どんなに世の中が変わろうとも、明日は必ずやってくる。
それは、エネルギーの法則が変わらないものであるからである。
なぜ変わらないものであるかと言うと、エネルギーの法則が円運動となっているために、
始まりと終わりが同一となり、始まりが終わりとなり、終わりが始まりとなっているためである。
それは、一日という時の流れを見てもわかるように、
一時から始まり零時でおわる。零時からまた一時とつながっていくように、
それは永遠に繋がっていくものである。無くなることのない法則となっている。
だから、明日は必ずやってくる。いままでもそうであったように、これからもそうである。
円運動であるために、その動きの変化が無常を作り出す。
あらゆる物事が無くなることのない中で、常に形を変えて存在を繰り返していく。
その変化を無くなるものとと捉えるも正しい見識であるが、根本は、姿形を変えていったに過ぎないもので、
そのものが無くなってしまったというものではない。時(刺激)に応じて変わっていっただけである。
生命も同じエネルギーであるために、輪廻していくものである。
エネルギーの法則がゼロに帰すものであるために、あらゆるものが浄化となっているのが道理である。
だから、人の生命、その行動もすべて浄化のための行為となっているのである。
エネルギーそのものが無くならないもの、常住であるために、変化のないものであり、
永遠なのである。変化の無いところには時空は存在せず、安定している場となっている。
それが安住の場である。生命エネルギーの本来の目的の場である。ゼロ起点の場である。
そこに行けるよう心を摩(みがく)いて、正しく浄化の行為(正しい人生経験)となっていれば、
エネルギーの円運動より離れて、永遠の場、ゼロ起点の場に留まることができていくものである。
それが解脱である。
人としての生命と智者の生命をかけ合わせて誕生したのが釈迦である。
そのために、荒唐無稽な誕生を為して、生まれてすぐに7歩進んで、天上天下唯我独尊と語ったのである。
人の生命だけでは無理なことである。そして、80年ほどの寿命を人としてあらわし、衆生に宇宙(この世の道理)を
訓えていったのである。釈迦は、その才能並外れた智者であるために、、
人としての縁を完全に断ち切り、純に示し申す者、神となることができ、エネルギーの法則の絶対世界である
安住の地で自由気ままに生きている。釈迦の修行が完ぺきだったのである。そのために、
人としての縁もなくなり、輪廻することがなく、啓示として語ることもないのである。
地上に於いて神となった唯一の生命エネルギー体である。そのように、釈迦の説いた訓えを守り、
行じていけば、誰でも仏陀になれるものであることを示したのである。
しかしながら、一般の人々は釈迦のように精神も強くなく薄弱である。
だから、他の智者たちが、釈迦に代わって説いていったもので、それが
観自在菩薩であり観世音菩薩という白人系智者達である。釈迦の説いた修行を行じて、死後
その世界より啓示として人々に語っていったもので、般若心経を説き、法華経を説いて言ったものである。
啓示として語ることができたことで、釈迦の説いたことが正しかった証明となったのである。
そして、なにも強靭な体力、精神を必要とせず、難行苦行もいらず、エネルギーの法則を悟れることを訓えていったのである。
一般衆生が悟るのに、そのハードルが高くては何の意味もなさないからである。類まれなる優れた人だけが悟れるものであるなら、
衆生救済とならないためである。
そのために、エネルギーの法則の自由、円運動を優しく説いたのが般若心経である。
だから、短く要点だけを述べ、エネルギーの法則の仕組みを語り、内容を説明し、どのように思えばよいのかを
訓え、それを聞いた人々が、なんてすばらしいんだと歓喜の声を上げて言った状況を伝えているのが心経である。
菩薩たちは、人間の在り方を正すために、良き方向に導くために法の絶対世界に赴くことなく、役割をになっているのである。
が、何とも人間は愚かであり、煩悩を払うことがなかなかできず、
般若心経の言葉の意味を間違えて解釈し、それ以来、心経で誰一人悟りを開くものは現れなくなってしまった。
釈迦は生前、そのことをおもんばかっていた。そのために、修行僧は般若心経の前に、わざわざ序文として開経偈を付け、
心経の文字に惑わされないよう正しく解釈してくださいよと、如来の案じていることを告げたのである。
にもかかわらずに、正しく文字の意味を解釈することなく、「無」を「ない」と訳して、エネルギーの実体を否定してしまった。
すべてが幻であると解釈していったのである。そして何もかも間違って理解され、ただ読経の為の経典でしかなくなったのである。
どんなに読経したところで、何の力も発揮されないものとなっているのである。
