つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

貧しいというチャンス

2012-07-31 | Weblog
「貧しい中からも分かち与える人は最上である。」
人間としての価値ある人である。
次期人生、裕福を味わう。

裕福であるにもかかわらず物惜しみする人、
次期人生は貧困を味わう。
貧困を味わっても、
更にむさぼり激しくては餓鬼の世界の住人となる。

裕福であって施すのは当たり前である。
それによって何か利益が生じることは無い。
当たり前のことにおまけは付かないものである。
まして下心があるとするなら、次期人生、餓鬼、飢餓となる。
裕福ということは、甘んじていれば怖い目にあうことでもある。
施して当たり前であるために、
当たり前のことをしているだけでは向上は見込まれない。
それどころか、その立場を有効に活かせなかった反動は大きいものである。
この世の中は試しの世界である。
試されて生かされている。
自分の努力の賜物であるとしても、
驕ってはいけない。
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自己責任

2012-07-30 | Weblog
外部からの刺激を受けて想行識が作られるために、この世は
受想行識の世界となっている。この受想行識もまた
是によってそのまま輪廻する。
死ねば、この世は即あの世となって、あの世も即この世となる。
是によるものであるために、この世もあの世も変わらない世界となっている。

苦しいからと言って死んでしまえば、
あの世もそのまま変わることのない苦しい世界である。
これは善人であるとか、悪人であるとかに係わりのないものである。
狂気の沙汰でない限り、死は生きる者には恐怖である。
この恐怖を超えて死を選ぶには、
正気ではありえない。
勇気などと呼べるものではなく、
狂人でなければ常人ではありえない。
狂った気のままに死んでしまえば、狂った世界となって
苦しいだけの世界となってしまう。
受想行識の世界である。
是に善悪など無く、慈悲などもない。
あらゆる面で、自己責任である。
そのうえで、稀なく生まれたこの世の中は、
慈悲ある世界。
生まれたことが苦しみでもあるが、
一つのチャンスでもある。慈悲の慈をもらい、さらに活かせる稀なる機会なのである。
どう受け取るか、心次第である。
是の心遣いをどうくみ取れるか、自己責任である。
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2012-07-29 | Weblog
とても良いものと分かっていても
高価であれば使うことができない。
便利と分かっていても高価であれば
その便利にあやかることは難しい。
命の重さは地球よりも重い、それほど大事なもの大切なものであると
されながら、
病にかかれば、人の命も金で計られる。
裕福であれば助かる命も、貧困であれば軽い命、捨てられる。
そんなことがあってはならないといっても、世界中では多々である。
人は、矛盾の中に生きている。
世の為、人の為、あなたの為と論じて好いものを作っても、
高価であれば、その値の効果はいきわたらない。
生きとし生けるものに幸せをとして、世の為、人の為、あなたの為、そして、それが自分の為である。
いきわたらない効果は慾の為である。他とは一線を画したいという自分の優劣の優、慾の為である。
そこに本音と建前があるために失敗する人の慾絡みである。

あなたの為と真に思うなら、それは、「献」である。
真の愛は「献」である。
故に、真実の神仏に一切の金銭は必要ないものである。」
命を救いたいと思う神仏は「献」の一文字である。
無償に与えられているものであるが、得られる者の自由によって、
そこに障害が作られている。
水に溺れている人を見たとき、咄嗟に助け出そうとする心が献である。
誰にもある心である。
まことに、あなたの為とするなら損得など無く、献の一文字である。
それには、羨み、妬み、恨みはわかないものである。後にも先にも。

正しい者、神も仏も、一切お金はかからないものである。
金品の要求はまがいものである。
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よしっ!

2012-07-28 | Weblog
起き上がるとき、どっこいしょと口に出る。
気だるさが蔓延して、あ~ぁ疲れる。

よし、・・・・と声を出して起き上がる。
何かをするときに必ず「よしっ!」と口に出せば、
なにやら物事がはかどる。
「よしっ」の一声
一日をうまくのりきる。
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退化の運命

