つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

依存

2014-02-28 | Weblog
首輪をしている犬の自由は、
鎖に繋がれていること。
命を依存しているわけではないが、
依存となっている。
束縛を不自由としない自由。
それは、ただ悲しい。憐れである。
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心が大事

2014-02-27 | Weblog
意識の現象、それが夢の世界であり、
死後の世界でもある。
そのために、意識が正しく作られていないと、
死後の世界は正しい世界とはならない。
つまり、誤った世界であるために、それを地獄の世界という。
生きている時に、
死後の世界が天国となるのか地獄となるのか知りたければ、
眠った時に見る夢の世界が、どんな夢なのかで知れてくる。
よく観る夢が怖い夢であるなら、死後の世界は地獄となっている。
楽しい夢であるなら、逝く先は天国となっている。

夢は変えられる。
それは自己意識によるもので、
どのように自分の意識を正しい意識とするか、つまり、心の持ち方、あり方である。

人は、心に基づき心に付き従うものであるために、
心を法則の意識としていくことである。

是が法則である。

是は円運動である。だから、人の心も円思考とし、直線思考をしないことである。
無意識にして人は円運動となっているが、
無意識になるという事ではない。
意識して円思考としていけば疑問は解かれていく。
あらゆる矛盾が解かれていくのである。
自ずと道が見えてくるものである。
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辻褄合わせ

2014-02-26 | Weblog
親の七光、
恵まれた待遇の人生であっても、
この世は苦楽が共にある世の中である。
一方だけということは無い。
辻褄は合うようになっている。

物事はうちけしあっている。
道理の質、浄化である。
それはゼロになるということ。

どのようにして相対に応じるか。
苦には楽が付き、楽には苦が付く。
日ごろの応対の仕方で楽に苦を除く。
相応にして、
楽に苦を除く。
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死を覚る

2014-02-25 | Weblog
生は死が絶対条件である。
だから、
人生は死ぬためにある。
なぜ死ぬために人は生きるのか?
それは、
死んだあとが生命の真実の世界だからである。
死とは、肉体の死であり、生命そのものが滅するということではない。
それは、生命を作っている法則が無くなることが無いためである。

生命とはエネルギーである。気である。
気は心である。
心は記憶によって作られていく。
記憶は経験によって作られていく。
その記憶の統一されたものが心となり質となり判断となる。
性格である。
心は不老不死である。気であるために。
その心の現象の世界が肉体の無くなった世界、肉体を持たない世界、つまり、死後の世界である。
肉体は記憶の現象の肉体、意識の現象となっている。
死後の世界は意識の現象の世界となっているのである。それを分かりやすく言えば
夢の世界と同じなのである。わかるだろうか?
人が眠っている時に見る世界が夢の世界、つまり、意識の現象の世界である。
それと同じ世界が死後の世界なのである。
記憶の世界なのである。
だから、何もかもこの世と変わらない世界となっている。

意とは気持ち、識とはこれはこれ、あれはあれと、区別して知る事。
心の判断である。
その世界が死後の世界である。わかるだろうか?
心に由って死後の世界は作られていく。

「色不異空 空不異色 色即是空 空即是色」とし、少しも変わることなく輪廻するのである。
だから・・・。
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円運動

2014-02-24 | Weblog
この世において、
人類史上
不老不死という人はいない。
また、
性行為無くて生まれた人もいない。
キリストにしても、釈迦にしても同じである。

荒唐無稽にして神秘的な誕生、
神仏として崇められた人は、清純なものでなくてはならず、
普通の人と同じ誕生であってはならないためである。

超人、超能力、超常現象と超がつく事柄は本来存在しない。
道理上ある事柄である。だから、超という事にはならない。
現代科学では説明がついていないというだけである。
時を経て一つ一つ理解されていく事柄で、今は未だという進化の過程にあるだけの事。
智慧をもってみるということは道理の目である。

是が宇宙の法則である。エネルギーの法則である。
すべてがこの下の存在としてあるものである。
そのため、法則を超えるという事はありえないことで、喩えて
超えてしまったとしたら、そもそも存在とならなくなるためである。

是が非ということはないのである。

して、

どんなに健康に気遣っても、老いていくものである。
それは、一日二日あるいは三日という長短に過ぎないもので、
絶対に死となるものである。

その道理を見て、

人は死ぬために生まれるという事を覚ることである。
それはどういうことであるかという事を是を見て覚ことである。
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分・・

2014-02-24 | Weblog
本当は倖せだった、ささやかにも。
でも、貧乏だといって嫌った。

本当は一番良い居心地だったのに、
それは寂しいといって嫌った。

本当は誰もが憧れるほのぼのだったのに、
それはつまらないといって嫌った。

倖せにありながら、幸せを求めて倖せから離れていった。
相応、欲に絆されて不幸せ。
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0がある

2014-02-23 | Weblog
是(エネルギーの法則)に善悪は無い。
ただ廻るだけである。そして、そこには目的というものも無い。
ただ廻っているだけである。
くるくると廻っているもので、始まりも終わりも無いものとなっている。
それは、何ものにも妨げられるものではない。唯一であるために。
もしこのことを言葉で表すとするなら全知全能とする。
すべてを司るものである。
それを「是諸法」という。存在そのものの在り方である。
何度も言うようだが、是が諸々の法則であるために、喩えて
是を超えたとするなら、それは、存在とならないのである。
存在とならないものをあれこれと思うことはできない。また、思ったところで何の意味も無い。
「存在」、命あっての物種という事は的確である。が、端的にそういいはまるものであるとして、
深遠であることは言うまでもない。
すべて目に見えることが真実であるが、それは、虚飾に満たされてもいるもので、
見てはいるが見ていない、見えていないとしてあるものである。
そのため、見るとする眼が必要である。
一は一として真実であるが、一は必ずしも一として一で現れているものでもない。
そのことを考察する力、つまり、エネルギーをもっていなければ、一は一だと解けないものである。

