つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

般若の心

2013-11-30 | Weblog
般若とは、
般若の般は一般の般であり普通のという意味である。つまり、どこにでもいる普通の人のこと。
若は未定の意、若干の若で、若干名というように数を指し示す言葉である。
つまり、「一般大衆」を指し示す言葉である。だから、般若心とは一般大衆の人の心という意味である。
経というのは、縦を意味する文字で、
横文字で書かれている梵語を、縦文字で書かれる中国語の漢文に訳したものという意味でつけられている文字である。
だから、経というのは、訳されたものであるという意味である。
波羅蜜多という文字は、波のように揺れ動くという意味で波の文字を充てて、羅は、つなぎとめるという意味の維という文字に網の目を被せて、
どうしようもなくがんじがらめな状態を表し、蜜多は、蜜蜂の蜜のようにぎっしり詰まっている状態の事で、つまりは、
波の如く揺れ動いている多くの悩みという意味である。

「摩訶般若波羅蜜多心経」というのは、悩み多き人々の心をみがくうたの経(訳されたもの)という意味である。
そのために、釈迦のように卓越した能力が無くても誰でも悟れるものであり、難行苦行も必要とせず
心のあり方によって救われていくものであるために広まっていったものである。その心のあり方を説いているために心経としている。」
是を語り、そして、どんなものであるのかを説明されている。簡潔に要点だけを述べていて、そのために、心経の文字に惑わされないようにと、
心のあり方が語られている。心は心経の文字に惑わされることなく自由であるとしている。故に心経には、
くれぐれも文字の解釈を誤らないようにと、開経偈{大衆に開かれた経の偈(うた)}までつけられているものである。
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心の問題

2013-11-29 | Weblog
そもそも私たちは虚空に生きるものである。
天界に生きる六道にあるものではなく、その上という天上の世界である。
それは無に等しくありながら有という空間、由るべき何ものも無いというところである。
絶対といい自由にあるところである。
それは究極にしてあるために誰でもというのではないが、
菩提心に気づけば往けるところである。

どんなに肉体を苛めても(鍛えても)無常にあるものであるために、
空しいものである。空虚にして過ぎ去るだけで何も得ないが、
求めるところを心にして描くものである。容に残るものである。だから、
鍛えるのは心である。それもみがく(摩る)という形容である。
悩める般若の心をみがくうた(摩訶般若波羅蜜多心)に学び実践することである。すれば、
六道から脱却して虚空に生きるものとなれるのである。如実より来れる者、如来となるのである。
先ず気づけ、心の問題であると心経は訓えている。
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真昼間

2013-11-28 | Weblog
朝が来て夜が来てただ繰り返すだけ。
毎日毎日同じことを繰り返すだけ。
そうして終わることが無く続いていくだけである。
これが法則である。
円運動である。
始まりが終わりであり、終わりが始まりであるために止まることが無く、
永遠となっている。無くならないものとなっている。
この道の理を知って、
自分のしたことは自分に戻る。因果応報である。
また、どこかに行ったという事でもなく、どこへも行かなかったという事でもない。
回るための変化である。だから、なくなってしまったということでもなく、かと言って
なくならなかったということでもない。
そうして、ただただこの世とあの世を行き来するだけである。朝が来て夜が来るように。
心も体も行動もすべて回っているものである。
いつしか、吾が心を知って覚える。悟という。して変化のない中心に宿る。その道は中道の理である。
朝でもなく夜でもない。昼という。真昼間。
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吾が心を知る

2013-11-27 | Weblog
吾が心を知る。
これはこれ、あれはあれと瞬時識別して認識、
この智の恵みは道理に学んだ経験によるものであるために、
誤りのない判断となっている。
智慧の身に付いた判断は道理の判断であるために、
誤りのない判断である。

この世の中は、善い人でも悪い目に遭ったり、悪い人でも好い目に遇ったりする。
でも、善い人は悪い目に遭っても瞬時避けられていくが、悪い人は好い目に遭ってもやがて毒となっていく。

善い者には善い者が集まり、悪い者には悪い者が集まる。
綺麗なものには綺麗が集まり、穢いものには穢いものが集まるのである。
縁起である。
殊更後に顕著になる。
悟りとは、縁起の法を知ることである。
自分が愛しければ愛しいほど、悪いことはできないものである。
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できない

