つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

印象存在

2019-05-31 | Weblog
心の想い、思い、印象、これがエネルギーの世界を作っている。
自分自身のいる世界である。
宇宙に無数の星々があるように、世界も人の数ほどにある。
それは消えては生まれ、生まれては消えている泡沫のように。
自分が生まれては死んでいくように、そして新たに生まれては死んでいくように、
エネルギーの存在の世界、物語である。無くなることのない存在の世界である。
存在たるエネルギー、その法則の世界である。
おそらく、何を語っているのかさっぱりわからないことだろう。
知る人ぞ知る、という話の中にある。
存在というエネルギーの無数の中の一つ。同様にして似て非なるエネルギー世界である。
自身のイメージ、想像という存在。あなたがいて私がいる無数の世界である。
そこにはすべての出来事があるが、無いに等しく、ただ自身が織りなすだけである。
夢の中のあなたと私と、現実にあるあなたと私とという世界の想像、イメージ、
印象の存在・エネルギー世界である。
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「ほんもの」という者は

2019-05-30 | Weblog
「事実は小説より奇なり」
世の中という実態である。
実体は実態を見せるが、読みは同じでも字が違うように、意味も少し異にする。

実体を理解する者、実態に惑わされはしない。
「ほんもの」という者である。
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対立の正義の王冠

2019-05-27 | Weblog
王冠という言葉がある。
そうそう使われる言葉ではない。
稀なる優れしものだけがかぶる冠である。
そのために、そこいらじゅうに聞かれる言葉ではない。
もし多数、あの人も、この人も・・・と身につけられる言葉であるなら、
身につけている人は大したことは無い人である。
本物たるものではない。
王冠という言葉の意味はとても重く、普通の人は
その重さに押しつぶされてしまう。
普通の人の身に具えられるものではないために、
普通の人が持てば、やがてその身は害される。

王冠は世に二つである。
一つは善悪のない善にあり、一つは善悪のない悪にある。
その(二つ)の正義にある王冠は一つである。
絶対という王冠である。
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愛は無償

2019-05-25 | Weblog
現代科学は人工知能を作るまでに至っている。
つい30年前には携帯電話もはしりで
ぎこちなく進歩に驚いていたものだが、今や便利も高じてスマートフォンなるものに
更なる驚きとともに振り回されている次第。それは、ガチガチに固められた不自由さに、
身動きができなくなる近未来を示唆しているにもかかわらず、便利に甘んじる始末。
便利は欠点を増幅させる。かくして、未完である人の行動は、白痴にして低能化していく。
依存は不安となり恐怖となっていく。一人では何もできないものになっていくことは、
命取りである。
隷属とは不自由そのもの、奴隷に他ならない。
それは金融制度によってがんじがらめで抜け出せる余地は無い。
不自由は進歩を止める。やがて衰退に転じ枯れ果ててしまう運命を持つ。
その運命は、愛という心によってのみ変えられるのであるが、
慾が妨げる。
地球は、原始的にして自由なるエネルギーを使えないでいる。
宇宙は、愛ある心によって、自由にエネルギーを使うことができる。
それには、欲望というエネルギーは無い。
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80億人の精神の分かれ道・時分

2019-05-25 | Weblog
2050年ころには98億人の地球人口である。
それまでは持たないだろう。この地上の変化は80億にして限界である。
激変となるであろうことは今もってして知れるところである。
兆しはそこここに見えているが、人々は気づいてはいない。
確かに、ごく少数の人達は気づいてはいるが、どうすることもできない。
ただ魂の気づきにのみ思いを託すだけである。肉体は滅んでいくが魂、精神は不滅である。
そのための気づきであり救いである。愛あるものだけがそれに気づき、
精神世界の天国となっていく。およそ2500年前にブッタが衆生に訓え諭したもので、
衆生隅々までいきわたっている事柄である。だから、すべての人々の救済は終っていると言った。
気づくものだけがであるが、いくら言っても否定、或いは疑うものには通じることは無いために言った言葉である。
彼は、やれることはすべて為したものと察する。なぜなら、自由がすべての基本であるためである。
思いというのは、それほど力を持っている。
強引にというのはその自由を侵すことにもなるために、無理やりとすることはできない。
エネルギーの法則には逆らうことはできないのである。
ここに自業自得ということをもう一度正しく思ってみること。それしか言いようがない。
自分の思いだけが救いの分かれ道となることを正しく知ることである。