2012-07-27 | Weblog
暑いときは汗をかき寒いときは震える。
時に合わせて体は反応して自然に対処する。
何に頼るということなく自らを変えて自然に合わせていく。
なるべく楽に生きて行けるように体は進化していく。
あらゆる機能を駆使していけば、やがて機能は発達して
環境に適応した姿となる。それは適応した姿であるために美しい姿となっている。
無駄の無い姿である。どれひとつとっても役に立たないというものは無い。
自然に合わせるということは、楽に生きていけることになる。
知能というのはそのように使って道理に適うものであるために、
誤りの無い能力となっていく。
それを優れた能力という。すべてにおいて勝る能力である。
すべてにおいてというのは、自然に起こるすべての事柄である。
自然を操ることができることとなる。
それはつまり、気を操ることということ。
自由自在に気を操ることができるために、あらゆる機を制御できる。

自然に合わせて生きる。これが進化である。

知能が誤って使われて、
季節の中で、人に合わせて季節を変えて、暑さ寒さに対応する。
快適というのは、実は体を退化させていく。
依存というものを作り出すために、常に不安が付きまとう。
そして、多大な労力を生み、苦が明確となって降りかかる。
人工的というのは、いつまでもあるわけではない、儚いものであるために。
人は、誤った進化を遂げて、忽然と消えうせる宿命を運命としてしまった。
それは、無知からくるの一言である。
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非情事態にするな

2012-07-25 | Weblog
道に外れたことをしてなければ、
路頭に迷うことはない。
道に外れたことをしなければ、
路頭に迷うこともない。
心配事は生じても難なく消え失せていくことになる。
立ち回ることは皆都合がよくついていく。

善いことをするのも悪いことをするのも自由である。
そのことの果は自業自得で、まぎれもなく受ける。
為した本人に的確にあらわれる。
神仏とて阻止することはできない。
道の理であるために。
道理は非情である。

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察するに

2012-07-24 | Weblog
一日は早い。起きたかと思えば寝る時間になる。
まこともって一日は早い。
そんなことを思う一日の中、
ふと、
ツバメが巣作りをして、卵を産み暖めて子が生まれた。
ひっきりなしに周りを飛び交い、餌集めをして子に与える。
親が来るたび子はわめき、餌をもらう。
ほおばりながら、いつしか子は大きくなって巣立っていく。
親元を離れ、巣には帰ってこない。
親の役目は終わり、子は子としてどこかへ旅立って行った。
親もやがて巣には戻ってこない。どこへ行ったのだろうか。
役目が終わるということは、察するにある。
にぎやかだった巣は、ひっそりと静まり返り、面影を残すのみとなった。
鳥が家のどこかに巣を構えることは、
災いが無いためとして喜ぶ。
なにやら、生き物の安全本能を持って、ほんの少し先大人になるまでを
予め知ったのだろう。そんな不思議を喜んではかりとしていたものだ。
安全というものを道理に学び、
不便をもってして本能を養い、危険を察知した。
やがて、朽ち果てることを受け入れて、
自然に体を横たえて、恐れを感じずに目を閉じていく。
私という一生が閉じられる。一日が終えるようにまことに早くそして、簡単に。
そして、あの人はどこへいったのだろうか、察するにある。恐らく・・・
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このよの幸せ

2012-07-22 | Weblog
食べているときが幸せである。
生きているという意味合いで幸せである。
それよりも、
寝ているときが幸せである。
何も思わずにただぐっすりと
眠っているときが幸せである。
この世の一番の幸せである。
そう思う。

この世に生まれてこれたことが、
花が咲いたことのよう。有り難い事。
あとはどれだけ咲き誇れるか、それだけだもの。
殊の外、
実を付けて楽の種蒔けたなら
それこそ本望、代の幸せ、この余の幸せ。
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花の命は短くて・・

2012-07-22 | Weblog
人生は花のよう。
生きていれば、どんなものにも栄枯盛衰はある。
あまりにその華やかなときは短くて、
辛く、切なく、哀しく、苦しく、虚しくあるものである。
野に咲く花もあれば、路傍に咲く花もあり、手塩にかけられ咲く花もある。
手塩にかけられ咲いた花は、ひときわ艶やかで美しいものであるが、その華やかさのあまり、
近寄り難く香り、造り香を放つ。ちやほやされながら、実に弱い。
まことに、人の手を借りなくしては育たない、憐れな花である。
野に咲く花も、道端の花も、いっとき華やいで美しいものだ。
甘く香るものと、個性ある香るものと、美しくも香らないものと
それぞれにある。美しさに魅せられ手折られて、手折った人を僅かながら飾り立て、絶える花もある。

