つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

なぜ?

2011-10-31 | Weblog
もし、あなたに恐怖という思いが無ければ、
あなたにとって神や仏などは必要ないものである。
信仰するものなどなくなるはずである。
恐怖があるから超人的ものに縋る。
恐怖から解放されない限り、神が存在となるのである。
恐れるものが無ければ、何を崇拝することがありましょう?
恐怖からの解脱。これが神からの解放でもある。
いるともいないとも知れないものからの解放である。
人の心の恐怖、それが神を存在としているのである。
人の心によって、
それゆえに、
極楽=天国は人によって創られていくもので、天国で生きていくために
今生の努力があるのである。このように理解されたならば、死も、人の努力も矛盾とはならない。何の為に生きるかに答えは出る。
何の為に生まれ、努力するのかに答えは出る。なぜ死があるのかに答えは出る。

努力が決して無駄となることが無い為に、精進努力を進めるのである。
時は、たゆまなく進んでいく為に、怠ることなく怠ることなくと。

死が人の命の無くなってしまうことであると思っているために、死が恐怖となり、
死が絶対であるために恐怖も絶対となって、解脱できなくなっている。

生命は肉体を失っても、生命自体は死がないのである。
それは、法がなくならないからである。だから、法には死も恐怖もないものである。
その法則によって生命は創られているのである。

無知であることが恐怖であり、不安を募り、
そのために、信仰となっていく。信仰することによって不安が除かれていくためである。
その信仰が誤っていれば、恐怖から逃れることができなくなってしまう。
信じていることが誤っていれば、誤りが絶対となって、何もかもが誤りの世界となっていく。
だから、恐怖が消えることが無く、超人的なもの、神を必要とし、神へ祈っていくものとなってしまう。

無知をなくして真実を知る。その真実とは、生命には死が無いことである。
真実の世界が人の死後の世界である。死後の世界こそ法則の世界であり、生命の真に住む世界である。
人はその無知によって、行為が誤り、誤りによって幾たびも苦の生死を繰り返す。
無知をなくし、真実を覚り、二度と苦しみの生死を繰り返さない為に、努力して、生まれた今を生きていくのである。
真実の世界が法の絶対世界である。生命の目的の世界である。死後の世界である。絶対である為に、何ものにも犯されることの無いとなり、永遠な世界である。

金を稼ぐに卓越することではない。成功した人生?、勝ち組負け組みとかの物質的な利ではない、今生の幸せではない。
生きていくのはそんなことのためでは微塵も無い。死後の世界を正しく創る為である。善行に勉めよである。
死は絶対である。肉体に不老不死は無い。過去にも未来にもである。なぜか?
死が希望であるからである。苦しみから学ぶものである為に、哀しき者の生である。法の慈悲の慈である。
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無償の愛

2011-10-29 | Weblog
風雲
急を告げる。

他人の不幸
蜜の味と心の中に思えども、
あからさまを嫌い、お悔みを述べる。
私は正義で
悪いのは他人として生きていて、
善人であることをすこぶる強調する。
負けじと張り合ういやらしさを持ち、
一線を画したいという標準の低さを
省みることを思わず、ただ自分が一番大事。
人の心、魑魅魍魎。
性善、欲におおわれて不善となり、
まさかの事態見誤る。
あちらもこちらもぎこちなく、
ぎくしゃくぎくしゃく。

折あるごとに身を挺して、助け舟となれば、
命終える中にあっても、絶えることなくとなるのだが、
献身、疑いを持って報われることが無い。

変動期。献身的を問われ、尚、偽善であるならば、

一つが滅びて一つが現れる。

巷の心、今また問われて、無償にて道が開けるだけである。

風や雲は、それとなく兆しをさして、気づかぬ人のぼんくら、
急と感ずるものである。

風の流れ、雲の形が一つと同じものをつくることがないように、
雨は雨の、嵐は嵐の様相を見せて一様であるけれど、
初めてのこととして驚く。
平和ボケである。

ズルイとする思いがくすぶるために、
愛がくすむ。
絡ませることではない。
愛は愛。ズルイはズルイにかかわる為に、
はっきりと分かれる道に出会う。
愛は一様に与えられるのである、ズルが勝手に離れてしまうだけで。
その心と裏腹に、ズル意には悪がべったりであるために。
ズル意には、ただただ後悔だけである。
死の中にあって、ただ死ぬだけである。
愛もそれには及ばない。
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心災

