つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

読経のためとなった訓え

2018-03-31 | Weblog
どんなに世の中が変わろうとも、明日は必ずやってくる。
それは、エネルギーの法則が変わらないものであるからである。
なぜ変わらないものであるかと言うと、エネルギーの法則が円運動となっているために、
始まりと終わりが同一となり、始まりが終わりとなり、終わりが始まりとなっているためである。
それは、一日という時の流れを見てもわかるように、
一時から始まり零時でおわる。零時からまた一時とつながっていくように、
それは永遠に繋がっていくものである。無くなることのない法則となっている。
だから、明日は必ずやってくる。いままでもそうであったように、これからもそうである。
円運動であるために、その動きの変化が無常を作り出す。
あらゆる物事が無くなることのない中で、常に形を変えて存在を繰り返していく。
その変化を無くなるものとと捉えるも正しい見識であるが、根本は、姿形を変えていったに過ぎないもので、
そのものが無くなってしまったというものではない。時(刺激)に応じて変わっていっただけである。
生命も同じエネルギーであるために、輪廻していくものである。
エネルギーの法則がゼロに帰すものであるために、あらゆるものが浄化となっているのが道理である。
だから、人の生命、その行動もすべて浄化のための行為となっているのである。

エネルギーそのものが無くならないもの、常住であるために、変化のないものであり、
永遠なのである。変化の無いところには時空は存在せず、安定している場となっている。
それが安住の場である。生命エネルギーの本来の目的の場である。ゼロ起点の場である。
そこに行けるよう心を摩(みがく)いて、正しく浄化の行為(正しい人生経験)となっていれば、
エネルギーの円運動より離れて、永遠の場、ゼロ起点の場に留まることができていくものである。
それが解脱である。

人としての生命と智者の生命をかけ合わせて誕生したのが釈迦である。
そのために、荒唐無稽な誕生を為して、生まれてすぐに7歩進んで、天上天下唯我独尊と語ったのである。
人の生命だけでは無理なことである。そして、80年ほどの寿命を人としてあらわし、衆生に宇宙(この世の道理)を
訓えていったのである。釈迦は、その才能並外れた智者であるために、、
人としての縁を完全に断ち切り、純に示し申す者、神となることができ、エネルギーの法則の絶対世界である
安住の地で自由気ままに生きている。釈迦の修行が完ぺきだったのである。そのために、
人としての縁もなくなり、輪廻することがなく、啓示として語ることもないのである。
地上に於いて神となった唯一の生命エネルギー体である。そのように、釈迦の説いた訓えを守り、
行じていけば、誰でも仏陀になれるものであることを示したのである。
しかしながら、一般の人々は釈迦のように精神も強くなく薄弱である。
だから、他の智者たちが、釈迦に代わって説いていったもので、それが
観自在菩薩であり観世音菩薩という白人系智者達である。釈迦の説いた修行を行じて、死後
その世界より啓示として人々に語っていったもので、般若心経を説き、法華経を説いて言ったものである。
啓示として語ることができたことで、釈迦の説いたことが正しかった証明となったのである。
そして、なにも強靭な体力、精神を必要とせず、難行苦行もいらず、エネルギーの法則を悟れることを訓えていったのである。
一般衆生が悟るのに、そのハードルが高くては何の意味もなさないからである。類まれなる優れた人だけが悟れるものであるなら、
衆生救済とならないためである。
そのために、エネルギーの法則の自由、円運動を優しく説いたのが般若心経である。
だから、短く要点だけを述べ、エネルギーの法則の仕組みを語り、内容を説明し、どのように思えばよいのかを
訓え、それを聞いた人々が、なんてすばらしいんだと歓喜の声を上げて言った状況を伝えているのが心経である。
菩薩たちは、人間の在り方を正すために、良き方向に導くために法の絶対世界に赴くことなく、役割をになっているのである。
が、何とも人間は愚かであり、煩悩を払うことがなかなかできず、
般若心経の言葉の意味を間違えて解釈し、それ以来、心経で誰一人悟りを開くものは現れなくなってしまった。
釈迦は生前、そのことをおもんばかっていた。そのために、修行僧は般若心経の前に、わざわざ序文として開経偈を付け、
心経の文字に惑わされないよう正しく解釈してくださいよと、如来の案じていることを告げたのである。
にもかかわらずに、正しく文字の意味を解釈することなく、「無」を「ない」と訳して、エネルギーの実体を否定してしまった。
すべてが幻であると解釈していったのである。そして何もかも間違って理解され、ただ読経の為の経典でしかなくなったのである。
どんなに読経したところで、何の力も発揮されないものとなっているのである。


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2018-03-29 | Weblog
般若心経で説かれる「無」の文字は、
「ない」と訳されるものではなく、
「無くならない」と訳されてこそ正しい訳である。
エネルギーが円運動であるためである。
般若心経は、エネルギーの法則を訓えているもので、
けっして否定の経典ではない。
「無」を語ることができるのは「有」だからであると
「無」を理解することである。
真実、「ない」とするなら、語ることはできない。
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馬鹿力

