つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

奴隷

2015-04-30 | Weblog
金融という悪魔。
世の中で最も悪なるものである。

心まで変えられる。

人は、金で動くものとなって、
意思も意志薄弱となる。

金が信用であり、人は信頼に値しなくなる。

「すべての隷属は苦である。」

自由を失う。
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不滅という強みと弱み

2015-04-29 | Weblog
近未来という時間の進化は、
私たちが携帯電話というものをまだ知らず、そんなにも普及していなかった頃の、
そう遠くない過去のように、
大衆に於いて思いもしなかった技術の進歩が、急速に進んでいる社会である。
そのために、便利が当たり前で、その上での思慮深さも今までとはだいぶ異なっている。
便利が当たり前であることの人々の心の思惑は、ある大切なものを置き去りにしてしまう。
というか、便利を追求するあまりに、自立依存?という事に欠け、他に拠り所を求めていく様は、
悲哀に満ちたものである。
そもそも依存というのは、自分以外の他の力のあるものに縋るということであるために、
自立依存というのはおかしな話なのだが、
人の心というのは、自分で自分を知らないように、
肉体の司る脳と、それを離れたような心の動きとが絡んである動きである為に、
主体的にしてはあるものの、客体的に見ようとする錯覚を持つ。
それは、世に於いて、自分だけは違うもの、大衆より離れた存在であり、
何事かあっても自分だけは避けられると思っているものだ。
自分だけは死なない今であると思って生きている。
いつかは誰でも死ぬことの意味は知っていても、今ではないと思って生きているのである。
この根本は、肉体と心のエネルギーの違いから来るものであり、
心のエネルギーが本質のエネルギーと繋がっているもので、
肉体は心のエネルギーの縁による媒体というか、心が全て知るべきにして持つ表れでもある。
進化のためにあるもので、そのために、なぜこうなのかという疑問にしてある。
発達、発展途上にあるものには疑問符がつくのである。それはまた、
この世の次元にいる限りに付く符なのである。

心のエネルギーというのは、時間も空間も持つものではない。
そのために、心は自由であり、何を想おうが制限されることはない。
時間という間、空間という間には何の隔たりも持たないのである。
その自由は自由である為に誰も勝手に見ることはできない。
心に於いて従った行為だけが見られるもので、何を想おうが行為としなければ明らかにされることはない。
だから、空想にしてあらゆる処と時にいけるのである。
因みに、以前にも述べてはあるが、空とは空白域であり、生命の記憶とならない間と時の界である。
つまり、あの世を指す。
肉体から離れた心、いわゆる生命エネルギーは、
脳を持たないために、記憶となることのない世界で縁があるまで暮らすのである。
生前の記憶が現象されている世界があの世である為に、生前の記憶と何ら異なる世界ではない。
つまり、あの世はこの世と少しも違わない世界となっているのである。
心は生前の記憶を世界として現象しているために、自分が死んでも死んだという事が本来知らない。
魂の目から見ればそのまま肉体があるし、周りもそのまま現象しているために、死んだという事がわからない。
そのため、死はすべて他人の死であり、自分の死んでいる肉体を見ても他人の肉体と判断されていくのである。
それが魂つまり心が死なないという事である為に、永遠に輪廻していくものとなっているのである。
それは、エネルギーの法則が永遠なものであるためである。
人が死んであの世で暮らすが、あの世は心の記憶の統一された世界であるために、その心模様の世界が現れている。
苦しみと恐怖が、つまり、悪事という記憶が占めている心であるなら、死後の世界は紛れもなく地獄の世界となっているのである。
それは縁あって再び生まれてくるまで続く世界である。時間が無い為に永遠となっているためである。
縁あってというのは、心のエネルギーが進化の途上にあり、完全に道理を覚って無い為に、無智にして行為を誤り、
再び生を享けるのである。それを輪廻の内にあるものという。生まれることは苦である。
この世が一切皆苦と言われるのは、心が無知にして誤りの行為にあり、そのために、
道理を知らず悪事をなすためで、悪には苦しみが付きまとい、その苦しみに於いて、なぜと考え改めていくことに
魂、心の進化がある。進化したエネルギーは学習し、よく道理を覚り、誤りの行為を為さなくなれば、
二度と再びという生を受けずに済む。輪廻を離れるのである。
誤りの侵すことの世界は故に幸せな世界であり、その世界が永遠となるために、心の完成された本当の世界となるのである。
それこそ心の求める目的世界であり、心の自由な世界である。
何ものにも侵されることのない世界であり、恐怖の微塵もない世界である。
全ての人が清浄な思いを発している世界である。
この正しく浄化された世界が観音経で説かれている「侍多千億仏 発大清浄願」である。
人の死後の涅槃という世界である。