すぐさまに、花も萎れて草臥れて、実を結ぶもの、種となるもの、ただ伏せるものと、あとかたもなくなってしまう。
華やいだころの美しさはどこへやら、微塵も無くきたなく土に横たわる。
また、次の年、同じように花は咲く。
去年の花に似て・・・。
・・・繰り返すことに何を見出すか・・・まるでそこに知者の意図があるような。
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浄化される日

2012-07-21 | Weblog
普段になくという季節が過ぎ去って、いつしか、いつも通りの秋がめぐってくる。
そのために、「なんか変」を感じていたが、すぐさま忘れて
何事も無かった、あるいは何事も起こらない日々が続いていくものとして、
平和的感情ボケとでも言おうか、無防備、自己中的感覚で持って世の中を判断してしまう。
巷にもじわじわと不都合、不便であって当然が忍び寄っていることに気づくことが無い。
自然は不便であり、不都合としてあるものである。
時として、子供が善し悪しも知らずに、気まぐれでアリの巣穴をかき回してしまうように、
善悪も無く自然は猛威を振るい人々の生活をいじる。
それは、そこに動くものがあり、動くものが動くものにどの様に対応していくのか、いるのかの
反応でもある。汚いものには汚く反応というように。
動くものはその動きに反応して存在の対応となっている。
定まらぬもの、つまり、乱雑に動くもの、起伏が激しいものは刺激の反応が激しくて、ぶつかり合って
壊れてしまいなくなってしまう。それは粉々にわれ砕けて、平らな動きに直されていくのである。
起状の無い滑らかな動きとなっていくのである。それは安定しているために、動いているのか分からないほど静かである。
刺激となることが無いために、永遠とその状態を保つものとなる。完成された姿というのは、
見た目に動きの伴わないものであり、美しいの一点である。
光の速さで動いていて、よって、浮き沈みが無い。何ものにも影響を受けることが無い単独の存在となっている。
あらゆる力が及ばないものとなっている。
幸国には段差が無くまっ平らである。躓いて転ぶということが起こらない。
不便というものが無く、不便を感じることなどない。陰日なたになるところが無く、あらゆることの
利便性のよいものとなっている。
凸と凹が無いのである。互いの不便が合わさってできているために、何も問題が起こらない。
相対性がひとつの中に無いのである。滑らかな動きは、故に、音も無く静かにあり、あるのか無いのかも分からないほどである。
ただ、滑らかに動き輝いている。
乱雑になっているというのは醜く一定性が無い。汚れているという言い方をするが、
汚れていくものはどんどん汚れていくが、あるところまでいけば、汚れは落とされていく。
乱雑が正されて、まとめられたものとなって美しいものに変化していく。
自然が美しいのはそのためである。
絶え間なく動き回ることが浄化の動きとなるためである
完成されていない姿のものは、激しく動き回り、その動きは起伏に富、醜いものである。
やがて、その起伏がゆえに対立しあい削り取られていく。滑らかになり、きれいなものとなっていく。
各性質に見合いその場にあてがわれて、整頓となっていく。
生きているもの、動き回るものはみな浄化のための動きとなっている。
そのことを感知し、認識していったもの、認識が行為となっていったものが、
命の浄化、向上となっていく。幸国に住むもの、整理整頓となっていく。それは、下等であれ高等であれ平等である。
さて、時は進み、豊かな現代になってきた。
まだ発展途上にある国が多いなか、先進国といわれる国においては、善悪の判別もなかなか進んでいるが、
いまだ、人の醜さを克服できないでいる。
差別、いじめ、自分さえよければが横行している。
人のいざこざが大きくなれば戦争、殺戮となっていく。
敵を倒す(人を殺す)ことが、勲章となって正しいとなってほめられる。
生きとし生けるもの、殺されたくて生きているものは無い。
幸せになりたくて生きている。
その心を、自分に他人に当てはめて、誰でもひどい目に合いたくないものである。
それを知らないために、そんな簡単明白なことを知らないために、
野蛮が行われる。
そんな野蛮なことをいまだに改めないでいるのかと、自然は質す、正す。
自然は、浄化の法で成り立っている。
悪がきわまっていくとき、それは正される。
もとを糺せば、人が悪い。致し方なし、自然の判断である。道理の判断である。
それは間違いの無い判断であるために、避けられないものである。
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