2018-03-28 | Weblog
人の世の中、お金があれば偉い人。
ただそれだけである。
他の生命に通じるものではない。

偉さというのは何だろう?
愚かである。
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茶番劇

2018-03-27 | Weblog
証人喚問のむなしさ。
支配という縦割りは、
人道を間違えて使われ、
巨悪をほくそ笑ませる。
悪に加担するものの末路は、追って知るべしで、
ただ哀れとしか言いようがないのを道理は示す。
偽善は、良心にさいなまれて憔悴しきり、悲惨に命を落とす。
どうぞ、心に素直であれ。
人の為にとすれば、自分は生きていけなくなるものである。
優先は、自分を第一としての人の為としていかなければ、
必然行き詰まる。息詰まる、生き詰まる。
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好転作用における一時期の歪現象

2018-03-26 | Weblog
老人大国となる。
先進国の中で、人口減少、老人増加、若年層の著しい減少は国力の衰退。
不妊、精子減、認知症、癌、心筋梗塞、脳梗塞等々増加の一途。

日本人種は有能にしてある。武士道にある精神は、極めて他国の脅威となるために、
押さえておかなければならないとする思惑がある、と
プロビデンスの目は言う。
洗脳は事細かにはかどられ、思惑通りに進んでいるが、
自然は元に戻る性質である。どんなに人工的に図っても自然に治癒していく。
直、人道は復活する。
自然は正義である。自由の正義である。
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戦々恐々の時を促進

2018-03-25 | Weblog
人間の歴史は、争いの歴史。
地上のいたるところで戦争が行われて、悲惨な歴史を歩みながら、
反省とは言葉上の反省でしかなく、
今なお世界のどこかで紛争があり、また、核の脅威にさらされた状態にもある。
人間は愚かである。
日本国においても、トップにある立場の人が不正行為云々で言い争い、激しく揺れ動いている。
もはや、地上は悪が蔓延していて、何が正しくて信じてよいのかわからない状態である。
この傾向は、紛れもなく淘汰されていく様を呈している。
自然の力というのは、偉大である。
自然は常にゼロに帰す浄化の法則で成り立っている。
これは道理であるために絶対で、特に乱れた状態にある時は、正常に戻る仕組みが早まるために、
間もなく一掃となると感ずる。
愚かなる者は、悲惨な状況を促進してしまう。
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「歴劫不思議」

2018-03-24 | Weblog
「一生涯考えなくともよい行為となっていく」、考えることの要らない行為となる、
つまり、
迷うことのない行為となるということ。
すべてのことが即判断となり、即行為となるということ。

エネルギーの法則は、宇宙の統一された法則である。
そのために、エネルギーの法則を知り得た者は、
一事が万事として、経験しない事でも知り得ていく。

エネルギーの法則は円運動であり、その自由である。
自由の存在である。
だから、
自由を理解することである。
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自由を知る

2018-03-23 | Weblog
心をみがくということは、エネルギーの法則、その自由を知るということである。
知れば自ずと身に具わっていくものとなる。つまり、
行為が法の行為となっていくためである。
法は、善悪のない絶対善の動きであるために、自然と善行為となっていき
知恵が身についていく。知恵は経験の識であるために、誤りのない判断となり即行為となるために、
あらゆる災いから瞬時さけられていく。常に不思議な力となる。
観音経で説かれる力である。
法則の身についた心の自由な力である。



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人の行為はすべて浄化のための行為

2018-03-22 | Weblog
人の行為は、すべて浄化のための行為である。エネルギーの法則が浄化の法則となっているためである。
人が死んであの世となっていくが、天国となるのも地獄となるのも、その人の心次第である。
人の死後の世界は、エネルギーそのものの世界。
つまり、法則の自由の絶対世界であるために、
如何なる力もその自由を侵すことはできない。
だから、一切反応することは無い。
死後の世界は、意識の現象世界である。各々その人個人の心の世界である。
他人が入り込むことはできない。
天国は、法の行為、つまり、浄化の行為がされている心の現象世界である。
その人のみの世界となっているために、その人の心が浄化されていれば、その人に
現れる世界。だから、その人には、すべてが善人として現れている世界である。他人に影響されることは無い。
地獄は、誤った浄化の行為の世界である。すべてが悪人として現れている。
地獄も天国も絶対世界であるために、作られてしまえば変わることがない。
その人の心次第の現象世界なのである。
だから、人生、生きているときが要、とても大事なのである。
行為がすべて浄化のための行為となっているために、
誤った浄化の行為とならないように生きなければならない。


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願解如来真実義

2018-03-21 | Weblog
円運動はゼロに帰すための運動である。
そのために、すべての浄化となっている。
きれいになることが円運動の性質なのである。
それが運動の自由である。
自由という言葉の意味を本当に理解するなら、
束縛から離れられることを知るが、
この世においての身なるが故に、翼を持っていながら
飛ぶことが難しい。自由なる自の分にして翼を使えないのは、
心の無知にある。
もって、心経の文字に礙げられないように、心を磨き自由に解釈することが肝要。
法則の自由に沿うように。
円運動は浄化である。ゼロが起点である。
円運動の法則には善悪は無い。自由である。善悪は人の善悪である。
だから、善いことも悪いことも現れたことが法則の正義としてある。
法則は、誤った思いも善としてしまうのである。
善悪がないためにである。
願わくば、如来(法則)の真実の意味を善く解さんことを。







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