つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

ものをととのえる

2012-01-30 | Weblog
心の籠もったものにはかなわない。

科学的に研究し尽くされ、強靭に作られたものであっても、
機械的正確なものには感情がもたらされない。
感情の無いものは非情である。それが最大の欠点、弱点である。

感情はその都度の度合いによって強弱になる。正負が入り混じっている為に、
柔剛よく整えて、相調えれば不可能も破る。不思議が起こる。
曖昧というものもまた方便である。
喜怒哀楽を持ってして、怒哀を建設的に変えて喜楽に注ぎ込む心の憂いは、
柔よくして剛を制していく。
魂が入ったものは優れる。称えられる。尊ばれる。
だから、
そのものの精を、心を配って掘り出して、魂でみがき、魂を入れていけ。
そうすれば、精巧、精妙なものとなり精密となる。
匠の技、カリスマとなる。

ものはあるから見えるのではなく、そこにあっても刺激とならなければ見えてはこない。
すべては精あるものである。
心を籠めて、精あるものとして共にあれば、真髄が見えてくる。
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運動する

2012-01-29 | Weblog
エネルギーがあった。なぜあったかは自由である。その自由が集まり巡る動きとなり、
始まりと終わりがなくなって、永遠の動きとなった。
これがなくなることの無い理である。何ものにも影響されることの無い単独の存在である。
唯一の存在である為に、百千万劫難遭遇といわれる。つまり、これ以外は存在しない。
存在しないということは、影響したりされたり無い、できない、考えることもいらない、できないということである。

巡る変化が新たとなるもので、変化に対応した現象となっている。
まるで何も無いところから生じてきたように見えるが、もと(エネルギー)が在していたからの有となっている。
無から有は生まれることは無く、有としての存在、自由だったからである。
この自由から物語は始まった。
廻る動きで空間が生まれ時間が生まれ、すべてが高速で廻り動いているために、
静止しているようになる。高速で走る車の中のようなものである。いっしょに同じ速さで動くものは、
止まっているのと同じ感覚となる。

動きの無いところには変化は無く、空間も時間も無い。
どんなに距離が離れていても瞬時である。
それはどういうものかといえば、たとえて、夢の世界である。
夢の世界には時間も空間もない。そのために、瞬時場面が変化する。時間も過去現在入り雑じる。
未来が夢となることは無く、未来が夢と現れるのは、想念の自由によるためである。気にしたことに振り回されてしまう為の現象である。
夢の世界は心の世界である。だから、心にも時間が無く年は取らない。そのため、肉体は衰えても心は若い。
そこに差違が生じ、こんなはずでは・・と思う。
肉体は、エネルギーの変化に対応して生じる無常のもの、心は記憶でつくられていく常住のもの、生命エネルギーである。
幾多の記憶の統一されたものが現生命である。記憶が正しくつくられていなければ欠陥生命となって、苦しむ世界となっている。
現世にいるのは、未だ覚れないでいるための証でもあり、覚る為の機会でもある。

人の経験が記憶となって智慧となる。実際に自分で行うということは、自然に学ぶということである。
その自然に学んだ経験が智慧として身につく。たとえて、コツ、要領である。それは他人にはわからない。
それを教えて、知識である。知識は他人の経験が正しいとして学ぶものである為に、いくら教えられても、経験としなければ忘れる。
身につかないのである。
・・よいこととして学んでも、行為となっていかなければ絵に描いたもちである。
よって、動くことである。さしも祈らず動くことである。そして、他力を仰げばよく道理が守ることとなるものである。
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般若心経の功徳

2012-01-28 | Weblog
災害を予知して、そのための準備をしても死ぬ人は死ぬ。
災いから逃れようとしても、普段の行いが正しくなければ、
逃れられることもなく、また、そのような人ほど恐怖して死んでいく。
人の世はもう閉じられようとしている。災いから逃れられることはない。
それは、人というすべての人に降りかかるもので、善人悪人という別はなく、地球上の共にあるものとして、
運命共同体である。
人にも様々な人がいる。各生き物達もそうである。まったくの別人であるが、同じ人として捉えられる。
犬は犬、様々な種類がいるが、
他の生き物から見れば犬という一つの同じ姿形であるとして捉えられる。なんら違いが無い。
生き物は皆、種が同じであれば同じに映る。
地球上の一つの生命として、同じ運命である。

ある種が以上に増えてしまえば、自滅行為がされて均等が保たれる。それはその種の中での行為であって、
他に及ぼす害はない。そのために、それで済む。

なぜこうであるのかというのは自由である。自由を持ってしての存在である為に、
それ以外の理由はない。なんら目的を持っての存在ではなく、自由によっての存在である。
あなたはなぜそういう性質なのかと聞かれて、生まれつきとしか答えようがない。