それは、エネルギーの法則が変わらないものであるからである。
なぜ変わらないものであるかと言うと、エネルギーの法則が円運動となっているために、
始まりと終わりが同一となり、始まりが終わりとなり、終わりが始まりとなっているためである。
それは、一日という時の流れを見てもわかるように、
一時から始まり零時でおわる。零時からまた一時とつながっていくように、
それは永遠に繋がっていくものである。無くなることのない法則となっている。
だから、明日は必ずやってくる。いままでもそうであったように、これからもそうである。
円運動であるために、その動きの変化が無常を作り出す。
あらゆる物事が無くなることのない中で、常に形を変えて存在を繰り返していく。
その変化を無くなるものとと捉えるも正しい見識であるが、根本は、姿形を変えていったに過ぎないもので、
そのものが無くなってしまったというものではない。時(刺激)に応じて変わっていっただけである。
生命も同じエネルギーであるために、輪廻していくものである。
エネルギーの法則がゼロに帰すものであるために、あらゆるものが浄化となっているのが道理である。
だから、人の生命、その行動もすべて浄化のための行為となっているのである。
エネルギーそのものが無くならないもの、常住であるために、変化のないものであり、
永遠なのである。変化の無いところには時空は存在せず、安定している場となっている。
それが安住の場である。生命エネルギーの本来の目的の場である。ゼロ起点の場である。
そこに行けるよう心を摩(みがく)いて、正しく浄化の行為(正しい人生経験)となっていれば、
エネルギーの円運動より離れて、永遠の場、ゼロ起点の場に留まることができていくものである。
それが解脱である。
人としての生命と智者の生命をかけ合わせて誕生したのが釈迦である。
そのために、荒唐無稽な誕生を為して、生まれてすぐに7歩進んで、天上天下唯我独尊と語ったのである。
人の生命だけでは無理なことである。そして、80年ほどの寿命を人としてあらわし、衆生に宇宙(この世の道理)を
訓えていったのである。釈迦は、その才能並外れた智者であるために、、
人としての縁を完全に断ち切り、純に示し申す者、神となることができ、エネルギーの法則の絶対世界である
安住の地で自由気ままに生きている。釈迦の修行が完ぺきだったのである。そのために、
人としての縁もなくなり、輪廻することがなく、啓示として語ることもないのである。
地上に於いて神となった唯一の生命エネルギー体である。そのように、釈迦の説いた訓えを守り、
行じていけば、誰でも仏陀になれるものであることを示したのである。
しかしながら、一般の人々は釈迦のように精神も強くなく薄弱である。
だから、他の智者たちが、釈迦に代わって説いていったもので、それが
観自在菩薩であり観世音菩薩という白人系智者達である。釈迦の説いた修行を行じて、死後
その世界より啓示として人々に語っていったもので、般若心経を説き、法華経を説いて言ったものである。
啓示として語ることができたことで、釈迦の説いたことが正しかった証明となったのである。
そして、なにも強靭な体力、精神を必要とせず、難行苦行もいらず、エネルギーの法則を悟れることを訓えていったのである。
一般衆生が悟るのに、そのハードルが高くては何の意味もなさないからである。類まれなる優れた人だけが悟れるものであるなら、
衆生救済とならないためである。
そのために、エネルギーの法則の自由、円運動を優しく説いたのが般若心経である。
だから、短く要点だけを述べ、エネルギーの法則の仕組みを語り、内容を説明し、どのように思えばよいのかを
訓え、それを聞いた人々が、なんてすばらしいんだと歓喜の声を上げて言った状況を伝えているのが心経である。
菩薩たちは、人間の在り方を正すために、良き方向に導くために法の絶対世界に赴くことなく、役割をになっているのである。
が、何とも人間は愚かであり、煩悩を払うことがなかなかできず、
般若心経の言葉の意味を間違えて解釈し、それ以来、心経で誰一人悟りを開くものは現れなくなってしまった。
釈迦は生前、そのことをおもんばかっていた。そのために、修行僧は般若心経の前に、わざわざ序文として開経偈を付け、
心経の文字に惑わされないよう正しく解釈してくださいよと、如来の案じていることを告げたのである。
にもかかわらずに、正しく文字の意味を解釈することなく、「無」を「ない」と訳して、エネルギーの実体を否定してしまった。
すべてが幻であると解釈していったのである。そして何もかも間違って理解され、ただ読経の為の経典でしかなくなったのである。
どんなに読経したところで、何の力も発揮されないものとなっているのである。