つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

記憶のエネルギー=魂

2016-09-29 | Weblog
脳には記憶をする場所がある。
その記憶が死後の現象世界をつくる。
死後の世界は、記憶の現象の世界となっている。
死後の世界が、記憶の現象世界であるために、
死後の世界が新たな記憶となることはない。
死後の世界の出来事が記憶とならないのは、
死後の肉体が記憶の現象の肉体であるためである。
そのために、一切の記憶となることが無い。
現象の肉体には、記憶をするところが無いのである。
それは、記憶の現象の肉体であるためである。
お分かりだろうか?



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素晴らしくある人

2016-09-27 | Weblog
優しい人か否か、愛ある人か否か、
本当のところはどうなのか知りたければ、
貧乏になってみるとよい。
自分の心根も、相手の心根もよくわかってくるものである。
貧しくても大らかであるなら、素晴らしくある人である。
道は常に開かれてくるものである。
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先人達の訓えに学ぶ

2016-09-26 | Weblog
「人の一生は、重荷を負うて遠き道を行くが如し、急ぐべからず。
不自由を常と思えば不足なし、心に望み起こらば困窮したる時を思い出すべし。
堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え、勝つことばかり知りて、
負けることを知らざれば、害その身に至る。
己を責めて人を責めるな、及ばざるは過ぎたるより勝れり。」

先人達は、すでに法則に適う生き方を知っていた。
畏れ多くもただ感服するばかりである。

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菩薩と仏陀

2016-09-25 | Weblog
エネルギーの法則がすべての存在となっている。
神も仏も法則の下の存在である。そのために、人という生命体と何ら変わらない存在である。
ただ言えることは、人よりもはるかに優れている、はるかに進化しているというものである。
エネルギーの法則をよく理解していて、その道理に適うよう生き方を理解している。
全体的に見れば優劣など無いものなのであるが、人に、ある点に於いて優劣があるように、
その部分のみをすべての優劣と見てしまう為に、階級という差をつくる。愚かなものである。
その愚かがある為に、進化の過程にあるものという格段の差が付く。
人は皆老いるように、形あるものはすべて朽ちていくものである。
それは神々とて同じである。ただ、寿命の長さがとても長いだけである。
人類が神々とする存在の寿命は、人類の十倍ほどである。
道徳は理解されてあるも、この世界に存在する限り寿命はあるのである。
天空を舞い、時間と空間を超えてくる優れた能力を持つのであるが、進化の過程にあるには
違いないものである。そのために、喜怒哀楽はあるが、必ずしもすべて満足に進化をしてきたかというのでもない。
もって、情に於いて欠如、或は、故意に捨て去ってきたのかもしれない部分がある。
実に無駄なものを取り除いて進化してきたのだろう。それはその世界、環境がそうさせてきたのだろうが、
全く環境の違う世界ではあてはまりにくいものでもある。
人に様々な世界、生き方があるように、同じ生命体にありながら、異なった情の動きをするのである。
微妙に異なった情の動きに対して、すべてを網羅でき、それなりに対処できるならば、自由である法則のエネルギーを
知るものである。
知る者は言わず言う者は知らずということを知る。
神の中の神である。
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安住の地を求めて

2016-09-24 | Weblog
命がまだ活発なうちは死が恐怖となってくる。
死ぬのが怖いと思うのであるが、寿命という与えられた老年ともなれば、
死というものがそれほど怖くなくなっていく。
人は皆、それぞれに年老いれば、死ぬものであると理解しているために、
自分もそろそろお迎えが来るのだろうと覚悟を思うのである。
そうして、いつとはなくボケはじめて、あの世が今と同じように続いて見えてくるようになる。
そして、先立って逝った親族や知人友人とのことが頻繁に思い出されてくるのである。
彼らもみな同じように、
死というものがまだまだ先で、はたまた自分には来ないものであると思って生きていたものである。
それが瞬く間に時は過ぎて、病やら、災害、事故やらで先立って逝く。
人生は、誰彼にも波瀾万丈である。
ピンピンころりで、前日まで元気でいながらの老衰で先立つ人は倖せである。
死というものは、生に対して絶対条件である。
なぜそうなのか、それは、死後の世界こそが生命の真実の世界であるためである。
生命自体には死というものがない為である。それは、生命がエネルギー体であり、
エネルギーの法則によって生じているためである。
肉体をもって生きていた経験の記憶が蓄積されて統一され、紆余曲折、栄枯盛衰を
繰り返しながらの存在である。
目的は、変わることのない安住を得るためである。
諸行無常にある常住性ではなく、動きの無い常住である。
安住のエネルギーである。まことに真円であり、
動いていながら動かないものである。

安住=これと言って深い反省も無く、その境地にとどまること。

エネルギーの法則は、安住である。これと言って目的など持たない。自由である。
この安住の意味を悟ることである。深遠であるも単純として理解できるものである。
少数にして知る人ぞ知り、多分には知らないものである。
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魂の勉強

2016-09-23 | Weblog
魂が知らねばならないことを正しく知るなら、
苦しみや辛さはなくなっていく。
与えられた環境は、偏に魂の向上にある。
その中で、
紆余曲折にして、忍耐と努力、献身と謙虚を具えて人生を歩めば、道は常に開かれてくる。
置かれた立場をよくするも悪くするも我が身のこと。
簡単ではないが、知恵の輪のようなものである。
調べの緒である。