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存在

2015-04-26 | Weblog
私たちは、自然というものについての常識を一旦捨て去って、
新たな目をもって見つめなおさなければいけない。
般若心経で説かれていることの意味を正しく読み解けば、
智恵を知りこの世の道理を知ることができる。自然の摂理が見えてくるのである。
何をして何を為してはいけないのかが自ずと知れてくるものである。
自然というものの字を見て、自らに然り(しかあり)と書いてある。
それは、自由という事にあり成り立っているものであると知れる。
何に頼るでもなく、自分を寄る辺としていれば正しい方便となるものである。
未知にして道標が都度知れるのである。
これは、諸々の法則、仕組み、性質が格をもって現れてくるからで、
らにるものであるためである。
それは、法に適うための敬意とでも言おうか。

さて、あなたが‘もの’を作る時、
あなたが為のものを作るもので、意図されてある。
あなたがいなければ意図して作ることもない。
エネルギーというのは、‘あなた’というのと同じである。
宇宙はエネルギーであり、無いところは存在とならない。
存在とならないことは考えても無意味。

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意図

2015-04-25 | Weblog
人が物を作る。
人工的産物は、人の意志に基づくものである為に、
意図されて作られている。
時が進めばその技術も進歩して、よく細部にまで配慮されたものが作られてくる。
始めは何か進化した者に教わってヒントを得たが、自らにして考える能力を具えている(具えられて作られた)ために、
応じて、思案にして‘計算する者’を創造するようになる。
それは、自らを超える能力をある面に有していくが、どこまでも完成形に近づくものであって、完成されたものという事には至らない。

知識を多分に詰め込まれて作られたものは、何やら想像だにしない部分を独自に作り上げるという能力を得る。
それも事由な自由からくるための意識を持つ。
完璧なまでの配慮?がなされているような意識と見えるが、しかし、それは‘それなりの’という欠点を持つ。
それは、不確定要素を持つもので、一方を補えば他方が確定できないという相互間の同時性を持たない。そのために、
不意を突かれることに脆弱である。
一瞬の隙を持ち、瞬時の滅となる可能性を多分に含むのである。
自然のものは永遠であるが、人工物というのは儚いものである。
もろくてその場限りである。

もし、意識が法に依る自由意識であるなら、よく道理に適い脆弱は持たない。
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知ったか仏陀

2015-04-24 | Weblog
道理に因んで仏陀がいる。

栄枯盛衰が世の道理である。
そのために、儚くも朽ち果てるものであるが、
平凡にして泡沫であるなら何もない。
ところが、
外部より
否応なく強制にして泡沫となるなら、
道理に反する。
道理に反するのは是が非と同じこと。
だから、
絶対ありえない。
つまり、
よく道理に守られてあるために、
無理矢理泡沫になることはない。
それを人は神はいるとして、
超常的なもの、
証明もできないものを崇めるが、
証明されないために否定もできず、
各々の信じる神を持つ。

人の神とする者は、全能の如く優れた能力を有する者であり、
それはまた、そのように知らしめられた事柄一つにしての思い込みであり、
知能段階貧しくして如何に思うための者である。

真如からきたものとして仏陀を神として敬うものの、
単に道理に因んだ者である。
智慧あるものの徳である。
その知恵に学んで、よく守られていることを知る。


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プロメテウス

2015-04-23 | Weblog
「人間万事塞翁が馬」
‘福必ずしも福ならず、禍必ずしも禍ならず’

先のことなど誰もわからない。神とて同じ!

先見の明? 不可思議なことだ。

回る自由、その縁、自然。不思議なもの。
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短絡的思考・直線的

2015-04-22 | Weblog
その昔、宇宙は地球のように生命が多様に存在する環境があるのは偶然にして希なことで、
まして、他に生命体が存在する星などありもしない事と思われていた。
時に、科学の進歩した現代に於いてさへ、
宇宙には、地球のような環境にある星は皆無に等しいと思っている人は多くいる。
だから、異星人などいるはずもなく、地球は孤独な存在なのだと思っている人が多い。
異星人は映画などの空想上の存在であり、実在するなどといえば偏見の目で見られたりするものである。
それは、
全く自己中心的な発想考え方によるもので、
自己がありながら自己否定しているような矛盾にある。
それこそ偏見、
無知蒙昧の何ものでもない。
だから、
矛盾は解決することができなく、
永遠にゴールにたどり着くことができない。

日常は回る道理であり、光とて直線的に進むことは無い。
俗世、人の意志は直線的であり、そのため始まりと終わりが解決できない。
それは、短絡に直線的として観てしまう
思考の無さからくる。
世の中は、円思考によって解決されるもので、
直線的な思考を為していたのでは正確な造詣はでてこない。

