つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

依るべき人

2009-10-31 | Weblog
妻は毎日食事を作る。食べることは楽で簡単だけれど、
つくる人は大変だ。長い間それに慣れてしまうと、
食べるだけの人は何もつくれなくなってしまう。
命をつなぐ事だから、命を妻の手の中にゆだねてしまうことになる。
妻に何かがあれば、私も生きていけなくなってしまう。
極端な話、そういうことになる。
自分意外の者に依ることは、常に不安が付きまとう。
もしも不測の事態になれば、その代わりを強いられて
辛い思い苦しい思いをすることになる。なにより、大事なものを失って悲しみにくれ落胆する。
だから、愛しい人をつくるな。ということには理がある。
自分のみを頼りとするなら、あたりの影響を受けず
振り回される心配も無い。
己に依れ。と言うのは道理である。
自分に息を吹きかけて、自分を磨け。身が欠。
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馬鹿を見る

2009-10-30 | Weblog
何か事が起こるとき兆候は現れる。それは
ある一定の間示されるもので、
何も示さず突然に事は起こらない。その
信号は規則性を持たないが必ず発せられている。
それらの合図に気づかなければ、
何事も突然に起こったことと思ってしまうが、
前触れは必ずあった。
物事がブレ始めると崩壊すること違わず。
崩壊して何も無くなり、それから
建設的変化となっていく。
あらゆるものはその期間、平静さと起伏を繰り返し、
静かに忍び寄るために、予感はしても実際を侮ってしまう。
起こって初めて重大さを知り恐怖し悲しむ。
悔いると言うことは侮るところにある。
だろう、よかろう、かもしれないが・・・で馬鹿を見る。
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憎まれっ子世にはばかる世

2009-10-29 | Weblog
色の身をもってこの世とする。
色の身を離れて法の身となる。
色身は法身を求めて生きる身。これが、
なぜ生きる?の最終の答え。
この世は生命の安住の地ではない。
この身は地獄の中にいて、「地獄に仏」のように生きている。
この世は苦しいことだらけ。一つの地獄
憎まれっ子世にはばかると言うように、腹黒い人ばかり(計り)。
腹黒い人の計りにかけられて、不条理なことばかり。
「善人は早死にする」はどうりでうなずける。
悪い人ばかりだから、世の中住み辛い。
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金は悪魔、愛は天使

2009-10-28 | Weblog
サバイバルになったとき、
必要なのは食料。
崩壊してしまった処に金など通用しない。
金は腹を満たさない。
どんなに金があっても食料がなければ
人は死ぬ。
金というものを創った為に
飯を食えずに苦しむ人がどれだけいるだろうか。
金は欲望の化身。
金を食べて生きた人はいない。

人が生きるのに必要なのは愛。
愛は食料を生む。
自然が作ったもの愛。
人が作ったもの金。
愛は育み、金は害う。
人は金によって害われ
愛によって生かされる。
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円い形、自然

2009-10-27 | Weblog
円の値を求めても
値が確定することは無く、
限りなくその数は続く。それは、
円が始まりも終わりも無いものだから。
始まりは終わりであり、終わりはまた始まりでもあるから、
永遠に連なるものとなっているためである。
それがじっとしていることは無く、くるくると回っている。
ありとあらゆるものが、フルフルとゆらいでいて、その揺らぎが刺激となって
物は見える。
そこにあるから見えるというものではなく、刺激とならなければ、
そこにあっても見ることはできない。見えない。
ミクロの世界もマクロな世界もすべては円く、その形は円である。
形を持たない水も中に浮けばその形は丸、円である。
それが法則の形である為に、すべてのものは円い容で存在する。
その円が集合して様々に対応した容を作っている。
人もまた然り。
すべてが静止することなく揺らいでいる。片時も止まることが無い。
それは、法則が止まることが無い為となっている。だから、
人も絶えず動いていなければならない。
じっとしては生きていけないものとなっている。
時も、宇宙も、皆じっとしているものではなく回転している。
あらゆるものが廻る動きとなっている。
エネルギーの法則がそういう性質だからである。
回るために変化して、その変化が時間空間を作っているもので、
変化の無いところには時間空間は無い。

一番はビリと等しく、ビリッケツは一番と変わらない。
どれも存在として相手が存在となっているために、等しい値となっている。
優劣もまた同じ値を持って対等である。
競い一番になりたがるものは未熟なもの。未完ゆえに苦しむ。
競い争うことに意味を持たないことを法則は示している。

