つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

毎日、日毎

2012-08-31 | Weblog
世の中は円でできている。
だから、回って戻る。
あらゆるものがスタートからゴールへ、、ゴールからスタートへと繋がって
終わることが無い。止まることが無い。
これが真実で、この真実の中で生きているのに真実を知らない。

毎年春は来る。毎年花は咲く。同じように景色は移ろう。
毎年春は過ぎ去り、花は朽ちるけれど、元の春は無く、元の花は無い。
でも、同じ景色である。
同じである。この真実を見ていながら、この真実を見れない。

すべてが返る。

人も行為も同じである。
かえってくる。戻ってくる。
悪い行為をすれば、悪い行為が自分に返る。
これを見て、
愛する者というのは
どういうことを指しているのかを知る。
真に自分を愛しているかどうかを知れる。
毎日、日毎同じこと、
繰り返す。
もどってくるために。
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生命

2012-08-28 | Weblog
命というのは、他の命を頂いて生きる。
奪い取るともいえる。
あげるつもりは無いが奪い取られる。
活き活きとして動いていた、その活動を吸い取るのである。
吸い取られた命は、奪い取った命の活動源となる。
命はそのようにして生きつながる。
非情なものである。
飲食のいらない命になるために、非情な性を生きている。
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価値

2012-08-26 | Weblog
束の間という人生。
うろたえながら過ごした日々は、
煙のように消えうせて、今ではまごつくことも無くなった。
般若心経を身に構えれば、この上ない盾になり、矛先さえ見える。
して即席を得る。
即時即断即答等々瞬時を得、的を射る。
これ思議の要らないものとなり、
不思議となる。
まこと、心経の力は道理の力、智慧はばかることなく湧き出でて、
我が身を守る。
目的を持って作られたものが、目的どおりに使われて、その力を発揮する。
そのようなことを知る。束の間の人生に。
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生きていれば

2012-08-25 | Weblog
喜びは苦しみから生まれるものである。
生きていることはただ苦しみである。
だから、苦しみを乗り越えて人生の価値、生きていてよかったとなる。
苦しいからといって、尚早に自ら命を絶ってはいけない。
生生世世であるために、苦しむままに命を絶っても、逝った先もそのまま苦しみは変わらない。
まして、残された人にも切なさ辛さを残してしまう。
それは、縁がある無いに関わらず、人としての心に悲しみを記してしまう。
悲は苦に属すものである。
他にも己にも罪作りとなってしまうために、楽になることはなくなってしまう。だから、
楽になりたければ、ただ人生を歩めばよい。与えられた人生をただ耐え抜いて歩めばよい。
因みに、与えられたというのは、自ら作ったという与えでもある。それは、無知であったための過ちからである。
これは、絶えることの無い法則からきているもので、是という円の動き、永遠というためである。
生じては滅び、滅んでは生じるという法則である。生命は法則の産物であるから、根本死は無い。連綿である為の物語である。
この世は一切皆苦であるから、
苦あれば楽が生じるのが道理である。
迷いながらも辛い世を生きて、後を楽と為せるものである。
それは、現人生にも現れるし、彼の世、後の世にも現れる。
楽の後には苦がくるために、然らば、進んで行う苦を持って、
決してしたくは無い苦を避けていく。
それが幸せを享受できる術である。
諦めるというが、諦めるという文字は、言葉偏に帝王の帝の字をあてて、言葉の最高を表している文字である。
途中で、中途半端で投げ出してしまうという意味の言葉では本来ない。
明らめるという意味である。
物事を明らめていくという意味である。つきつめ明らかにしていくことの文字である。
苦しみの人生を、そこから、楽となるために明らめて生きていくため人生なのである。
だから、辛くても生きてこそ功を奏していく。
して道理に適うものである。
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生々世々

2012-08-25 | Weblog
秋分の日を過ぎる頃は、穏やかな秋の日が続く。
それこそ天高くである。唱歌に歌われていた頃のような風景が
都会の空には現れ、久しく見たことの無い夕焼けの景色が、
昭和三十年代の風景と重なって見えてくる。
古びれたブリキの菓子缶の中に、無造作に放り込まれ、色あせた写真が
宝物?のような思い出の景色、あの人この人の面影を映して現れてくる。
ふた月ほど続いたであろうか、懐かしき日々を顧みるような穏やかな時が過ぎ行く頃、
風がざわめき、波が立ち雲が淀んで地が揺れる。雨が激しく降り注ぎ、
急激に冷え始めて雪となった。見る間に白銀、凍てつき
あらゆるものが静まるに至った。そのときに、
雲が避けて空一面巨大な船が現れた。それはただ驚愕するものであった。

