つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

変化は常に

2023-07-31 | Weblog
「天網恢恢疎にして漏らさず」、
静観しているだけで、諦かになってくる。
明日から8月である。
貴方の知らない間に時は加速して、「あっという間」を思う。
どんなに計測しても、一秒は一秒である。寸分の狂いもないが、
貴方自身は、時の速さを不思議と感じる。
しかし、その感覚は正しい。でも、狂いなく今まで道理の時は過ぎる。
直感とは何か?不思議だが正確さを示す。なにかおかしい?
ただ、貴方が貴方自身を知らないように、なにもかも貴方は振り回されるだけ。
時は不定ではない。特に、貴方自身の心に反応して・。何か変だと・。感じる。それは正確である。
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破目をはずす

2023-07-30 | Weblog
本日は日曜日。行政は休みである。
そのため、一般的に明日月曜日から仕事は動き始める。
31日晦日をもって7月も終わりであるが、月曜日であるため仕事として事は動く。
情報は少し遅れて発信されるが、巷では大きな変化が伴う。啞然とする事柄に、
どうしたものかと思案する間、今との時間差のずれをどうにか繕うものの、事は、
大事をとって、穏便を装う。8月は破目外しだが、傷は小さくしても亀裂は大きくなっていく。
傷ついたところは、取り換えるかしなければ、完全修復とはならない。
完全修復として取り換えることなく終えればぶり返す。「忘れたころに」として、
消し去ったように思われるだけで、過去を思い出させる。
人間の愚かさは、「忘れたころに」を何度となく学習しても忘れてしまう。
「歴史は繰り返す」は忘れたふりに由る哀しさである。
原子力は、なにも爆弾に限らず、操るに至らない技術力の早計にある。
少なくとも私達の生命寿命は、一世紀持つか持たないのである。して、
更に
傲慢さは、根本から寿命を縮める。人生約50年に再び返る羽目を負う。
進化は、常に元に戻っていく。羽目を外しながら。
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山上の垂訓(歎異抄)、そうはいっていないと訓示る

2023-07-30 | Weblog
般若心経を正しく身に備えればその功徳は最強である。
自ずと道理の力によって正しく導かれていく。
「思考は現実化する」というのは、本当ではあるが
どのように理解しているかで、必ずしもという事になる。
あまりにも難解に思う事で現実には程遠くなる。
だから、卓越した精神の者でなければかなわないとされる。
卓逸は、如何にまごころが込められているかに関わる。
あまりに難しければ、多くを助けるには至らない。
容易にしてあるから有益なのであるが、人それぞれの思いの違いに、
感化するために、ほぼ無益に終わっている。
ある受けた刺激に、貴方はなぜそう思ったのか、捉えたのか、は人それぞれの自由である。
同じことを聞かされても、十人十色として受け取る。
そのために、適う、適わないの差異が生じる。
違いが生じないよう、ただ簡単に思う事、あれこれ迷わず、直感の感覚の一途にある事が大切である。
いや、だけど、凡人だから等々迷ったのではもうかなわない。また、信じたその道すがら、
待てよと立ち止まった瞬間、もうかなわない事となる。
何も知らない子が、親を絶対と信じて生きているとき、親の言う事はすべてにおいて正しいと判断する。
だから、「子供の様に」としての心の在り方を神は説いた。「子供のように信じる者は救われる」と。
無知にある子は、故にあれこれと迷わない。それが救われる道である。
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無知をなくして智恵を得よ

