つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

習慣を身につける・・・

2006-01-31 | Weblog
 習慣を身につける。
習慣とすること。習慣とするよう努力すること。
常に反復することを習慣として身につけること。
悪をなさない習慣、善をなす習慣、これを反復する。

「道理を実践する人を、常に道理が守る。
道理をよく実践すると、幸せを受ける。
道理をよく実践すると、優れた利益がある。
道理を実践する人は、悪いところ(地獄)に趣かない。」・・・と仏は説いた。
真実である。

凡人である自分は、先ず、‘習慣として身に覚えさせること’である。
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滅亡の進化となってる。

2006-01-30 | Weblog
 「神よ、彼らを許したまえ、彼らは知らないからである」と、処刑されるとき、キリストが最後に言った言葉である。
彼らを救うことができなかったキリストの懺悔の言葉である。
釈迦は、「この世において、救われる術はすべて渡し終えた。」といった。

釈迦もキリストもこの世での人類を救うことはできなかった。が、
共に、あの世の救いを説いたもので、生命そのものの救いを説いたものである。
生命に死がなく、あの世が生命そのものの世界である為に、あの世で幸せとなるための術を、様々な方便を持って、この世において、すべて伝えたとしている。
キリストは、隣人愛でその方法を説いたのである。
苦しみから逃れられ、幸せと成る為の方法を、一生懸命説いたのであるが、
気がついて、信じて、それに沿っていくか否かは自由であるために、その自由の選択を人類は誤ってしまっている。
そのために、滅亡の進化となっている。
その証が、紛争、殺戮、戦争という歴史である。今なお止むことなく世界のどこかで戦争がおきている。

あの世は法の絶対世界で、生命そのものの世界である。
エネルギーの円の動きが法則で、すべてがこの動きの存在となって作られている。
円の動きである為になくなることのない動きとなって、始まりも終わりもない動きとなって、矛盾のない存在となっている。
宇宙も、原子の世界も、この動きの存在である。
そのためにすべて丸い形をしている。
生命もエネルギーであるため、なくなることがなく、死が無いものとなっている。
法則がなくならないためで、法則で作られた存在であるためである。
この法則を理解して、肉体が自分ではなく、生命が自分である為、死が無い生命の幸せの為として、生きていることに気がつくことである。




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気がつく者のみ・・・

2006-01-29 | Weblog
 変化が刺激となって、その刺激をうけて、刺激に対処した人の行為が経験となる。
経験は知識となって記憶となる。
その記憶が現象となって世界をつくる。生命の世界である。
生命は自分である。生命そのものに死はない。
現象となって作られた生命の世界が、自分の存在の世界である。つまり、死後の世界、あの世である。
今生きている自分としての人生経験が、自分としての生命の現象世界を作る。
自分だけの現象である為に、自分だけの世界である。自分が記憶したすべてが存在する。
今の父母も、記憶の父母として、自分の現象の世界の存在となる。そのために、
自分が死んだとしても、あの世には記憶の父母として、父母が存在し、現世の父母ではない、記憶の現世の父母である。
分かりやすく言えば、夢で見る世界である。
夢で見た父母は、今の父母であるが、夢の父母であり、今の父母とは違うのといっしょである。
自分としての姿かたちをした生命の現象の世界は永久の存在である。
そのため、自分としての姿かたちをした人生を悪に結ぶと、
自分としての姿かたちをした現象の世界は、苦しみの世界として永久の存在となる。
生命は輪廻より解脱しない限り、自分としての姿かたちをリセットして、
亦違う姿かたちの自分として転生して、人生をつくる。
それを繰り返す。
自分としての姿かたちをした個々の世界は存在していくが、
すべて苦しみとしての存在である。
その個々の世界をつくらないことが、生命の目的である。
生まれてくる目的である。
その目的を達成するのが善行である。
善行が輪廻を離れる為の唯一の方法である。
仏は教えているが、これに気がつく者のみが救われていく。
教えは命令ではない。そのために各自が気がついて、行為としていかない限り、救われないものとなっている。
釈迦もキリストも、これを心配したが、導く方法は命令では得られないものである為、何度も説いていったのである。
愛を、善の行為を、法を・・・