中がうつろで膨らんでいるもの、ゼロ。その容を持って
すべてはゼロ(〇)に帰す。それが自然である。あらゆるものが直線ですすむことは無く、
弧を描きもどる。
さて、今日も十二時を回ってまた一時にもどる。
眠るとしようか、そして朝、昨日と同じく繰り返す。

昨日より今日、今日より明日、大人になって円くなった。
大人しくなった。
完成されていくものは、静寂である。
強いものが黙すのは自然である。
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死ぬまえに

2009-10-25 | Weblog
もしも、
何かが自分を追い詰めて、追い詰められて、
生きていくことをやめたいと思ったなら、
いま少しだけ生きて、死について考えてみよう。
苦しいときに死んでしまうと、そのまま死んでも苦しい状態となってしまう。
それは「色不異空」だから。
死んで地獄となり、いつの日か生まれ変わっても辛い世界となる。
それは「空不異色」だから。
「色」はこの世で「空」はあの世。
「色」は刺激を受けて形のある実の世界で、その世界の記憶を心の世界として
現象するのが「空」。
死んで即あの世となる。それを「色即是空」。
「是」は法則、世の道理のこと。死ぬと道理によって
この世は即あの世となる。
あの世もまた「是」によって、即この世となる。それを「空即是色」。
死んでも少しも変わることがないと、死して仏は説いている。
死ぬことを特にまじかに控えるなら、仏の説いた経に触れて、
死の世界を訓えてもらおう。経は実に正確にあの世を説いている。
但し、世に出ているような解釈では仏の意味が伝わっていない。
よくよく正しく解釈することである。なにせ、あの世から語られたものである為に
この世の常識的解釈は通用しない。
知識ではなく智慧で読むとよい。
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自由

2009-10-24 | Weblog
すべての隷属を離れ、
自己を主として生きるのは楽しい。
主人に連れられ散歩に出かける時の犬は、鎖の絆を自由と喜ぶ。
尾を振る様は哀しいかな、人の手の中に預けられている命の
不自由。
何かに頼ることは哀しい。苦しいものである。
他人に依ることをやめて、生きるのに貧しくなって、
でも、のびのびとして楽しく生きられる。
自由とは隷属を離れて不自由となり、不自由は自由なこと。
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オンリーワン

2009-10-23 | Weblog
争うことはやめて、競うことをしないで、
人の上に立とうとしないで、一番になりたがらない。
幸せはそういうところにある。
貧しいながらも分かち合い、助け合い支えあう。共に手をとり
共に歩く。
左の人を右の人が支えて人となり、右の人を左の人が支えて
その界に入る。一人では人と成らず、二人で人となり、分かち合って
人の間の界となる。
競い争うところに、驕り、貪欲、嫉み、憎しみ、苦しみ、悲しみが生まれる。
競い争うな。一人一人の時間にはちがいがあるのだから、
もって生まれた時間で歩め。人は皆
「唯一の人」だから。
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相憐れんで

2009-10-22 | Weblog
特に倫理を守るべき職業にある人が、
弁えることができず不祥事を起こす。
時代における道徳の規範が崩れ、一種の流行の病のように
してはいけない悪が蔓延する。
わがままなる心の思うがままに、
制御する魂が無く乱れていく。何が信じられるものなのかわからずに、
疑うことで身を守ろうとする人達の社会は、
ただ崩壊の道を突き進むだけ。
信じることのできない社会は、地獄の界とかわらない。
今、欲望に倫理は飲み込まれ、耳を疑うことが
ますます多発する。
死に直面した時、初めてそれらに関わることを意識し始めるが、
倫理が乱れた時、正すことができるのは愛だけである。
誰でも孤独であることを知り、競い合うことなく、助け合うことをして、
驕ることなく、でしゃばることなく、
快いことを有ることが難しいことと知り、
感謝して生きていくとよい。人は高度な
相憐れむ生き物である。
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求めていつか為る

2009-10-21 | Weblog
自然にはすべてがあるが、
それは智慧を持って明らめることができるが、智慧が無ければ
自然には何も無い。
暗くなればそれまでである。灯も火も飲み水も
スイッチ一つで得られることなどありもしない。
人の好まざるものたちがそこらじゅうにうようよいる。
人の世の住処が自然に対して不自然なもので、
あまりにたよりないものである。
その頼りないものが堅固で永遠であるように人は生きるが、
曖昧模糊である。
自然はただここにあり、問いて答えず、調べて諭すものである。
人も自然の産物であるが、私が私を知らないように、
自然を知らない。知らないことを無明として、
無明を打ち破るのが智慧である。智慧を身につけて、
自然は宝の山となる。為せば成るとこたえが返る。
そのことは、あまりにも複雑ながら単純である。
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