近未来という時間の進化は、
私たちが携帯電話というものをまだ知らず、そんなにも普及していなかった頃の、
そう遠くない過去のように、
大衆に於いて思いもしなかった技術の進歩が、急速に進んでいる社会である。
そのために、便利が当たり前で、その上での思慮深さも今までとはだいぶ異なっている。
便利が当たり前であることの人々の心の思惑は、ある大切なものを置き去りにしてしまう。
というか、便利を追求するあまりに、自立依存?という事に欠け、他に拠り所を求めていく様は、
悲哀に満ちたものである。
そもそも依存というのは、自分以外の他の力のあるものに縋るということであるために、
自立依存というのはおかしな話なのだが、
人の心というのは、自分で自分を知らないように、
肉体の司る脳と、それを離れたような心の動きとが絡んである動きである為に、
主体的にしてはあるものの、客体的に見ようとする錯覚を持つ。
それは、世に於いて、自分だけは違うもの、大衆より離れた存在であり、
何事かあっても自分だけは避けられると思っているものだ。
自分だけは死なない今であると思って生きている。
いつかは誰でも死ぬことの意味は知っていても、今ではないと思って生きているのである。
この根本は、肉体と心のエネルギーの違いから来るものであり、
心のエネルギーが本質のエネルギーと繋がっているもので、
肉体は心のエネルギーの縁による媒体というか、心が全て知るべきにして持つ表れでもある。
進化のためにあるもので、そのために、なぜこうなのかという疑問にしてある。
発達、発展途上にあるものには疑問符がつくのである。それはまた、
この世の次元にいる限りに付く符なのである。
心のエネルギーというのは、時間も空間も持つものではない。
そのために、心は自由であり、何を想おうが制限されることはない。
時間という間、空間という間には何の隔たりも持たないのである。
その自由は自由である為に誰も勝手に見ることはできない。
心に於いて従った行為だけが見られるもので、何を想おうが行為としなければ明らかにされることはない。
だから、空想にしてあらゆる処と時にいけるのである。
因みに、以前にも述べてはあるが、空とは空白域であり、生命の記憶とならない間と時の界である。
つまり、あの世を指す。
肉体から離れた心、いわゆる生命エネルギーは、
脳を持たないために、記憶となることのない世界で縁があるまで暮らすのである。
生前の記憶が現象されている世界があの世である為に、生前の記憶と何ら異なる世界ではない。
つまり、あの世はこの世と少しも違わない世界となっているのである。
心は生前の記憶を世界として現象しているために、自分が死んでも死んだという事が本来知らない。
魂の目から見ればそのまま肉体があるし、周りもそのまま現象しているために、死んだという事がわからない。
そのため、死はすべて他人の死であり、自分の死んでいる肉体を見ても他人の肉体と判断されていくのである。
それが魂つまり心が死なないという事である為に、永遠に輪廻していくものとなっているのである。
それは、エネルギーの法則が永遠なものであるためである。
人が死んであの世で暮らすが、あの世は心の記憶の統一された世界であるために、その心模様の世界が現れている。
苦しみと恐怖が、つまり、悪事という記憶が占めている心であるなら、死後の世界は紛れもなく地獄の世界となっているのである。
それは縁あって再び生まれてくるまで続く世界である。時間が無い為に永遠となっているためである。
縁あってというのは、心のエネルギーが進化の途上にあり、完全に道理を覚って無い為に、無智にして行為を誤り、
再び生を享けるのである。それを輪廻の内にあるものという。生まれることは苦である。
この世が一切皆苦と言われるのは、心が無知にして誤りの行為にあり、そのために、
道理を知らず悪事をなすためで、悪には苦しみが付きまとい、その苦しみに於いて、なぜと考え改めていくことに
魂、心の進化がある。進化したエネルギーは学習し、よく道理を覚り、誤りの行為を為さなくなれば、
二度と再びという生を受けずに済む。輪廻を離れるのである。
誤りの侵すことの世界は故に幸せな世界であり、その世界が永遠となるために、心の完成された本当の世界となるのである。
それこそ心の求める目的世界であり、心の自由な世界である。
何ものにも侵されることのない世界であり、恐怖の微塵もない世界である。
全ての人が清浄な思いを発している世界である。
この正しく浄化された世界が観音経で説かれている「侍多千億仏 発大清浄願」である。
人の死後の涅槃という世界である。