2023-07-29 | Weblog
善悪は人の意識にある善悪である。
存在というエネルギーの法則にはそもそも善悪は無い。
善悪は無いから善いこととして存在している。だから、エネルギーの法則は善い法則として存在する。
その法則から生じて(存在して)いるために、人の意識も本来性善となっている。ただ、
相対的世界であるために、対する物事が存在して現象となっている。
悪い人と善い人が、つまり、善い意識と悪い意識がいるのである。
根本は性善であるのだが、そこに無知であるために、対するものの存在として現象してしまう。
そうして善し悪しが分かる事となっている。
そうでなければ、対する物事の認識ができない。
存在とは対する物事が合わさって一つの存在として現れる。
片方、一方という事に存在という現象は起こらない。
そのために、人の意識の善し悪し、善悪の現象がある。
だから、どうしても悪事を企む輩がいるのである。それらは、実に害を及ぼす存在である。
そしてまことに憐れな存在である。悪事を為すものは自分を一番愛おしいと思っている。
誰よりも自分が一番大事であるとして生きているために、他人を害してまで好い思いをしたい。
だから、あれこれ企んでよい思いをする。そのように企む(計画)するために、物事はそのように進む。
これが世の中で悪事が蔓延る原因であるが、
悪人が結局は馬鹿(無知)にあるために、物事の最終末に至る道理を知らない。
人は、誰でも死ぬのであるという道理を本当の意味で知らない。
悪事には悪事が終には起こる。つまり死後の行き先は悪いところ、地獄に行くことになる事を知らない。
死んだら何もかもおしまいと思っている無知に由るために、魂の根本を理解できないでいる。
この世とあの世の理解ができないでいる。
自身の体を動かしている意識が、魂であるという生命エネルギーであることを知らない。
そのために、肉体の死がイコール魂(意識)の死として、死んだら何もかも無くなると思っている。
だから、この世で好き勝手にして生きる。人の迷惑構わずである。
魂は生命エネルギー、意識体、精神世界の存在である。物理的肉体世界を介してのみ成長する。
単独で成長することができないために、
絶対という理(物理)に入って、その感覚をもって成長できるエネルギーである。
意識は、宇宙の意識【天】の意識から分け与えられている意識エネルギーである。
そのために、自身の意識に由ることなく、【天】の意識によって勝手に動かされている。
だから、自身の寿命は天運に任されている。
生じた命が、どのように運ばれて(運命)来たかに選り宿命が決まる。
その宿命の中で、どのように命を運んだか(運命)により、次の宿命を決める。
寿命の長短は、どんなに長く生きても道理を覚れないと知れた時と、道徳を若くして覚り、すでに覚悟に至ったかに選り
決まる。だらだら長く生きたからとて好いという事ではない。覚って一日しか生きなかったとしても称賛に値することである。
それは絶賛されることである。それは天にも昇る事として、神となることである。
だから、寿ぐ命として生きることを知るべきである。これが命の生じる使命である。
この使命を知って、全うして生きれば、もう苦しみの輪廻を受けることはない。
天の意識に滲んでいくのである。
因みに、天の国(極楽)と地にある国(地獄)とは、
それぞれの界隈に相対は無い。天と地としての一対の存在。
だから、天には悪は存在しない。地には善は存在しない。
エネルギーの絶対世界であるために、地獄に仏という現象は無い。
だから、地獄に落ちないように、生前正しく生きることである。逝ってからではもう遅いのである。
この時初めて、「過ぎたるは猶及ばざるが如し」と知っても後の祭り。
あの世は魂の永遠の世界であるから、ある意味とっても怖い世界である。変わらない世界となるためである。
楽になるか恐怖になるかのそこに赴く選択は、自身の生前の意識にある。自由にあるのである。それこそ自業自得にある事である。
心して生きよ!


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計画倒れ

2023-07-28 | Weblog
眠っている頭に、まさかまさかまさかと事実を突きつけられて、ようやく目を覚ますのか、
それでも洗脳から解けないでいるのかは、貴方次第です。
このいま行われている社会の出来事に、まさかの事件が多いのは、一つの巨大化した悪事の
カムフラージュホルダーとしての役目として起こされていると思われる。
大きな事件ではあるが、もっと巨大な事件が暴かれては困るどころの騒ぎではないために、
矢継ぎ早に報道される。昔からある一つの偽装手段ではあるが、我が国も戦後約80年も経つ頃になれば、
似たような手法はあまり役には立たなくなってくる。受けた刺激は、辛酸なめ子としての経験となり、ピリピリと心を配る。
ジャーナリズム(テレビ、ラジオ、新聞、雑誌、他等)は多大な影響を及ぼす。
それでも多くの民衆は、平和ボケの極致にあるために、昔ながらの手法を使う手立ては図らずもであるが、空しくなる。
嘘はやがて、あるいは間もなくばれることになる。
暴露、露呈は、必ず悪事には起こる。
善からぬことには必然善からぬことが起きてくるのである。道理であるために必然である。
企画という言葉には、良い事柄に使われる。だから企業という会社名をつけるが、
「企」という文字には、企む、企てるという悪い意味合いもあり、善いとする計画事にはつけない方が好ましい。
過去、
多くの巨大な企業が倒産に追い込まれ、復活してくるが、
あなた方の企業の計画は、金融支配社会の参画(三角)構造。民衆から搾取され続けた税に由っての復活である。
一度起こったほころびは、チャラにならない限り粛々と蔓延る。
生まれ変わるという事は、一度死んでから(なくなってから)でないと無理となる。
巨大な権力こそ悪事に傾けば、その代償は地獄を持って償われる。永遠として尽きることが無い。


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子としての抗い(若気の至り)

2023-07-27 | Weblog
貴方の体は、貴方の意識に関わらず、かってい動いている。
それと同じように、貴方はわからないまま、この流れに流される。
天命は天寿を全うすることにある。貴方はまだ子供なのだから。
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瞬時の反応(量子)にて