觔斗雲と呼ばれる船があった。
それは浄のあるものがのれる乗り物であった。
刹のあるところに現れ、無いところには現れることが無いものである。
是によって作られた知能ある乗り物である。
浄情のものの船、
淀みが転換を即して期となった。機となった。銀色の世界に凍え震える人々を救い上げて天空に宙返り、
適わないものが落ちていく。
業の醜さによって振るい落とされた。
やがて、船は太陽に向かって吸い込まれていった。
冬に至る日の頃であった。
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適う

2012-08-23 | Weblog
感謝して生きる。
謙虚に生きる。
質素に生きる。
単純と簡素。
こうして道理に守られる。
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まこと

2012-08-21 | Weblog
サラリーマン坊主が多い中で、そんな坊主に講釈たれてもらい、
供養のための経を唱えてもらっても、仏様
成仏できるわけが無い。俗世間の人となんら変わりなく、
酒を飲み肉を食べ妻帯をして暮らしている。
経の意味もよく理解できていないままに、意味不明ながら経を唱えている。
ありきたりの説教、善いことを口にしてはいるものの、坊主自身はどうかと問うなら、」
煩悩にこそ塗れて金勘定。四苦八苦に付きまとわれて止むことを知らない。
得度なるも、ただ人の世の坊主たるや他人に認めさす免許に過ぎず、魂の修行となってない
意味の無いものとなっている。それこそ偽善者ともいえるもののなんと多いことか。
嘆かわしい、それこそ歎異である。
まことの者は免許に非ず、他人の認めにはない。
そのようにして、人の世のものにまことは認められず、彼の世の者にまことがある。
彼の世の者のまことであるための、この世のまことにして生きるものである。
誰を師とすることも無いのは、道理に学ぶためである。
道理に学べば智慧が付き、まことが知れる。
吾を見てあなたを知るもその一つ。
この世を見て彼の世を知るもその一つ。
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譲る

2012-08-20 | Weblog
僅か百年未満の多くの人生。
その間の損得は、肉体の損得を思い、心の垢で動いている。
欲望にまみれた汚れの人生。
これは私のもの、あれは私のものと執着にして過ぎ去りし日々は、
確かにあったのかといえば、跡形もなく消えうせている。
淀み腐敗して泡たち、湧き出るガスのように、人の世というのは、
暗闇に寄り添っている。
あるとき、風が立ち大きな波が押し寄せて、淀みを一掃
蹴散らして、何事も無かったかのように静まり返る。それは、決まりきって
ただ繰り返しては過ぎ去るだけである。そこに、エネルギーの進化、
光明たる輝きを見る人は僅かなれどいるもの。
僅かな隙からもれる光ように、ひび割れから漏れる雫のように、
理に適って不思議を見るものである。
いずれ大きく闇が引き裂かれて、光があふれて淀まないように、執着を離れる。
憐れなる者の衣を脱ぎ捨てて。
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有情

2012-08-18 | Weblog
先人達は生前、
過ぎ行く時の無常さと大切さを唱えた。
時は大事である。限られた人生という時の流れを
無駄に過ごしてはならないと。
死の無い生命、心の平安のために、我は誰かと、どこから来てどこへ行くのかと
気が付いて探しあぐねる。そのための人生、是は我に道を与えし。
答えて、慈悲の慈に値しと。
非情にして情け有り。
まず一つ、感謝にして謙虚有り。無知を破る心掛け。
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本命

2012-08-17 | Weblog
私たちはどこから来てどこへ行くのか?
私たちは何者なのか?
私たちは自分をよく知らない。自分をよく知らないのに
他人を知るわけが無い。
私たちは、私たちを知らないで生きている。
生きるということは、この疑問を解くため。
それからである、あの世とこの世を考えられるのが。

私たち生命には死というものが無い。
肉体を持たないところがあの世であり、この世の景色をそのまま引き継いでいるところである。
変化の無いところであるために、この世のように
向上ということがなく、そのままである。
魂のレベルに変化をきたすことが無い。
この世で死んだそのままを引き継いで、そのままである。
だから、徳を積むことが無い。
この世に生まれたときのように、あの世となったことも知ることが無い。
ただこの世とあの世を行き来するだけである。
この世の経験があの世の現象となっている。
この世の時の生き方が、魂の変化を生むときである。
向上と低下のどちらかに、その自由をもつ。あの世にはその自由は無い。
絶対という世界であるために。
だから、涅槃寂静となれば、行き来することも無くなる。
人生とはそのためにあり、生命の本命である。
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