善たるエネルギーはその道理に由って訓え示している。
受ける側、自分の心、思いだけにかかっている。
人の思いによる善悪ではない、エネルギーの法則の自由その善悪である。
この善悪のない善悪を知るなら、エネルギーの法則の自由が何を示しているかがわかるだろう。

2020年頃から激変していくが、もう様々な異変は日常におこっているが、ただその異変、速さ、
人の人生100年足らずにしての変化に於いては、自然の転換期、浄化、それも"汚れ"に於いての対応浄化など知るには難がある。
すべては繋がっているのが世界である。エネルギーである。量子はそれを示すが、あまりにも日常とはかけ離れているために、専門とする人々しか知れないものである。
それを知らしめたところで、”あ~そうなんだ”だけで何のためになることが無い。
人間の能力はほぼ眠ったままでいるのが現段階である。
幾多の人生経験、つまり生まれ変わりをもって知り得ることであるために、現実は滅ぶだけの時間である。

菩薩は神である。この世界に生じることは無い生命であるが、生命、つまり魂の向上、、心をみがく方便のために現れてくる。
そうして、宇宙のエネルギーの純粋な流れの維持を目的としている。
生きとし生けるもの、純粋な流れをもって存在となり、輝きとなってエネルギーとなっている。
エネルギーの善悪のない善たる存在の使者、天使である。
生まれたばかりの右も左もわからないエネルギーに、正義を保つための、
正し正義の自由に沿うための方法を教え導く本正義のエネルギー体である。

数年前、平和ボケをしている日本国に、東日本大震災をもって心の在り方、
愛とは何か?「愛する者」とは何を意味しているのかを示した。
本音と建前という曖昧な心の在り方を問いただした。
自然に由る災害は人災を起因していることを示し、その振る舞いを省みるとしてある。
災いというのは、怪我ということを訓える。我が怪しいと見る心持である。
一度は悲惨さを知れども、のど元過ぎて・・・、その後の対応、在り方はどうであるか?
他人の痛さに、皆同じ、繋がっていることを知れたのか?を菩薩は見たことである。
判断は、エネルギーの正義が、悪の正義に繋がっていったことに懸念を持った。
今一度、救済は心の救いであり、現肉体の救いではないことを訓える。
心を愛で満たせば、「愛する者」の意味が正しく理解でき偽善が無くなる。
これこそ生命の救済である。

死んでいくことを恐れるな!浄化であるから。
愛あるものには、先々何の心配もいらないものであるのだから。
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真逆(まさか)の坂を上る

2019-05-22 | Weblog
分岐点である。2020の時間線
100%この時間線上では崩壊である。
回避には理が無い。
つまり、
無理なことである。
ただ、
法則は自由であるために、
あると思えば可能、無いと思えば不可能である。

あなた方はどちらにいる人だろうか?

このままの人達と、戻りながら進む人達、どちらだろうか?
どちらにしても‘まさか’は訪れる。
転げ落ちる下りの坂か、地道な努力の上りの坂か、
非ー非ー覇ー覇-下りるも上るも・・・日は又昇る昇る。

かつて、ここには人が住んでいた。多くのドラマがあった。
幸福な時もあれば、不幸な時もあった。幸福な人もいれば不幸な人もいた。
人々は話し、笑い、怒った、泣いた、苦しんだ。
人の出会いもあった。別れもあった。愛し合った人もいた。憎しみあった人もいた。
裏切りもあった。傷ついた人もいた。
大切なことは、ここに今の私達と同じ人達がいたということ。
あなたがいて私がいたということ。言葉や習慣の違いなどささいなこと。
何が違うというのか。野に散る頭蓋骨を見ればよい。
彼も彼女も一度はこの青い空を見た。広い星空を見て、遠い宇宙に思いを馳せた。
私達はどこから来たのか、それを問い続けた。何故私たちはここにいるのか?
そして、何のために?私達は死んだらどうなるのか?誰がそれを教えてくれるのか?
その人はどこにいるのか?
長い時間が過ぎ、いつの間にか人は消えた。
長い時間が過ぎ、新しい人々がそこに住んだ。新しい笑い声と新しい悲しみの声、
新しいドラマが再び始まった。「人は来りて、また去る。人、来りてまた去る。
かくして、私のあなたの彼の彼女の、そして、彼らの人生が流れる。あたかも、
何事もなかったように。あたかも、何事もなかったかのように」・・・・とある詩より。

