つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

これでよしとしている・・・

2006-04-30 | Weblog
観自在菩薩が舎利子の口を借りて般若心経を語った。
はじめに、法則を語り、次にその法則を説明した。
その説明が心経の趣旨である。

心経は正しく理解され、多くの人々が悟りを開くことができた。
信仰も無く修行にも縁の無い一般の人々が、悟りを開くことができる経典であるために、
般若心経と題し、仏教として説かれていった。

が、無を無いと判断して、説かれて以来、心経で悟りを開いた人はいない。

般若心経として正しく説かれたものを、説いていくのは、
説いていく人の判断である。判断の自由である。
判断の自由であるために、、
本当はこうであるとしたことを、どのように解釈したかによって違いが出てくる。
伝えていく人の判断によるために、様々な判断がされていく。
判断の誤りとなっても、その誤りが正しいとなっていく。
それが様々な宗派となっている。

真実は一つである。そのために、一つの道のりしかない。
その真実を明らかにし、説かれたのが般若心経である。
般若心経で説かれた「無」を「ない」、と否定の言葉であるとしているために、
真実の否定となって、すべての否定となって、実体の否定
となって、自分の否定となっている。そのために、わけの分からない人生となって
苦しみの人生となっている。
今生、成功している人生と思っていても、苦しみと共に有る。

自分という実体、真実がありながら、本当は無いものであるとして、
「我はなし」として否定する。
それを理解するために、あれやこれやと理由をつけて、あわせていく。
わけの分からないものとしながら、理解しようとして、理解してしまう。

これがわけの分からない人生としてしまい、わけの分からないまま死んでいくために、わけの分からない転生となって繰り返す。
知らないために、これでよしとしている。・・ために。




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二重否定?

2006-04-29 | Weblog
今一度言えば、
否定の否定は肯定とはならない。

否定は、変化しながら現れるものの根底にある本質的なものの否定である。
存在しないからとして否定するもので、
否定されてしまえば、存在とはならない。そのために、肯定となることはない。

存在を否定してしまったその否定を否定していくのは、
間違えて否定した存在を、否定していくことで存在が明確になり、肯定となっていく。
この間違いが認められないと、
否定の否定は、肯定となはならない。


般若心経の
「無無明、亦無無明尽」として説かれていることが、二重否定であるとしているために、わけが分からなくなってしまう。
「無」を否定の無であるとして、否定の経典であるとしているために、理解できなくなっている。

無いとして否定するのは、有るとしている存在を否定することである。
もともと無いものは無いと否定することはできない。

死後の世界、つまり「空」の世界が実体が無いのであれば、
その実体を否定することはできない。無いのではなく、
本当は実体があるとして、無いものを否定することで、実体が有るとなってくる。

「無」を「ない」ではなく「無くならない」とすることで、正しく「無」の意味が伝わる。
「無無明、亦無無明尽」は、「無明が無くならず、無明が尽きてなくなることも無い」と訳す。

「無色」は、色を否定しているのではなく、色が間違って否定されている、
その間違の否定で、「色は無くならない」としているのである。

実体を否定しているものではない。
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与えることは魅力となる。

2006-04-28 | Weblog
人は人に何かをあたえることによって魅力となる。
反対に、人に何かを求めると魅力は失せる。

快いと思うことは幸せなこと。
幸せは物ではなく、感じること。
幸せは物質ではなく感覚として存在する。

‘与える’ことは‘与えられる側’に喜びが生まれて、‘与える側’は
魅力が生まれる。

人に求めてばかりいると嫌われる。
与えていれば好かれる。そして、求めずとも幸せが与えられる。

ささやかでも、プレゼントはうれしいものだ。
‘ささやかな気持ち’これが幸せ。

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常住の中での無常

2006-04-27 | Weblog
「花の命は短くて・・・」・・・
ほんとにきれいだと思う時は短い。何でも。
華やかでいられるときは、瞬く間。

すべては移り行きとどまることは無い。
諸行無常。これが世の常。
世の常であるために、これが無くなることが無い。
常住である。

常住として無常。
無常として常住。

川には水が流れている。いつも変わらずに流れている。
でも元の水ではない。
とどまることなく変化していて、変わらない。

時間はただ進んでいくが、直線ではなく元に戻る。
時代は進歩していくが、亦元に戻る。
光もまっすぐに進むことは無い。
必ず元に戻る。そのために閉じた世界となっている。

科学は発達していくが、この世界を超えることは無い。
たとえて、超えたとしたら存在とならなくなるからである。

この世界、宇宙は有限である。その外側は存在しない。
「無い」というのは、語ることも、考えることも、想うことすらできないこと。
必要のないこと。
この世界は
常住の中の無常の世界。
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盾となる。

