つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

2012-11-30 | Weblog
何かを感じ取る気持ち、第六感が働く。
時の速さを測りえない科学、寸分違わず数値は示す今と昔を。
曖昧という容の心は、一つの時限を見抜いて、
流れ行く加速を勘繰り知る。瞬く間に、あっという間にと確かに感じ取る。
勘違いというほど不確かなものではない心のエネルギー。
類推は的確に得て、時は客体として早まっていることを受ける。
物事が消滅をする時の様に。
未練ある処においては更に。

その時、映像は止まっているかのようにゆっくりと流れて見える。
そして、誰も・・・
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錯覚

2012-11-28 | Weblog
心臓が休みなく動いていても、疲れたとは思はない。
絶え間なく動いていて、生きているという。
本来、肉体に疲れというものはない。
疲れて動けないというのは、単にエネルギー不足になっているためで、
休息をとることによってエネルギーは充足されるために、再び動けるようになっている。
真に疲労というのは、回復ということは無く、そのものを取り替えてしまわない限り元通りとはならないものである。
私たちが言う疲労とは、エネルギー不足のことを言っているだけ。
エネルギーさえ補充されれば、元通りに動ける。
肉体のエネルギー補充は、他の命を自分に取り込んで完了。
心のエネルギーは使わないことによって満たされていく。つまり、眠ることによって補われる。
肉体というのは非情な中で生きる。心の乗り物であるに過ぎないために無常という哀しさを持つ。
心は、その無常という哀しさを知って、飲食のいらない肉体を求める。
謙虚であり、倹しくあり、省みて省みて悟ったとき、煌々と輝き、神々しく現象の肉体となる。
若く力のみなぎった肉体である。老いることの無い姿となる。

全てが、片時も止まることなく動いているために、生きている。
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生まれ変わり

2012-11-27 | Weblog
生まれながらにして得意なものがある。
天性という上手。
前世の絆。
長けていたもの、頭角を現す。
誰の生まれ変わりか?
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唯一

2012-11-25 | Weblog
広く司ることなどできる器を持てないために、
一人乗りの船を漕ぎ出す。あなたが教えてくれたために、
知ることができたのだから、望めば船はあることを知る。
音の無い宇宙に、大音響で歌を歌っても意味が無いように、
しかしながら、日のめぐりに目的が無いのだけれど、そこにめぐり受けるものがある。
意味無くして歌は歌われて、意味あって受け取るものがある。
広大なる宇宙に放たれた歌は、隅々まで廻っていった。伝えるもの無くして伝わっていく。
同じ穴の狢ということが言えるために、目的無くして目的ができ、伝えるものに伝わるのである。
すべてが自由という唯一であるために。
広大無辺な有限の世界。百千万劫難遭遇である。
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由る

2012-11-24 | Weblog
あの世というのは、人の経験とならないために、
知ろうとしても知ることはできない。
人は、経験とならないことは知識となっていかないために、
知識とならないことは分かりようがないために、あーだこーだと想像するだけである。
想像で物事を語ると、そのことが間違っていても
間違いだとすることもできず、正すことができなくなってしまう。
だから、生前、誰も死後の世界について語ることはできなかった。
誰も教えなかった。教えなかったというよりも、教えられなかった。
仮にということが無く、想像の域をでない。絶対という世界であるために。
どんなに精査しても、想像というのは「外」というのがつく。だから、譬えて
知ったとして、先ず仰天するものである。
人は、知ることのできないものを知らされても、どの様に判断してよいのか、また分からない。
分からないものを分かろうとするために、あれこれ誤ってしまう。
分からないということは過つのである。
過ちながら実体に近づいていくのであるが、近づくまでの道のりが迷妄、すべてを否定してしまう。
受け入れられない。
心に迷いがあるときには、普段起こさないことにもミスを犯す。
何かの望みを目指す者には特に顕著に現れる。
そういう時は、対するものに触れたり、興味の無かったものに触れたりしてみるとよい。
すべてが不二であるために、必ず訓えられる。さて、
ほんの少しでも気晴らしとなれば、改善が興り受け入れられていく。
否定、疑うということがなくなっていく。それは、初心な子供が神様を信じて従うようなものである。
何かに長けた者ほど初心に帰る。
受想行識であるために、
受けた刺激によって景色が開かれる。正しく受け取ることである。