2011-10-28 | Weblog

穏やかで、
攻撃性
真に無く、思慮深くあり優しい。
温厚な人は癒す人である。
君子人である。

もともとの質でもあるが、
七転び八起きして培ったものである。
超ということはない。

英気を養い、智慧を持ってまだ来ぬものを見れば、
そこは、満々に湛えられた水の中に揺らぐ現世の姿。
遠くにある日、四十日四十夜
雨が降り続いたように、
今また水に流される人の世の夢。
八十億の仏となりし。
二十一世紀の出来事である。
歴史に残るも、歴史も無くなり。
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三拍子そろえて

2011-10-27 | Weblog
口に於いて好いことを語って、
身に於いて好いこと為しても、
その意に於いて損得があり、
そっと舌を出していたなら、
報われることはありません。

人の不幸も我が身のように気の毒がり、
その幸せも我が身のように安心がれるなら、
その心、実に確かに喜んで尊ぶことです。
素直に、何かに付けて報われるものとなります。
徳を得るというのは、心にかかるのです。
心にもとづいて突き動かされ、生きていくのですから。
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魂を込める

2011-10-26 | Weblog
魂のあるものが携われば、
魂が宿る。
魂が宿れば優れる。
魂のあるものには精密なものさえ敵わない。
曖昧である人の
最も
優れるところである。
魂を込めろ。
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無知

2011-10-25 | Weblog
「・・・淀みに浮かぶ泡沫はかつ消えかつ結びて久しくとどまりたるためしなし。
世の中にある人と住処とまたかくの如し。・・・」

「・・・驕れる人も久しからずただ春の夜の夢の如し、
たけき者もついには滅びぬ、偏に風の前の塵におなじ。・・・」
方丈記と平家物語にある一節である。
無常を述べていて、光陰矢の如しである。
実に光陰矢の如しである。偶成にある「少年老い易く・・・一寸の光陰軽んずべからず・・・」と謳われた通り、
何もできないままに人生は終盤を迎えるものだ。凡人、日一日、実に貴重なものなのだと知る由も無く、
無駄に過ごすのみである。
先人達が口をそろえて儚さをうたい、
執着することの無意味さを訓えるのに、
執着して生きている。ただ、今生の幸せだけの為として、識を常として。
誠に無知である。
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摩訶般若波羅蜜多心経

2011-10-24 | Weblog
頭脳明晰であるならそんなに苦労もいらないであろうけれど、
なかなかそんなわけにはいかない。頭がとりわけよいわけでもなく、
年を重ねるごとに記憶はぼやけ覚えも悪い。
これといった取り柄も無く、ただ理由もわからず生まれてきて、生まれてきたから生きているだけという毎日。
死ぬのも怖いし、寿命尽きるまで生きていくだけとして生きている。あまりに凡人であるがゆえに、
難しいことにはすがれない。年を取れば取るほどに朝が辛い。身体はこわばり、
この先の不安が募るばかりで何もかもが嫌になる。そんなある朝、
夢うつつながら、眩い朝日と共に男とも女ともつかない人物が現れた。
夢枕に現れたのだ。そしてこう告げた。
「私の説くことの心経を唱え、何度も何度も読み返して、その文字にさまたげられることなく、
智慧を持って読み解きなさい。決して難しく思ってはならない。難しいものではないのだから。
超人といわれ、優れたものであるなら手助けなどいらないではないか。私は駄目な奴だと思う人にこそ
効き目を発するのである。さぁ、心経をその目で見、胸に刻み、読み返すのです。子供のように
私を信じて。」と。
その後、日一日と欠かさず
目で読み、心に読み、口ずさんで、智慧をつけて目からうろことなった。
何故に摩訶般若波羅蜜多心経と題されたのか。