円思考は道理の判断である。矛盾となることがない。
正しい思考である。

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私より私を知るもの

2015-04-19 | Weblog
情報社会である。
聴く聞かないにして様々な情報が氾濫している社会である。
善い悪いがあり、ウソホントが入り混じっている。
それを選り分けて判断するのは、自分の才知に依る裁量。
半世紀以上生きてくれば、それなりの良し悪しが分かってくるものではあるが、
悪質なものが良質なものをいくらか上回っていると感じて俗世間である。
個人情報保護法なるものができ、特定されないよう、できないようにされてはいるが、
詮索すればできないことはない現状にある。これからは国民番号制となっていくために、
余計情報は簡単にもれていく。変なもので、
知られまいとすればするほど洩れていき、知ってもらいたいと思うほど知られるのは
難しい。事それは善悪に関しては顕著に示されるものだ。
だから、自分にやましいことを作らないことであるが、
何ら無知に生きているものである為に、多かれ少なかれ恥となる他人に知られたくない事を人は持って生きている。
まぁ、社会通念上犯罪というものを犯さないでいるのであれば、「誰でも」という恥という事に留まるものではある。
人の隠したがる物事を探し出してみたがるものというのも俗世間でもある。
世の中進んで、監視カメラやら盗聴なるもので、良し悪しに付け見張られている社会である。
事、電子系に於いては顕著、悪質に見張られていたりする。
パソコンなどは、眼の記号が付けられている。すべて監視状態にある。
あるいは、軍事的にしては、現人知結集の識が盛られていて、究めて詳細な情報を知れる技術を持っている。
人間でさえ進歩していくことによって、いままでの不可能が可能になるのであるから、
人知遙かに超えた頭脳ある生物には、それこそあからさま、赤裸裸に知ることができている。
そんなことを踏まえて、謙虚に生きていることが望ましい。
人類は、お釈迦様の掌の中で生かされている者なのであると知れてくる。
触らぬ神に祟りなしというのは、ある意味言いあててあるものということが言える。
それは、
私たちが、‘気づき’という事に掛かっていて、それをクリアーできれば、
触らぬ神に祟りなしという事はなくなる。なぜなら、我々が思う神は善であり、善に祟りはないからである。 

さて、一秒という間をもって物事が始まり、集まって一つの周期ができ、各周期が作られていく。
一旦という区切りでそれぞれが廻っている。栄枯盛衰という言葉があてはめられるが、
私たちはうたかたにあるものの廻りをもって、永遠に辿り着くものである。
それぞれに長短として感じられるものとしてあるが、それぞれにとって同じ一秒である。
ネズミと象の一生は長短にしての感であるが、それぞれは同じ一秒の間の感である。

‘初めてのこと’は、どれだけの周期を持って訪れるのか、一秒の間をもって
それぞれを知るのである。
今初めてのことは、過去何度訪れたことなのか、永遠という事を知って計り知る。
無量大数!
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為ㇱ合わせ・独擅場

2015-04-19 | Weblog
支配欲という自己中。
それによって束縛される苦しみは飴と鞭に翻弄。
その仕合せを幸せと思う不幸せ。
まるで、鎖に繋がれた犬の仕合せを倖せと思う様。

愛情という優しさは、先見にして、
その人の献身か各自の独擅場優先。
曖昧にして不仕合せというもの。
そこにそれぞれの都合は傲慢無礼なこと。

その日その日未だ来ない、その日その日の愛、妙に暗い。
可愛いという慾に都合をつけて、曖昧に思う。そのうち、献身を忘れてしまう。
けんもほろろという心。慾。

生きとし生けるもの、その場に応じて姿形を成していて思うものである。
その場に応じて幸不幸を思う仕合せである。

生きとし生けるもの皆独りであり、集団しているが、
孤独である為のものは支配欲強く、特に人は集団で殺し合う。

‘可愛さ余って憎さ百倍’、ひねくれた心になりやすい
弱い弱い心である。
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法則の身に付いた判断、智慧

2015-04-18 | Weblog
さて、
進歩するうえで見えてくる真実。
それは、自分というものを見て、周りを見て、
見渡して知る様々な相違点と類似点は共通にあり、
一にして十を司るために、
ある一点に於いて探ること、多くの手がかりを得る。
人の常識というものは社会通念上であり、自然にはどうでもよい事としてある
非常識なことの深遠である。
ありのままにして見る錯覚による誤解は、単純にして簡単さから来る思惑、
ありのままにしてあるものの精細さの精査に欠けた一瞬を注意できない鈍感。
無智。
才覚、あるいは、才の格は知恵に養われた勘、才幹。
智慧に輪を掛けて一瞬を操る。その洞察は正確無比。
なぜなら、智恵はエネルギーの法則の身に付いた判断だからである。

エネルギーの法則というのは、諸々の法則であり宇宙の法則である。
唯一変わることのないのがエネルギーである。
それが円運動という自由による性質であるから。
無くならないとする無からできている。
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