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偽りで得たものは・・・

2006-01-28 | Weblog
 今生において利己的な者は、幸せに趣くことはない。
今、人を欺いて、自分の思うようになっているとしても、それはあまりに一時である。 悪いことをして大金を手に入れたとしても、そして、それがしばらくの間うまくいって続いているとしても、そのために、幸せを味わっているとしても、幸せだと思えたとしても、それはあまりに愚かなことで、恐ろしい事なのである。
偽善で手に入れたものは後に、おそろしい形態となって現れる。
有形であり、無形であり、様々に襲いかかる。
それは、偽善をなした縁によってつづいて、終わることがない。
偽善で得た今生の、幸せと思えた一時から比べれば、はるかにはるかに長い苦しみの時間である。終わることがない時間なのだから。

生命は今生限りの存在ではない。連綿である。
そのために、なした行為の縁によって現象されていくものである。
報いは、報い手が現世よりいなくなったとしても、報いはなくなったわけではないため、報いは、離れることなくついていく。
生命はなくならないために・・・
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愛を与える人は・・・

2006-01-27 | Weblog
 たとえば、自分は良く動き、よく働いた。よく頑張っている。
そんな自分を好きになる。
そんなふうに日々過ぎていく自分の周りに、あまり動くことがなく、労力を極力避けて、要領よく動こうとするやからがいる。利己的で、利他となることに興味はない。ご都合主義な人。
類は類を呼んでいくものであるが、なぜ、自分のそばに、正反対なものがいるのか。それもいつもいっしょに・・・。
「怨憎会苦」であろう。この苦であるものが、なぜ勤勉に励むもののまえにいるのだろうか? このなぜ?に気がつくことである。
常に自分のまえにあらわれる、なぜ?にどう対処していくのか、どう対処したのか、が自分の良し悪しを決める。幸不幸の趣である。
自分の前に現れる事柄に慈をもってあたることを、問われている。
「情けは人の為ならず、めぐりめぐって自分の為」を理解することである。
愛について、正しく理解すること。
愛を与える人は、愛に潤う。
愛する者が愛する者に対してする行為は、愛の行為である。
それを自分に対してしていることになるために、自分は愛に満たされる。
愛を与える人は、自分を最も愛している人と言える。

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辛いと思う日々は・・・

2006-01-26 | Weblog
 人は苦しみの中に生まれる。
苦しみの世界である為に、生きていくうえで、何かと辛い思いをする。
辛いと思う日々には、それなりの意味がある。
ただ意味もなく辛い日々があるわけではない。

楽なことに浸っていると、けっしていいことはなく、むしろ人はダメになっていく。
過去の業で今があるのか、過去の報いの仕業で今があるのか、分からないが、生まれてくるときは、すべてリセットされて何もない。
その為に、また一から始まって、つくられる。

辛いと思う日々は、人を育てるものである。
辛いことに出会っても、どう思うかで、右にも左にもなりうるものである。
そのときに、なぜそんなことに出会っているのか、
何を学ばなければならなくて、その時々の事があるのか。気がつくことである。
何も知らないために出会うさまざまな事象に、気をつけて見つめるべきである。
事象は意味を持って、自分の前に現れている。
無駄に現れているのではなく、現れた事柄に対してどう対処したかで、自分は創られていく。
苦しみの中に生まれているものである為に、辛いと思う日々はさまざまに現れる。
その辛さは自分を育てる為にあるもので、苦しみのなかからぬけだせる智慧をあたえる。
辛いと思う日々を意味あるものとし、自分に生かすことである。
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無に帰った後の世に・・・