2006-04-26 | Weblog
 善を行う。ただそれだけ。
善を施す。ただそれだけ。
自分が大事であればあるほど善をなすこと。

おさなごが、あなたの手をしっかりにぎり、歩く姿を想像してみてください。
幼子がいなくても、そう想像するのです。
或いは、好きな人でもいい。好きな人がいなくても、そういうイメージを持つのです。
あなたを信じている人がいて、あなたを必要としているというイメージを持つのです。
あなたを必要としているその思いに、あなたはあなたをだいじにしなければならない。

ただ、
自分を大事にするということは、我が我がと、我を強くして、他を退けることではけっして無い。皆、ここのところをまちがえる。

自分を大切であれば、頼る者のために自分を盾とする。

この思いが、行為が自分の盾となる。

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2006-04-25 | Weblog
人が何をなして、何をなさなかったか、ということを見るよりも
自分が何をして、何をしなかったのか、ということを見たほうが良い。

自分のための人生である。他人の人生どうのこうの考えたところで為にはならない。

さて、「努力なくして成功なし」というのは否めないが、
努力しなくても成功できたほうがよい。
努力というのは苦しみである。よく「苦労は買ってでもしなさい」といわれるが、
苦労とか努力とかは苦しいことで、苦痛を伴う。
できたらしないほうが幸せなはず。
そこで、そのことをふまえて、
「思考は現実化する」ということを考えて見る。
「人生幸せ」といえるその喜びにいたる原因は、結果と同じでなければならない。
毎日喜んで生活していなければ、喜びに満ちたものは得られない。
「因果関係」である。つまり縁である。
縁で起きてくるものだからである。
幸せに満ちて生活しなければ、幸せに満たされたものは生まれない。
それが分かったとしても、その幸せと思うには努力して、苦労していかないとと思ってしまう。
この思いがマイナスを生む。
世の中は相反して存在している。明と暗、プラスとマイナスというように、
別の世界が交じりあって成り立っている。
プラスはプラスしかいない。明には暗はない。

苦労も努力も苦痛である。となればマイナスの世界にある。
因果は縁である。因にしたがい果がある。
成功したいと思えば思うほど、「世の中は甘くない、そうかんたんには・・・」と
否定というマイナス的イメージを持つために、成功というものにストップがかかる。
欲求が大きくなればなるほど自分自分と我だけになる。
我が強くなれば努力逆転となってしまう。
スロットル全開としながらブレーキをふんでいることになる。
そのためガクガクとなって、エンストとなる。
「思考は現実化しないではないか」となる。失望してしまう。

そこで、もういちど因果関係を考えてみる。

幸せと思える部分を見出して、その幸せと思えるうちに、願望を育んでいくとよい。
願望を育むには、施しを心がけるのである。
貧乏だから施せないと思わないこと。これはマイナスイメージ。
施しというのは何も金品だけではない。
言葉で施し、顔で施し、というように。
たとえば、お世辞を使う。「ブス」に「ブス」といったのでは、世の中うまくいかない。馬鹿正直は残酷を生む。
ブスでもいいところはある。そこをみつけほめてあげる。
快い言葉をはなすこと。
「顔で施す」は、笑顔である。「いやな顔をしないこと」は相手を快くする。

等々、施しは七つある。

ただ害がある人にまですることは、逆を生む。
八方美人となり、マイナスとなる。願望はかなえられなくなる。
ゴマスリは為にならない。

人に対して施していくことで、成功という願いはかなう。少しでも
幸せと思えるところを、喜びと思えるところを見出しながら、そんなときに行為を育てていく。

よくプラスのイメージを持つ、どんな境遇にありながらも。
そんなふうに生活していく。
思考は現実となっていく。

「華厳経」に「世の中の三つの誤った考えがある」と書いてある。
一つに、すべては運命であると言い張る。
一つに、すべては神の業であると言い張る。
一つに、すべては偶然であるとする。
この考えのどれかに陥ることによって、無明の世界に入ると。
そして「すべては縁によって起き、縁によって滅する」とこの世を説いている。

「縁」である。







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こころ

2006-04-24 | Weblog
生れおちて、まっさらな記憶のなかに、時とともに経験のエネルギーが刻まれる。
刻まれるといっても記録されていくというのではない。
エネルギーはかたちあるものではなく、蓄積していく。
エネルギーである為に消えることがないし、消すこともできない。

経験のエネルギーが蓄積されたものが記憶となる。記憶は知識となって、様々な知識を一つにまとめて識として、この識が想いとなっている。
外からの様々な刺激を五官で受けたものが、五蘊のエネルギーであり、想である。

この世が色であり、色が想となって、想がエネルギーの蓄積したもので、意識となり、心となっている。
想いは自由であるために、正しく創られていかなければ、心は正しい判断ができなくなる。

心は大きなエネルギーである。かたちあるものではない。
だから見ることはできないが、あることは知ることができる。

自分の体は重いが、機械的にもちあげて、移動しようとおもえばかなりエネルギーがいる。
でも自分が立って、歩いていこうと思えば簡単に移動できる。
かなりの重さを平気で運んでいる。これをさせているのが心のエネルギーである。