この地上に、そして、誰もいなくなった!
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知るものは知る

2019-05-20 | Weblog
この世の中は隷属することが正義であり、巧妙に仕掛けられた催眠によって
善悪が転倒して、すべてが悪だらけの世の中となっている。
覚醒することは難しい状態であるが、エネルギーの法則は性善にしてあるために
必然元に戻るようになっている。ここ数年がその時期に差し掛かっている。
630万年を約800回ほどにしての物事である。
900回ほどの廻りにして完全に催眠は解かれるが、量子的想像をもって瞬時
覚醒を得られるものでもある。だから、心を摩くこと。
要点は、般若心経の説くエネルギーの法則を迷いなく理解できれば叶う。
私達は、催眠のトリックによって、正しく知恵を見出すことができないでいる。
現実は夢の世界の映し画である。想像を正しくすることに真実の映像は現れてくる。
魂、生命に時間は存在しないために、空間は自分次第で現れる。
量子的想像を都合とすることである。
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エネルギーの色

2019-05-19 | Weblog
意識の向上、
どう思うかはとても大事である。
正しく想像する意思を大切にする。
気の持ちようは現象を左右する。

精神、心、意識、意思、意志、根性、意地、魂。

エネルギーである。善悪のないための絶対性善が自由たる円運動。
正義であるために、転倒してしまえば後の祭りとなる。
円運動であるエネルギーは、その自由に由ってすべてが道理となっている。
理の無い世界をつくれば、無理ばかりで、それまでである。
「為せば成る為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」
エネルギーの法則の自由、これが道理であるために、
すべてが可能であり、すべてが不可能となっている。
エネルギーは意識、その自由に由って世界は作られる。
有限にありながら無限にして存在する宇宙は、正しい意識によって静に治まっている。
無限に広がる宇宙は一転しているだけの白黒の回り、彩るのは自分というエネルギー。
存在は黄金色にしてまばゆく白銀に輝いている。

自分の意識を輝かせよ!人生である。
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地上の突然変異と変移

2019-05-16 | Weblog
2020は転機の分岐点と言えよう。
善悪の正義にそれぞれ選り分かれる。
各々の縁起、自業自得に由る分岐である。
正義となる世界は、良くも悪くもただ正義である。
絶対正しいとなる世界であるために、一切反省はされない。
そこが永遠となる。
そのために、
現象となってしまえばそれまでである。
幸福であるとか不幸であるとか、つまり、苦と楽は
地獄と天国という意味合いを持ち、どちらも法則の理に適い正義となっている。
その正義に善悪は無い。ただ絶対正義として存在する。
だから、地獄を創れば、それが正義となり正しい世界となって繰り返す。
想像してごらん!地獄が正義となっている世界を。
地獄が善として回っている世界を、あなたは好みますか?好まないはず!
にも関わらず、
エネルギーの法則に無知であれば、誤った世界へ行ってしまうものです。
好むと好まざるとに拘らずに、無知なる故の自業自得で導かれるのです。
無知というのはそれほど恐ろしい。だから、生きている間に、
無知を克服して過つことのないように、ボーっとして生きていてはならない。

エネルギーの法則は、自由という絶対善の動きである。
それが正義である。自由の正しい義(意味)である。
もうじきという「選り分かれる」分岐に差し掛かるところにいる。
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地知る天知る我知る

2019-05-12 | Weblog
令和元年、
新旧入れ替え、対立は水面下で激しく、
表面には虚をもって穏やかに進んでいる。
波風はそれとなくして非日常を偽る。
巧妙は人知及ぶところではないしたたかさであるため、
粛粛と進められて、気が付いても後の祭り状態である。
どうしても一旦という区切りをもってこの世の清算にあたられる。
起因は、私利私欲の縁をもっての死王に見入られたこと。
まさに悪いものとの出遭いに他ならない。
自然は、細分はせずひとくくりとして対応する。
浄化は始まった。
その中でも、不幸中の幸いとしての慈悲にあるのみ。
自分の慈の道徳に他ならない。それがすべての根本、自由に由ることである。
根性、意地が素直であれば徳である。
不安も安心も
先行きは、自分が既に決めてしまっている。

怒り心頭、地上は浪打天は吠えまくる。
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