2013-11-26 | Weblog
当たり前の話だが
無い袖は振れないものである。

無から有は生まれない。

何もないところからは何も生じてはこない。
何か「ある」ために何か生じてくるもので、
何もないところからは何も生まれはしないのである。
これは道理である。
「何か」を語るには「ある」とするものであるために語れるものである
「ない」とするのも「ない」としての「有」であるために語れるものであると知る者は、
できることとできないことの分別ができる。
「無」とはどういうことかと問われて「できない」とする。
不能ではなくて不可能ということ。
答えられるのは「有」とするものであるために、そこからは
様々が生まれ出てくるものである。見えていないとするための無という有である。すると、
無から有が生まれたと勘違いする。
もともと「有」しているものである為の物語である。
その「有」とはエネルギーである。
エネルギーのないところは考えることのできないものである。
考えても仕様が無い。不可思議である。
無とは何と尋ねられて、「---ー」。

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受想行識

2013-11-24 | Weblog
冬に向かい凛とした季節の中、澄み渡る青空に木々の色付きを愛でるために、
行楽地に朝早く出かける。概ねみんな思うことは同じで、道は混む。
でも、そも道すがらが楽しいもので、込み具合に愚痴を言いながらでも、
取り留めもなく他愛無いことに話が弾む。
家族だったり、気の合う友達だったり、その中でも恋人、愛情関係にある同士との
連れ合いは最高だろう、気兼ねなく連れ合う、幸せなひと時である。

子供の時分は一日とて長く思うものだが、齢とともに一日の過ぎることのなんと早いものか、
熱中していたり、楽しいことには殊更驚嘆してしまうほどである。

人生は不定にして生きているもので、寿命がいつなのか、人生の卒業は年とともに迫ってくるが、
必ずしも老衰での卒業とはいかないものである。時期に非ずとしても不意に卒業してしまう。学び舎に例えれば、中退、或は退学だろう。
人生は学問である。問題ばかりなのだ。生きていくという事は問題なのである。
なのに、志半ば無知にして、咲くに及ばず散っていく身はさぞかし哀しいものである。

生命は経験、経験がものをいう。
経験によって性格が作られていくもので、だから経験はとても大事である。そのため、人生経験が少なくして子供のうちに不意に死んでしまえば、
心の現象する世界が作られないために、あの世の現象とならずすぐさま輪廻してくる。それは365日を待たずに転生してしまうのである。そして、
生命の性格によって、その旨知らねばならないところの母胎に再び宿る。
縁という因果応報である。その母胎が良いか悪いか(善い人であるか意地汚いか、健康不健康、貧乏か裕福か、過酷な環境にあるかないか等々)は、
自分の心の性によって生じてくる。浄という足りないところを補うためという感じである。
例えて、裕福な立場にあって生まれてきたが、その立場を浄く扱えたか、不法にして意地汚くもって為したかというように、その在り方に道理に沿って
浄く為されたかである。また、裕福であれば心のゆとりがあり優しくもなれるが、極貧となったときその優しさは如何なるものか?
さて、本物の愛情が知れてくるものである。窮地に劣った時、我先にと人は走るものである。驕りというものを試される。
本当に愛情が本物かと・・・。

心には時間は無い。あの世にも時間は無い。心には空間も無い。あの世にも空間は無い。
だから心が年を取るという事は無い。時間が経つという事は無いものである。あの世も同じである。

夢が心の世界を表していて、あの世もそうである。そのために、夢は様々瞬時を行き来する。
心の表れであるために、壁という隔たりを持たずどこにでも自由に行き来する。時空を持たないのである。
或は、重なっているとでも言おうか。過去とこれからという想像が入り乱れているものである。
あの世もそうである。
心の現象であるために、心が正しく作られていなければ正しい生命世界は作られてはいかない。
それは、是という浄化の法則との摩擦となってしまうために、苦しい世界となってしまう。それが地獄である。
法則に善悪は無い。だから、絶対善となっていることを悟り、それに沿って経験していくことである。
正しい経験は正しく対処できたかということである。
何もかもが自分の心が決めること、誰かが指図するというものではない。
自然(道理)はただそこにまったりとしてあるだけで、どう受けるか、受け取るのは自分次第である。
そして、どう想い、どう識別して、どう行動したかである。
この世は「受想行識」の世界である。

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是非とも

2013-11-23 | Weblog
是が非でもという言葉がある。
是が非となることは絶対無いために、それ故に絶対云々という確固たる意味合いが込められている言葉である。
是非ともというのは絶対ということである。

この世は絶対という事がなく、すべてが曖昧にしてあるもので、どうにでもなる、どうにもならないが
是非ともの自由にある。
絶対というのは不自由であるものの自由を持つ。
心は自由である。劣化風化老化がない。少しも衰弱することのないものである。
とても若々しい。子供でもなく老人でもない。脈々と息衝く青年のエネルギーである。
弱音を吐くのも意気地が無いということではなく、是に無知というための錯覚によるもので、
どうにでもなる、ならないの自由である。とかく無知によるための負を思い不自由とするためである。