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覚悟

2016-09-22 | Weblog
愛は地球を救う!
そんなキャッチフレーズがあったような気がする。

愛は無償である。奉仕である。ただ献身的であらねばならない。
愛をもっていますか?もてますか?
愛ある者というのは、犠牲的である。覚悟である。
とっても重たいものである。
何ものにも優る力のあるものである。
覚悟のあるものである。
だから、
愛があれば地球は救われるものである。
存続には覚悟がいるのである。
二十一世紀、今地球は試されようとしている。
損得を離れ、金融システムを捨て去らなければ、
隷属のままである。
愛こそ自由を得られる唯一の福音の証。
覚ること、悟ること、覚悟のいることである。


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住み難いこの世

2016-09-19 | Weblog
税金から給料をいただいて働いている人達は、
年収が高額。上に行けば行くほど数千万が当たり前である。
とっても優遇されてあると思うのだが、それでも自分の懐はかたく、
身銭を切ることはなるべくしたがらない。
東京のサラリーマン平均年収は400万くらい。大半であるが、
地方のサラリーマンはもっと低い。一般に
時給で働く人たちは、東京都の生活保護者よりひくい賃金であると、
新聞に載っていたのも昔の話ではない。
実に歪な社会となってきている。
昭和四、五十年頃は働いてさへいれば、生活はしていけたものであるが、
経済が豊かになった今に於いて、まじめに働いても、
食べていくのが困難になっている。特に贅沢することもないのにである。
年金制度がありながら、とてもじゃないが生活できるレベルではないのが実情である。
そのわずかな年金からでも税金は引かれるのである。
して、老骨に鞭を打ち働いている人が多くいる。
お金が無ければ生きていけないのが今の社会である。年老いても税金は払わなければならない。
健康保険、介護保険制度も満足なものではない。何が保険なのか疑問である。
長生きがいいというのは、健康であり、自分のことは自分でできて、何よりお金があってである。
あそこが悪いここが痛いと医者がかりで、介護を要すほどになり、知人友人、あるいは家族までの
訃報を多く聞き、心の痛むことばかりが多くなって、何が長寿だろうか。
ピンピンころりがいいとは思えど、そうはいかないのが人生である。
ただ、思うことは、
この世は正義ある人には生き難く、ずる賢い人には住みやすいものである。
菩薩はそう説いて、いろいろ訓えてくれた。
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仏陀

2016-09-18 | Weblog
生命エネルギーの欠陥?により、普通な生活のできない人がいて、
誰かの介護を必要とする。
それは、赤ん坊が愛情無くして育たないように、
生きていくうえでの支障を持ち、誰かの支えなくしては到底生きていけない性を持つのである。
が、それ故に亦、特段に優れている面も持ち合わせていたりする。
ある反面生活上困難にして、その反面天才的才能をもつのである。
それはまさに神業なるもので、人において到底理解不能と思われる優れた性能である。
あることに関して完璧にまで成し遂げられる能力は、
人という能力をはるかにはるかに超えているものである。

人たる者、未知に満ち満ちていて、全知全能を得る力、エネルギーを得られるものである。
道の理にして、一事を経験してすべてを知りうる智恵を具えてあるものである。
法則のエネルギーから作られているものである為に、みがけば叶ものである。
その訓え、
故に、
摩訶般若波羅蜜多心経である。
一般大衆の心をみがくうたである。
心あるもの卓越して、
やがて
法則のエネルギーに適うものである。
それを、仏陀と言われる。
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是諸法空相

2016-09-17 | Weblog
是諸法=是が諸々の法則である。
その実体が空相である。つまり、死後の世界である。
是諸法空相=是はすべての法則であり、その実体は死後の世界となっている。
いわゆる、死後の世界がエネルギーの法則の絶対世界である。

是はエネルギーである。その性質が円運動となっている。
そのために、日(太陽)の運行が正しいものであり、
東から昇り西に沈むという円運動が絶対であり、変わることのない運動となっているために、
日が正しいとしてエネルギーの法則を是と説いている。
太陽の運行一事がすべてに当てはまるもので、宇宙という広大無辺なものから、
原子の狭小微細なものまで同じ運動となっている。
そのために、法則によってつくられている生命エネルギーも円運動となっている。
だから、私達の行動もすべて円運動となって、毎日同じことの繰り返しとなって生きている。
もちろん、自分の意識に関わらず、体の中も円運動となり循環となっている。
法則の自由によっているのである。

エネルギーの円運動がゼロから始まりゼロに戻る為に、ゼロがエネルギーの絶対世界となっている。
始まりも終わりも無いものとなっているために永遠となっていて、
そのために無くなることが無く絶対となっているものである。
この絶対がエネルギーの自由である。
自由が本質である。そのために、如何なる力もこの自由を侵すことはできない。
だから、生命の自由を侵すものは、後々弾かれてしまう。
それは、法則との摩擦となるために、法則から弾かれる羽目になるのである。
つまり、吾が意に反して死を与るという事である。
生命には死が無い為に、肉体が滅んだあとは、死後の世界、つまり、エネルギーの絶対世界で
生きていくことになる。その世界が円運動で繋がっている世界であるために、
当然、縁によって現象された世界となっている。
苦しくて死んでいったものは、そのまま苦の世界になる。
つまり、悪事をして死んでいったものは、地獄となって意識が現象されて行くのである。
だから、悪いことはするなと法則は訓えるのである。
神も仏もこの法則の下の存在である。
人類が神仏と呼んでいるのは、人類よりはるかに進化している生命体に過ぎなく、
そのために、エネルギーの法則をよく理解しているものである。
様々な能力を身に付けて人類の前に現れ、エネルギーの法則の道理を訓えたものである。
善と悪とを共にして、この法則の自由を訓えたのである。
いまもって善悪を伴い、法則の道標を訓える。
自由という本質が好変化を与えるものであると。
自由の本質は善悪の無いものである。
だから、法則は絶対善の動きで成っているものである。
この自由を悟ることである。
生命の輪廻を絶つことのできる智恵である。
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