人も異常に増えて、互いを殺しあいながらも増え続けていく。それは、他に害を及ぼしながらの増減であり、
種の中での範囲におさまらないものである。そうなれば、一つの星の自由に当てはまらずに、自ら滅していく自由となってしまう。

がん細胞が、不滅の細胞となって増え続けていくが、増え続けていく基盤をも蝕んでしまう為に、結局のところ自らの
破滅となってしまう。常住のあり方を知らないための果である。それは、なんら目的を持っているものではないためである。
生命もまたその意味、目的を持った存在ではない。種の保存、子孫繁栄のために増え続けるものでもない。そう思うのは人の勝手な判断である。
その身勝手な判断をもってしての不自由となっていくものであるために、自由がきかなくなっていけば肉体は滅してしまう。

生命というのが、エネルギーの法則によって創られているものである為に、エネルギーの法則が無くなることのないものとなっているために、
生命もなくなることが無いとなっている。生命の自由によって、法に対応した姿形となってその環境に現れている。
肉体は、生命の真の世界を創る為の媒体にすぎず、生命は、肉体を持っての行為が記憶のエネルギーとなってつくられていくものとなっている。
その記憶の統一されたエネルギーが、生命の現象世界である。魂の世界、心の世界、想念の世界である。生命の住む世界である。
人は、だから、死ぬ為に生まれ生きていく。その記憶があの世となっていく。
それだから、記憶に悪があれば、悪のある世界となって、天国となってはいかない。
恐怖を抱いたまま死んで行くもの、執着、不安、怨念、苦しみ、悲しみを記憶に宿し気にしていくものは、生命世界が地獄となっている。
これらはみな悪であるために。
肉体が人の死と見ても、生命そのものの無とはならない。幾多輪廻する。生まれるのはただ苦しみである。
生きていくのは苦しみである。そう覚えて、生まれることを覚えるな。
そうすれば、どう生きていくか見えてきて、輪廻から解き放たれて、悪の無い世界が創られ、永遠にその現象の世界となって、そこで生きている。
そこには、好きな父母がいる、兄弟がいる。友がいる。家族がいる。好きな人がいる。好きな・・・ばかりである。

無知を無くす。それもこれも自由である。
心の自由を智慧で持って判断しなさいと、心経は訓える。
これこそ、般若心経の功徳。
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こころこもり

2012-01-26 | Weblog
日頃の付き合いが大事である。
いつも謙虚で倹しくあって、道徳をよく守り、
かといって堅苦しい人ではなく、良いことだからといって人に強いることはなく、
笑顔そのために労を費やす。喜びの顔が好きだから、東奔西走する。
かゆいところに手を届かせて、ただ奉仕につくせば、
よく道理が守ってくれて、詰まることなどありもしない。
あなたの笑顔を見て自分も喜んだ。
心籠もりは選ばれし者となる。
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無明による

2012-01-25 | Weblog
悪い事はするな。
善いことをしなさい。
因果応報であるために、
悪業悪果、善業善果である。
いまさら言うまでもないこととしても、
未だ知らない人がいる。
知らないために
ごまかす、だます。
それが、上手くごまかせてだませたとしても、
いけないことをした事実、その果は忠実に受ける。
死後の世界で、亦、その後の未来世においては如実にあらわれる。
騙した者は騙されて、盗んだ者は盗まれて、傷つけた者は傷つけられて、
殺した者は殺されて、と。
悪の因をつくれば悪が縁となり悪の果となる。
善の因をつくれば善が縁となり善の果となる。
知っているといいながら、誰も知らない。
死ぬとわかっていながら、死ぬはずがないと思っているように。

知らないためである。
知っていれば、誰に言われなくとも悪は為さない。
知らないためである。
真実を見ようとしない。
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錯覚

2012-01-23 | Weblog
なぜ生きると問う。
生きているということは、次から次と問題が起こる。
生きることは問題なんだ。

悪魔はささやく、「妻や子がいる人は妻や子で喜ぶ。
         財産がある人は財産で喜ぶ。
         束縛・・
         自分のものがあることは喜びです。」

釈迦が言う、「妻や子がいる人は妻や子で悩む。
       財産がある人は財産で悩む。
       束縛は人の悩みである。
       束縛のない人には悩みは無い。」
俗世、悪魔のささやきがプラス思考に思えて、
釈迦の言うことがマイナス思考に聞こえるのは、
知識で見た目。智慧がつけば、逆である。