親しき友に、愛しき恋人に、愛すべき家族に待たれて迎えられるように、
死もまたそのようなものと知る。
心経の功徳は、死の恐怖を希望に変える。絶対訪れる死をである。
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真実

2011-10-23 | Weblog
人それぞれである。
まさに人それぞれであるために、
思いもそれぞれである。
処が違えば環境も違い育ちが違う。
だから、同じ物事でも感じ方がそれぞれ違う。
真実は一つであれど、たどり着く方法はいくつもに分かれてあるように語られる。
が、やはり、一つの筋は通っていてたどり着くものである。筋が違えば真実にはたどり着くことが無い。
真実がいくつもあれば、真実ではなくなってしまう。何を信じていいのか、その人それぞれの思いによっての
真実とされてしまう。同じことを聞いても、思いを違い受け取る人がいる。
それが
信仰も誤れば地獄に落ちるということである。
信仰は、筋違いとなれば確実に地獄に繋がってしまう。なぜなら、真実が一つである為に、筋違いとなれば
真実には繋がらず虚偽に繋がることになるから。虚偽は悪である。悪は地獄である。
善が善ではないとされ、
善でないのが善とされてしまう為に、善がなくなってしまい悪だらけとなってしまう。

真実は善である。その
真実とは法の真実である。
法には善悪などは無い。そのために、絶対善となっている。
法に創られ、神も仏も法の存在である。法を超えるものは何一つ無く、
法に沿って生きることによって幸せにたどり着くのである。
それが、法を知り得た神、仏の説くところの行為である。
善いことをして生きていきなさい、と。
それが、真実である為に。


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宇宙

2011-10-23 | Weblog
見えないが存在している。
見えないから無いとは限らない。
見えなくてもそこにあり、聞こえなくても音があり、
感触無くても触れているものはある。
感官研ぎ澄まされて見えてくるものあり、聞こえてくるものあり、感じるものある。

時を捉えて映像が刻み込まれる。
時を捉えて音が記される。
そこには、今が過去となって保存されている。
捉えようもないものが捉えられてそこでは繰り返される。
光に変換された時を捉えた。
心というエネルギー。

ものはあるから見えるのではなく、刺激とならなければあっても見えてはこない。
見る目(見ようとしなければ)が無ければ見えないものである。

無から有がつくられることは無く、有からつくられるものである。
ある一点に円い容で偏在しているものである。
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勘違い

2011-10-22 | Weblog
好奇心でもって
性交を愛だと勘を違わして、
異性に愛を語る。愛情などと呼べるほどの心など無いのに、
ただ慾という渇愛である。
若気の至りから始まって、老いて尚おさまることなく、狸という男、狐という女のたぶらかされた言葉と知りながら、
それでも未だ半信半疑、好奇心くすぶり、愛だと暗示して騙し騙され、騙され騙しあう。そして、
身体と心がただ汚れあう。好きなのは快楽、欲渦巻いてあふれ出た人、人、人。
我欲の産物。その果の歴史は争い。我が一番として、お山の大将になりたがる。気に入らないものは殺害。
人間というのは、さしも身勝手な者。自分に合わないものは害の字を付けて排除したがる。
あぁ、さもしい、さもしい、浅ましい。
そんな心の人には
対岸の火事、いつかは自分にもやってくる。それは
哀れみの目で見る人、恨めしく見る人に入り乱れて
分かれているだけである。
ほんの勘違いが発端である。
勘を違えた性の交わりは、悲しく切ないものである。
あなたは、どんな最期を遂げるのでしょうか?
いつか必ず来る最期の日。
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