仏となった優れた者(観音と呼ばれるようになった人、菩薩)は、世の道理を知り、あの世を知る。
法則を知るのである。縁起を知り、
人であった縁、浄の縁、その行いに由るための人に刺激となる。
それはあの世からの語りであるために、啓示として語る。人の死後は、こうであーでと道理を語り、世界を語る。
そして、方便は心にあることを語り、その持ち方を語る。このようにありなさいと語る。
そのために、
無智なる人でも、おぼろげにでもあの世を知り、世の道理を知ることができる。
必ずや逝く別世界のためへの方便を知ることができた。
この世というのはあの世のためにある。
未だ無智であれば来世にも生きる。あの世を介して未来世と続くが、真実、人の目的は、
変わることの無い世界、それも幸せの変わることの無い世界での安住、死後の世界である。
決して来世未来世と続くためではない。無常の世界は常住の世界のためにある。
悟れなければ行為とならず、永遠の世界を彷徨うが、悟って行為としていけば、
永遠の世界に安住する。
それは、前者は苦の世界を繰り返し、後者は楽の世界にとどまる。
この世の時だけの対応で成る。だから、生きている時が大事。
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‘心の思い’で

2012-11-23 | Weblog
テレビでよく見ていた人達、少し見ていないなぁと思っていたら、
死んでしまったという報道をよく見聞きする。
人は誰でもいつかは死ぬものであるが、そうは分かっていても、身につまされるものがある。
年老いてくるとなおさらである。諸行無常、確かなこと。
なのに、一寸先は闇であることを忘れて、明日のことを思い煩い生きている。
事実、ほとんど我が身に明日はやってくる。
ほとんどであるために、
およそ人間の寿命というものを知り、(70頃から100弱までと勝手に思い)
寿命までは生きているだろうと都合よくしてしまう。それはまた、仕方の無いことなのだとするも、
仕方の無いこととして生きて、気にしてもしょうがない。

「気」にしないで生きるということは、案外大事な事で、
病気を気にすれば、病気が絶対となり正しいとなってしまう。そのために、病が頭から離れずに、病に冒されていき、
病に負けてしまう。
常に気が刺激してしまい、その部位が異常に刺激となるためである。
自分が思うほど、自分というものを人は知らず、自分を支配する脳を知らない。
脳が思い違いすることを、心が勘違いしてしまう。
病気というように、病も気である。エネルギー、つまり、
エネルギーとしないで使わないでいること。
そうすれば、やがて浄化されて、そのエネルギーは消え去っていく。
なぜ、浄化されていくのかといえば、あらゆるものが動いていて、その動きが円運動となっているために、
元に戻るためである。ゼロになるためである。だから、浄化となっている。それがエネルギーの法則であるためである。

気を遣うということは、エネルギーが注がれていくために、
よく燃えて現象化してしまい、その結果、自分が焼き尽くされてしまうのである。
気とせず、忘れていること、忘れてしまうことでそこから抜け出せる。
馬鹿は風邪を引かないと昔から言われるが、一理はある。
馬鹿であるために疎くて気が付かず、つまり、疎くて気とならないためである。
気、エネルギーとならないために、遣われることがなくもえることがないためである。
病は気からともいわれるのは、気の遣い方、操り方というのが大切ということ。
「忘れる」、楽につながる事である。一つの方便。
馬鹿になる、馬鹿に為れるということは、すぐれるということでもある。
因みに、
寿命が来て老衰で死んでいくとき、人は惚けていく。
惚けていくことによって、死の恐怖から離れられていくためである。
怖いということが忘れられていき、怖さが無くなり、穏やかな気となっていくため、
自然と安らかな顔立ちとなって死んでいくものとなっている。
実際、あの世というのは怖いところではない。
心のあり方によって成る世界である。
それは、この世と同じで、地獄として生きたか、幸せだったとして生きたかの‘心の思い’である。
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2012-11-21 | Weblog
一対としてあるものである。
単独であるように見えても合わせて一つとなっているために、
独りというのは彷徨えるもので、変わり行くもの。
安穏とならないために、常に震えて過ごす。
それは、どうなるのだろうと不安におののいていること。
対するもの、互いに不足を補って完成形となるために、
妥協ということは必要である。協調性を有して円満となる。
我が道をゆくというのは、わがままということであり自己中ということである。
互いを譲り、認め合うこと、それが円満となること、一つとなること、完成形である。
揺るぎない円である。そのために、何もかもが狂いなく決まってくる。
狂いが無いために信じられる。先が見える。安心安泰となる。
‘意地でも’と意地を張ってはいけない。意地を通してギクシャク。
歪になって角ができる。先が見えなくなる。互いに戦いて消滅してしまう。
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このよ世だけ

2012-11-20 | Weblog
この世とあの世は同じである。
人は死んでも同じである。
記憶の現象があの世であるために、
人は死んでも変わらずにあの世で生きている。
心の想いで世界があるために、少しも変わらない世界となっている。
この世と同じであるといっても、この世に生まれたときのように、あの世に生まれるというのではない。
死んだら即あの世となるのだが、心に死というのがないために、
この世の現象がそのままあの世の現象となっている。だから、自分の死は他人の死となっての現象である。
現象には自分が生きているために、自分の死が他人の死となって認識する。