智慧がつけば、生きることの問題はなくなる。
難なく答えは見つかっていく。
あの世の為に、と。
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2012-01-23 | Weblog
同じ目標に向かって、同じ所にいて同じ飯を食べる。
同じ仕種で歩む為に同じ情けが芽生える。
互いを頼り、互いによりかかり、突き放し、疑い、信じ、けなし合いながら誉めあいながら。
足りなければ足りないほど、乏しければ乏しいほど、貧しければ貧しいほど
賢さを身につける。心根の程の格が表れて、貧弱さと豊富さが交じり合い、
豊富によって導かれていく。
道程は貧しくあって、人は憂いて優れる。乏しさに足るを見出し、
無償で無償で、ただただ無償で絆はつくられる。
ただ愛しく。
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自由というあり方

2012-01-22 | Weblog
苦しみがあり楽がある。
苦しみがあるから楽が知れるものであるために、
苦しみがなければ楽もない。
楽がずーっと続くことはなく、すれば
苦となっていく。苦もまた、ずーっと続くことはないために、
楽となっていく。
苦しむことで楽が生まれるのなら、苦は善である。
楽することで苦が生まれるのなら、楽は悪である。・・と善悪が顛倒してしまう。

苦の種を蒔けば苦が生まれ苦が育ち苦の実が成る。その実を食べて苦い味がする。
楽の種を蒔けば楽が生まれ楽が育ち楽の実が成る。その実を食べて甘い味がする。

楽の種を蒔くには苦労をして蒔く。
苦の種を蒔かなければ楽である。
良薬口に苦し、甘い言葉と暗い道。
これが世の中である。不二の世界である。

苦の実は苦く甘美な味はしない。苦は苦しく悪である。
楽の実は甘く苦味はない。楽は楽しく善である。
天国と地獄の別である。
これがあの世である。而二の世界である。

不二の世界に生きて而二の世界を目指す。
而二の世界の為に不二の世界に生まれる。
その仕組みを知ったとき、誰に教わることもなく、
自ずと善悪を選り分けて、善を為して生きるものと成る。
般若の心のあり方を、智慧を持って、好く都合に選り分けてと如来の真意を受ける。
その時、不二の世界に生まれることもなく、地獄に落ちることもなくなる。

宇宙は而二不二である。
善悪もなく恐怖も無い。
そのために、絶対善の動きとなって、
すべての浄化の容となっている。
百千万劫難遭遇であり、故に唯一である。
自由というあり方、法則である。

法則によって人は生まれる。
何の目的があるわけではない。
心臓が意思を持って動いているのではないように、
法の勝手、自由によって動いているだけである。
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寂滅為楽

2012-01-21 | Weblog
真実というのは一つである。いくつもあるわけではない。いくつもあるわけではないと知りつつも、
知らないでいるために、まやかされてしまう。道が違えば行き先が違ってくる。
常に道は一本であり、行き着くところは一つである。
そのために、同じ道を通るものは、同じものを見、聞き、感じていくために、同じことを語るようになる。
来た道が違えば、同じことを見聞きしたものでも、違って感じられてしまう。そして、幾通りもの道に分かれて、いくつもの術が語られ、いくつもの帰着が現れる。
その人の真実が現れる。
今を見て、過去を想い、生滅を断る真実とする。
寂滅為楽である。
その道は、ただ八つの正しい行いである。が、凡人である私には劫の時を要するに等しい。
そのために、愚者こそ救われるようにと、その思いを
「心無罣礙、無罣礙、故無有恐怖、遠離一切顛倒夢想」とすることで、偉人の心もちの値に匹敵して、
即適うものであると知る。
智慧の功徳とでも言い表そうか!

最初の一歩がどこで芽生えるか。正しく思うことである。
そこらじゅうに紛らわしく情報はころがっているが、心根の正しい縁があれば、情報の選り分けができて、
間違いなく導かれていく。正しいものを見ても聞いても、正しく思わなければなんら手助けにもならない。
知識ではなく智慧を身につけて見つめることである。

荒唐無稽と思われることが迫っている。時は足早に過ぎ去り、地は揺れ天は乱れる。
あちこちで、世の中が救急と悲鳴を上げ軋めいてるのが知れる。気の乱れである。
予兆はいたるところで現れている。
肉体の苦しみが心の苦しみとならないように、肉体を離れて、死にゆく道理を観察して、
恐怖の判断をしないことである。命は生きているものであるから。智慧もなくならないものであるから。
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先見の明

2012-01-20 | Weblog
今をしっかり生きていけば未来がしっかりとなっていく。
先のことなど思うことなく、今を見ていれば先は見えてくる。
今があるために先があるのだから、今を忘れてはなにもかも忘却の彼方である。
だから、あれこれと先のことを念い煩うな。心配事を気にしてはならない。
気にすればするほど絶対となり、その通りになってしまう。おかしなことになってしまう。
念いに振り回されてしまうこととなる。それは、念うようにいかないものである。
今を大切に生きていれば、未来は大切に現れて来る。何もかもあなたのために、と。
無駄なことは一つもなくである。今をしっかり生きていれば、
未来もしっかりとなっている。
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