この世は、心の自由を正しく作るためにあるもので、正しく作られればあの世は楽しいものである。
あの世が楽しい、それが天国である。
あの世が楽しいものであるとなれば、絶対来る死に希望が持てる。希望となれば恐怖が消える。
どこでどう死のうと地獄が作られることが無くなる。
あの世が苦しいものであるとなれば、恐怖となって暗くなる。何もかもが真っ暗で見えないもの、わからないもの、だから
不安で怖くてしょうがない。
死というものが絶対怖いものとなってしまえば、絶対死んでいく人の身には恐怖ばかり、
何をしても絶望だけとなる。地獄となる。
人は、希望が無く絶望にして生まれてくるのではない。そうであれば肉体をもって生まれてくる意義が無い。
肉体をもって活動する意味が無い。
肉体をもって活動の意義があるために生まれてくる。その意義は心の浄化、
生命の浄化、つまり生命エネルギーの浄化の為である。浄化となれば浄い世界である。
正しい世界、生命の正しい世界が作られて、それが極楽浄土なのである。

諸行無常がこの世の常である。法の常である。その常を離れてある常が法の絶対世界である。
変わらないという世界である。
それを知り、
知れば誰に教わることも無く、善悪分別がつき道理に従って生きられる。
その生き方は八つの行い、仏の訓えた八正道である。それが自ずとできていく。
六道輪廻を離れた、永遠に変わらないという極楽浄土に行きつく道である。
そのための肉体をもっての生命エネルギーの対応である。人として生まれる縁、受の世界である。この世である。

法則にはこれといって意味目的を持っているものではない。
円運動という自由である。
是非ともこの自由を正しく覚ことである。
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円運動

2013-11-22 | Weblog
法が是であるために毎日同じことを繰り返す。
毎日同じことを繰り返すことで正しいとなり絶対となる。
継続は力となっていくのである。
毎日同じことを繰り返すことに意義があるのは、法則が是であり、是が円運動であるためである。
そのために、すべての生命は円運動となり、
生じては滅し、滅しては生じと繰り返す。行為も同じである。
すべて円運動となっているものである。
だから、私たちは行って来ますと言って家を出て、ただ今戻りましたと家に帰ってくる。
無意識に行動して、円運動となっている。
意識的に行動しなければ、直線的に進むことはできない。
まっすぐにと意識しているからまっすぐに進めるのであって、
意識していなければ必ず曲がって進むものである。円を描くのである。
意識さえ円となって喜ばれる。
若い時は、とかく角を立てて生きているもので、だから生き辛く、年老いて角が取れ、ずいぶん円くなったと喜ばれるものだ。
そうして照らし合わせてみると、年老いて尚、角を立てて生きているものは子供のままで、つまり、幼稚で恥べくものであると知れてくる。
そういうものの老い方をただの老いぼれという。

法則が円運動となっているために、円くなってうまくいく。だから、円満な云々というのは最高である。
法則が円であるために、あらゆるもの円の容となっている。
原子から星から宇宙まで円となっている。
エネルギーの運動である。すべての存在のもとである。
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堂々

2013-11-21 | Weblog
是が諸々の法則である。
是を知れば、してよいこととしてはならないこととを見分けられる。
誰に指図されることなくするべきことが見えてくる。
何かに精通したものが先が見えているよう、そのために
うろたえることも無く堂々である。
不測にあっても瞬時避けられるものである。
それは、即断がつくためである。その判断はまた、誤ることが無いものである。

日が正しいと書いて是である。
日が正しいというのは、日の運行が絶対ということである。
これを知って先々が見えてくるはずである。
優れた棋士が何手先も読むように。
ただ、凡人であっても単純にして見えてくるものである。
法の慈悲である。
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時期尚早

2013-11-20 | Weblog
放射性物質を完全制御できる技術がまだない。
その段階で恩恵にだけ与ろうとしても無理がある。
無理というのは筋道がとらないということ、道理が無いということだから、
道理にないことをしていては追って知るべしということになる。
どのようにしてもその果は危ういものだ。
不測の事態に至って暴れ馬となれば、鎮める手立てがない。
暴れ馬の静まるのをただ待つだけである。
それを無理矢理鎮めるには多大な犠牲を生ずる。
扱える能力というのは、未だという時間を知って、
驕ってはならないということにある。
謙虚にしてこそ能力の高まりは早くなるが、事を急ぐあまりにその対価は悲惨を知り技術の獲得となる。
してはならない獲得方法である。

爆弾というものがある。
扱う事を間違えば悲惨であり、場が正しければ恩恵を受ける。
制御が人の心にあるために操れるものであるが、
人の心に無いものはなだめる術を持たない。
今の能力、
焦燥にしても時を待つだけである。
急がば回れという事を知っているなら、最小限にして事は鎮まる。

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