2006-01-25 | Weblog
 人は悲しいものである。ただただ悲しいものである。
現世において、幸せである人でも、不幸せである人でも、
賢い人でも、愚かな人でも、同じ姿かたちをしていて、同じ人である。
何も変わらないのに、喜ぶ人がいて、苦しむ人がいる。
同じ時間に生きていて、大きな違いがある。
有様はどうあれ、必ず死んで、同じく骨となる。
どれだけ違いがあったとしても、同じく何もなくなる。
この世では、誰でも同じく、無にかえる。

天国と地獄があるのは、無にかえった後の世である。
富む者と貧しき者の差で天国と地獄があるのではない。
愛によって、愛の行為によって、趣くところの違いがある。

「色即是空」・・・が法である。「是諸法」である。
法を悟る者が苦より解脱できるものである。
その法を説いているのが、般若心経である。
般若心経を何度も何度も読んでみることである。
無を‘ない’と訳さず、‘なくなら無い’と訳していくことで、
般若心経の真の言わんとしていることが見えてくるはずである。
般若心経さえ正しく解釈できれば、誰でも悟りは開かれると、観自在菩薩は語っている。

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悲しい生き方・・・

2006-01-24 | Weblog
 人を欺いて生きていれば、自分も人に欺かれる。
自分だけがいい思いをしたい、と思うのはわからないでもないが、
そう思う者は、けっして幸せとなることはない。
人を欺く者は、人に欺かれ、キツネとタヌキの化かしあいとなって、信じられるものがなく、孤独の中に浸る。
人でありながら、人でない、恐ろしい形体をなした世界をさまよう。
その中で、愛を捜し求めても、見つかるはずはない。
愛らしい形に包まれた人に出会っても、その心は、般若の面のような恐ろしい形相をしている。
いつも、優しくささやくが、その先は暗闇である。
自分に悪がいれば、必ず悪と出会う。
姿かたちを偽っても、その影は醜く、自分から離れない。
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驕り、奢る・・・

2006-01-23 | Weblog
 思い上がることは、最も悪い煩悩である。‘自分は他とは違う,自分だけは、どうにかなる、自分だけは助かる’等々。
驕りである。驕りは無知であるために起こる。
無知は無明のことを言う。
世の中は、我が、まま、にならないものである。それなのに自分だけはと驕り高ぶる。 この謙虚さをなくした心からすべてが生じる。
「これは俺の奢りだ」といって、人にものを振舞ったりするのは、施しではない。
奢りは施しとは違う。
奢りも驕りも、煩悩であり、悪行である。
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善業が導く・・・

2006-01-21 | Weblog
 生命はこの世限りではない。
いつの世にか、再生する。自分であるが、自分としてではなく。
再び生まれるところは、この世の行為によって決まっていくが、いつの世となるのかは定かでない。

善業を積めば良いところに、悪業を積めば悪いところに趣くという。
二者択一の世界である。 はっきりとしている。中間はない。
この世では、自分の行為によって選べる自由をもっている。
過ぎ去ったものを選ぶことはできないが、これから訪れることは選ぶことができる。
誰でも良いところを選びたいのは、わかるが、世の道理を知らないために、その思いと裏腹となっている。
その為に、何度も輪廻転生をする。輪廻は苦しみである。その為この世は苦しみとなっている。一切皆苦の世である。が、地獄ではないため
楽しみも喜びもあり、幸せと思えることもある。
相対している世界である為に、そこに選択の自由がある。

無知であることをなくし、道理を知り、わきまえていくことが、思いと裏腹にならないこととなる。
良いことをするのは良いところに趣くこととなる。道理である。
マラソンと同じように、かんたんなことであるが、あまりに難しいことでもある。
難しいことであるが、簡単なことである。この途中には苦しく思うことが多々あるが、快いと思える部分もある。
これを達成したときには、なんともいえない幸せを感じるものである。

輪廻することが、苦であるために、輪廻よりはなれ、二度と再生しないことである。
その為の行為が善業である。善業が修行となって、一切の煩悩を絶ち、輪廻の因を断つためである。
輪廻より解脱すれば、再び生まれることはなく、来世はない。
来世はないために、永遠の極楽のみ得られる。
変わることのない、未来永劫の涅槃である。
生命に、死は無いためである。

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