体を動かす動作を機械にやらせるには、かなり難しい技術がいる。
大きなエネルギーが必要だ。
でも心のエネルギーは簡単にできる。心は巨大なエネルギーであることがわかる。

その巨大な心のエネルギーにもとずいて、人は動く。動かされる。
心が正しく創られていかなければ、誤りの人生となっていき、苦しみの一生となってしまう。
人生、苦しいのは、
いまだ心が迷っているから・・・

その巨大な心のエネルギーは、コントロールすることによって、
あらゆる思いをかなえる。
良く善く調えていくことが要。

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最初の経験が要

2006-04-23 | Weblog
なにものにも属さず、人の知識を受け入れず、ただ自然の摂理にあわせて暮らす。
社会生活を避けて、人に会わずに、自分も自然の一部であるとして自然に暮らす。
そうして人の知識を排除していけばどうなっていくのか?
自然と共に、自然の変化の刺激を受けて、その変化に正しく対応していくことで、
正しい記憶となり、それが感情の動きとなって、意識となり、心の判断となって、行為となっていく。
この記憶というエネルギーが、脳細胞に現象して保存されていくために、体験したことが正しく保存されていくことによって、正しい判断がされて、正しく行為となっていく。
記憶が正しい判断で、正しく現象され保存されたかによって、頭の善し悪しとなる。
人の行為のエネルギーが脳みそに保存、蓄積されて、現象のエネルギーとなっていて、そのために物の判断ができ、変化に対応できる。
これが想いとなっていて、心となっている。
そのために、心は体験によって創られていく。

思いが、経験をただしいものとして善し悪しを決めている。
心が経験によって創られていくために、はじめの経験を正しいものとしていくために、最初の体験を誤ると、人生、一生の誤りとなっていく。

山伏として、難行、苦行に明け暮れる生活は、果たして悟りを開けるものだろうか。
修験者という僧は、今はあまり聞くことは無いが・・・
仏教色濃く、密教の装いをしているが、属してはいなかった。           難行苦行は肉体を痛めつけるのみで、得るものはないと釈迦は説いたのだが・・・
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慈を解けば・・・

2006-04-21 | Weblog
社会生活を排除して、知識に左右されない心としていくために、山にこもる。
知識でつくられた想いをなくして、自然の想念としていき、理の判断となるようにしていくために自然の中で暮らす。
これを識滅の修行として。

誰とも会わず、人の知識を受け入れないようにして、自然の法則を体験していく。
その体験が智慧となる。
智慧で得た判断が法則の判断となる。
法の判断となるために、迷うことが無く、考えることが無く、物事に即断できるようになる。
そのために、事故にあったとしても瞬時に避けることができるようになる。
すべての災いにあわなくなる。
これが識滅の行の結果である。
智慧の身についた判断の結果である。

識滅の修行がされない者は、けっして悟りは開かれないとしている。

どうしても社会生活をしていれば、雑念が入る。
様々なよからぬ刺激を受ける。煩悩をなくすのは難しい。
女を女として見るなといっても難しい。まして凡人にはなおさらのこと。
そのために人里はなれ山に入る。ほんとうの出家である。

ただ現代社会ではこのような出家は難しい。まずできるものではない。

だとすれば誰も悟りは開けないのか?救われないのか?
・・・と落胆する。
がしかし、そうでもない。出家しなくても、山にこもらなくても、
(僧)坊主でなくても、信仰無くても、(僧)坊主にならなくても誰でも悟りは開くことができ、苦しみから救われていくことができると説かれているのが
般若心経である。
この般若心経を誤り無く解いて、行為としていくことによって、誰でも悟りは開けるとして説かれたものである。
大衆のための唯一つの法の慈である。



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出家

2006-04-20 | Weblog
性交は輪廻を創る。
そのために、何度も何度も生まれ変わりを繰り返す。
限りなく移り変わる。この世とあの世と、この世とあの世とと、ただただ苦しみのなかを行き来する。

縁起の法則であるために、性交によって生まれとなる。苦が起きる。

「これあるに縁りてこれあり、これ生ずるに縁りてこれ生ず」
「これなきに縁りてこれなし、これ滅するに縁りてこれ滅す」

「これあるが故に」と「これないが故に」という空間的因縁と、
「これ生ずるが故に」と「これ滅するが故に」という時間的因縁の二つ。

男であれば女という空間的因縁を記憶から滅して、性交という時間的因縁をなくしていけば輪廻転生から離れられる。
女も同じこと。
共に異性を現象としないこと。
異性は迷いのもととなり、心を乱す。

この空間的因縁と時間的因縁が一つの縁となって苦は生まれる。

この苦を滅するために、一人山にこもり、自然のままに暮らし、そうして心を調えていく。
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