともしない。
自分の経験でしか得られないものである。その師は自然である。自然の道理である。
そのために、よく自然に学べ。謙虚に観察することである。
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生きている間に

2011-02-14 | Weblog
生と死は切り離せない。一枚の紙が
裏と表で構成されているように、どちらかが無いということは無い。
表裏一体で存在となっている。だから、
生は死ぬためにある。死を目的としてあるのは、死後の世界こそ
生の本当の居場所だからである。死後の世界を、しあわせの世界とするための目的である。
死んだらなくなる、なにもかもということではないために、努力があり、精進して生きるのである。
肉体という容を持たなければ、目的を果たせないために、ある容を持って目的のために生まれ生きる。
エネルギーというのはそういうものである。‘かたち’をもってこそ進化をなしえていくものである。
死後の世界はエネルギーの絶対世界である。一度つくられてしまえば、変わることの無い世界となっていくために、
その世界が絶対正しい世界となってしまい、悪魔な世界でも正しい世界であるとなって、誤りを正せない世界となってしまう。
苦しむことが当たり前の世界となってしまう。苦しんでいるのにただすことができないで生きていかなければならない世界である。
誤った進化の世界である。
エネルギーの法則は浄化の法則となっている。常に元に戻る、ゼロの性質となっている。そのために、生じた‘かたち’は死に絶えていくが、
エネルギーそのものは進化して、完成を目指して存在している。その完成は、生命というエネルギーの幸せにある。
永遠の心地よさ、安住の世界を創り住むためである。一度つくられれば、
変わらぬ世界となっていくためである。そのために、誤った進化とならないために、浄化の法則に沿い、
善行に励み生きていくのである。
人生は浄化のためである。、人の行為はみな浄化の行為となっているのである。誤った浄化とならないように、
くれぐれも法は諭すのである。死んでしまってからでは遅いために。
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