夢を見ていて、夢だとは思わないで見ている。
夢が時間を越えて過去となっても違和感はないように、
不思議と思わないで見ている。
瞬時場所が変わっても変だとは思わない。
どんなに見ていても飽きるという感じは無い。
時間が無いために、時間を感じることは無い。
夢の世界はこの世とまったく変わらない世界であるために、
夢の世界にいることすら気づくことが無い。
夢というのは、目が覚めて始めて夢だったと感じる。
あの世というのも夢と同じ世界である。
あの世となってもあの世であるという認識は無い。
あの世いうのは夢と同じ現象の世界である。
地獄であっても地獄という認識はされない。
苦しくて当たり前として認識されるだけである。

夢と同じように心にも時間が無いために、心は年をとらない。
だから、肉体との食い違いが生まれる。
肉体の衰えに「こんなはずでは?」としきりに思うのはそのため。
肉体は時間と共に衰えてしまう。
時間に支配されているためであるが、心はそうではないためである。
そのために、心は、自由奔放に過去も未来も行き来する。空間も飛び越える。
時間を持たないということは、永遠ということである。それが生命。

行いによって記憶が創られ、記憶によって心が創られていく。
そうして記憶が積み重なって、統一され今の自分の思いとなっている。
一つの人生、一つの人生と区切られ、その輪廻して作られた思いの統一されたのが自分という性格、質、人格。
くれぐれもよい記憶をつくることである。
縁あって、
またこの世に生まれるときは、
いまだ彷徨の身、苦楽から学ぶ。まれな機会であるために、活かすことである。
進化はこの世だけ。
あの世に行ってからでは浮かばれない。
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過剰

2012-11-18 | Weblog
きれい好きな人がいる。汚いことをなんとも思わない人よりは
とてもよいこと。
潔癖はまた困りもの。何事も過ぎることは、
よいと思われることでもよろしくなくなるものだ。
度が過ぎるといわれて、嫌われる。
過ぎるという字はまた過ちとも読まれるために、
何事もほどほどである。
常に、過ぎたるは及ばざるが如しだから、度をこすな!

どんなにきれいな人でも、よごれはある。
循環型で生きているために、きれいにしてもよごれていく。
よごれは体の穴という穴から常に排泄されていく。
それを都度ケアしてきれいを保つ。また、目には留まらない微なる生き物たちと
共存して生きている。それには大変有効なものも多い。だから、きれいでいられる。
一概に嫌って排除すれば、無防備極まりなくなって生き辛く、
案外、死に至る。

目に見えないからといって無いではない。見えていないだけで、
様々な形でそこここにある、いる。心のようなもので、見えたり見えなかったりである。
見ようとする目を持つことで見えてくる。それは、微かに、やがてはっきりとという過程を得ながら、
そして、以外にも
思い違いを見せつけられる。

過剰反応はよろしくないものだ。なにかにつけて。
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気をつけて!

2012-11-17 | Weblog
物事を前向きに考えることは善いことである。
プラス思考と呼ばれて、思いに塞ぎ込むのではなく、
建設的に考えていく。
そう知ってはいても、
思いはよく憂える。
誰でも憂えはぬぐえない。時としてあるものである。
多々あるマイナス思考といわれることに陥って、時にハッとして
我を戒めたりする。

この世には、単独で存在するという事と物は無い。
何事も一如である。
現れ方は違うが、根源はひとつにある。不二である。
日の恵みを受けて生きているが、太陽もまた創造と破壊を併せ持つ。
恩恵を受けながら酸化が促進されていく。
一長一短で成り立っているもので、どちらか一方だけをと都合のよい受け方は無理となっている。
道理に無いことは、何をしても適わない。無策に尽きる。
時のある道のりの一つに、栄枯盛衰として必須与えられているものである。
だから、
憂えてもそれはそれでよい。人が憂えるとして「優」と書くように、憂えることもまた必要であるための事である。
優という字は優しいとも読み、優れるとも読まれる。所謂、マイナス的思考とすることもまた、
前向きな思いと同等のよさを持っている。必要な事であり、必用なことである。どう扱うかにある。

あらゆるものと対して生きて、共存である。だから、一対として存在しているもので、
対するものを極限嫌って、排除してしまうことは、自分を排除してしまうことにつながっていることになる。
マイナスもプラスも必要なためにあるもので、その時々に、どう認めて対処したか、心の問題である。
私というものを心が司るために、心をみがいて体は鍛えられるものとなっている。
だから、心の入らない運動は、つまり、気の付かない運動は骨折り損なだけ。
「~しながら」の行為は目的を成就しないものである。あるいは、遠い遠い道のりを回るものとなってしまう。
「気を付けて」はすべての要。

「人のいましめ」という訓えに‘・・・勝つことばかり知りて、負けることを知らざれば、害その身に至る。・・・’とある。
古今東西、古今独歩、感服の至り。すごい人はいたものだ。
憂えて、侘しい寂しいと思うときはまた、「・・・不自由を常と思えば不足なし、心に望み起こらば困窮したるときを思い出すべし。・・・」
まことに敬服。
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