是が諸々の存在である。
よって、生命もそのエネルギーでの存在である。
同じエネルギーであるために、その質すべてが含有されてあるものである。
ただ、相対にしてあるもので成り立ち一つの存在であるために、
邪魔となったりならなかったり、持ちつ持たれつである。
それを、知得だったり無知だったりということで、簡単だったり隔たったりとなる。

綺麗なものを作るのにいらないものが取り除かれるように、つまりゴミが出るように、
エネルギーもまた垢が付く。それは条件によっていらないものとして垢となるもので、
もともと不要として垢となっているものではない。目的を持つために要不要となってくるものである。

是は回るという自由をもって質であり、始まりも終わりも無くなっている。
そのために始まりが終わりであり、終わりが始まりとなってただ繋がっていく。
その繋ぎ目が一旦であり、区切りとなっている。それが浄化となっている。
一日であり一月であり一年でありと、時の流れとなって変化である。
それが、
時に応じてとして様々が生じてくる。
回る変化が刺激となって、刺激に対応したエネルギーが生まれるのである。
生じては滅して、滅しては生じてと繰り返されるのである。

回るという事が変わらない、つまり、常住となっているために常住のところには変化が無く、
変化の無いところには時空は無い。
ゼロである。
それがエネルギーの法則で、絶対世界である。
エネルギーである生命は、その絶対世界に安住して円満である。
何の刺激を受けることも無い。


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仮世羅世良ケセラセラ

2014-02-22 | Weblog
この世は仮の世としての実体である。
実体であるために幻ではない。
もともと無として有るものではない。
それを幻であり、真実は無であるために、
もともと無いものに執着してはならないとして
もっともらしく説かれる。
無から生まれたものに執着するために苦が生まれるのだと教えられる。
ただただ幻にあるものとして説かれるのである。
でも、
ここにこうしてあるという実態が幻、虚無などではない。

時は立ち止まることは無く、常に流れている。
片時も止まることは無いとして感じ受けてある。
私たちはその識にあるもので常識とする。
それはまた、一方の受け方であるとしてみれば、
ただ流れ過ぎゆくものであるとするものでもない。
常にとして使い分けてみれば、都合によってなされるものでもある。
心が年を取らないように、時が有るでも無いでもない。
欲する事が執着として捉えられるなら、私たちは無を知ること、すなわち、
見ることもできない。
それは、客観的に見るべきだとしても、決して見ることができないようなものである。
そう思うことが主観であるためである。

こう考える。
幸せになりたいとして不幸を拒めば、
幸せも拒まれてしまう。
幸不幸どちらも拒んで安穏になると自然は諭す。
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対等にして上を行くもの

2014-02-22 | Weblog
あなたと私という人間。
同じ人間であるために同じ様にあるが、私とあなたは全くの別人である。
同じとして捉える様を理解するにも人それぞれである。
まったく同じであるが、違いを含んであることを応変に理解出来なければならない。
優劣というものとは少しばかり違うが、そんな意味合いが時の流れにある。
受ける刺激は違えども、同じ意味合いをもって遭遇している時の流れである。
気づきというのは、どれだけ澄んだエネルギーが心と脳を流れているかというもので、
細くとも太くとも流れの澄んだエネルギーであれば気は良く回り為になる。
受けた様は違えども、気の澄んだ流れは同じという様をよく理解する。
垢の無い様というのは気持ちが良いものだ。
高価低価というのではなく、衣服も、清潔であるものを纏うという事は、良い印象を与える。
高価で煌びやかというのは裏腹で汚れが良くつく。そのために、
あまり良い印象を与えるものではない。

同じ人間でありながら優劣があり、
それは、
優劣としてあるのではないが、優劣として捉える様、時の流れにある。
時の流れのやりくり、それは適材適所というような配列ができればよいのであるが、
乱雑な流れであるために端的に優劣にしてしまう人の心にある。
それを‘気の付かない’という情けなさである。

過程も貧しく、経歴に雲泥の差がある人がいる。
片や人も羨む身の上の人、片や貧しくあり、憐れに蔑まれる身の上の人。
一人の経歴はエリート、学識豊かにあり生活も豊かである。
それに比べて
もう一人は、何の誇れる経歴も無く、学も無く生活も貧しいものである。
だから、知識とて無い。
ただ、
他が凄いと唸る智慧を持つ。
智慧をもってして他の知識を優り、他より優れる。
知恵と知識の対立は、それこそ雲泥の差をもってあるもので、
百度戦って百度落ち度無く軍配が上がるものである。
智慧こそ道理を師として、完璧な訓えに基づくものであるためである。
俗世、人の知識を滅して智慧を得よ。
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黙示録

2014-02-21 | Weblog
カウントダウン、
残86年弱と自然は伝える。
異常現象、兆候である。地球的規模。
時に80億を数える人の群れである。
驕り高ぶる人の心の始末である。
明日かもしれない。一年後かもしれない。
二十年後かもしれないが、いつ起きても不思議はない。
いずれにせよ百年は無いようだ。
未来は不定であるが、諸行無常であるように、
一旦ゼロに戻ると道理は示されている。
過ちは浄化される。


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