2023-07-27 | Weblog
「新日本の黎明は近づけり」。
奇跡と言う文字がこの世にあるように、目の当たりにして体験する事柄が起こる。
8月というとても暑い日に現れるが、それは、ただ驚愕するという兆候に過ぎない。
兆候である。あまりに多くの人達が眠っているために、無理矢理起こされることに戸惑い、
まだ夢の中と思うほど、洗脳された(騙され続けてきた教育)脳裏に帰着しようとする。
だが、現実は幻想ではなく仮想でもない事実を(美的痛み)をもってあなたを刺激する。
どんなに肌をつねろうと、夢ではないことに気づくまで、あなたは自身を見失う。
それが一つの清めであった。浄らかさは、貴方自身をあの世を超えての界隈へ誘う。
洗心された汚れの粒は、あの世に雨となって降り注いで消えた。
上昇とは、自身の記憶をそのままにして、脳裏に映し出してもう残らない。残像もない。
阿阿、黎明は阿吽の呼吸でこそ昇天となる。

貴方は、ただじっと静観しているだけでよい。もう、この地球号の乗員なのだから。

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浄化の理・まさか?

2023-07-26 | Weblog
現日本社会は本当に腹黒い人達が闊歩している。
だから、どこもかしこも信用ならない。
特にな成り上がり者は、もともとの素質がないために傲慢となり横柄となる。
馬鹿者が権力を得ると、やがて国もあるいは会社も傾く。
今、我が国の社会は不正蔓延して、平気で嘘をつく人たちであふれている。
厚顔無恥はいつの世にもいるが、これほど社会の善悪が進化しているにもかかわらず、
道徳は廃れてきている。人倫に反することがあまりに多い。このままで修正されることなく、
社会が進んでいくなら、日本は崩壊してしまうだろう。
汚物に金粉をまぶして、綺麗を装ったとしても汚物は汚物、やがてひび割れて悪臭を放つ。
今はそのような社会に見える。そのために、
間も無く、社会の軌道修正が行われる。今ならまだ間に合うとして、「風雲急を告げる」こと現る。
それは、必殺仕事人、仕置き人の物語のように行われ、虐げられてきた者たちは晴れ晴れとする。
悪いことは、必然ダメになるのが道理である。道理であるために間違いなくである。
悪事は悪事によって裁かれあうのである。それは、傍から見れば見っともないことであるが、
善人には害が及ぶことはない。もし、少なからず及んだとしたら、自身の善悪に関わったとして分かることとなる。
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頑なな気持ちは閉ざされる

2023-07-25 | Weblog
本年、8月のとっても暑い日と記憶される。
どんでん返しのビックリポン。
少なからず混乱は避けられないが、大手を振って闊歩していた者たちは、
為すすべがなくただ茫然である。
奇跡と言う言葉があるのは知ってはいたが、字面だけの事と思っていた。
多くはそうであろう事柄である。が、この世は奇なる事の跡として、軌跡は残っている。
奇=(思いがけない)とする奇妙な事は起こるものである。
確かにそのことをあなた方は確認するが、認識の甘さは人それぞれである。
「人間だもの」という人と、「人間だから」という人がいて、どちらにも転がる軽さをもって
自分を慰める。ゲームはただ謎をもって意味はない。混乱させるだけの退屈凌ぎであるために、
ゲームをはなれ、自由になれ。群れるな!
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知識ではない、智恵である

2023-07-24 | Weblog
金融支配社会に生きて、生き辛い者、夕べにはいたけれど、朝にはもういない。。
また、朝にはいたけれど、夕べにはいない。
それほど緊急を要する物事に、この社会は牛歩の歩み。
ただ、粛々と物事は是正に進むが、多くの犠牲はあるだろう。
人間というものは、この宇宙的時間の悠久さにはついてはいけない。
あまりに刹那的に生きている。
その繰り返し繰り返しの中で、輪廻という生まれ変わりのために、記憶のリセットが為され、
常に悠久の時の流れに思いを馳せることができない。
私達はどこから来てどこへ行くのか思い出す事ができないでいる。
存在の理由が、ある使命をもっていることにさへ気づくことが無く、ただ物理的に生きる。
制限を持つ物理の世界を介して、精神的生命は気づきを覚える。「対する」とする
ことが無ければ、覚醒認識はできないためである。
なぜ制限を持つのかに思いを馳せて、はじめの一歩である。
千里の道も一歩より、物理世界は精神世界の入り口である。それが「南無」=入門の言葉である
南という明るく暖かな方向を示す言葉を使い、そこに向かうための入り口を示す言葉である。
南(明るい方向)は無くなることが無いとするための言葉として、「南無」と充てている。
言葉は、音写とかで書かれてはいない。しっかりとした意味をもって充てられている言葉である。
自身の理解がどれほどあるかで、仏の言葉(経)の意味も、効力の有無が分かれる。
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