つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

危機的状況

2024-06-05 | Weblog
現政権のままズルズルいったのでは、社会は不条理にして、善いことは起こらなくなる。不正、不倫など「不」の付くことばかりが起こり、不穏な空気に包まれて、社会全体が腐敗し、すべてに「負」の国となる。一刻も早く、解散、解体していかなければ、取り返しのつかない事態になる。戦争に巻き込まれて行く破目にもなる。日本を取り巻く他国の現状を見れば知れてくるはずだが、我が国、戦後80年も過ぎる平和ボケは、あらゆる危機から国民を麻痺させてしまったようだ。
他国との繋がりは、貿易一つとっても見て取れる。食料自給率はほぼ無いに等しい。物つくりを他国に依存すれば、金などあって無いに等しい。
生きていくのに必要な事は物作りという自給。この知識、経験を今はほぼ依存という形である。米を炊く知識、経験さへ機械がしている。
さて、
人災、天災、災害は不意に起こる。電気が無ければ何もできない依存型人間となってしまった。便利は不便と裏表。「いつまでもあると思うな親と金」、
子供の頃は普通に心に刻まれていた言葉である。現若い世代、どれほど言えるだろうか?危機は、動物にして当たり前にある事である。
私達は、精神的にしても動物の域を出ない。
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哲学的視点

2024-06-05 | Weblog
天才と気違いは紙一重にしてある。思考能力が僅かにずれただけで、
まったく違った世界が現れていく。ま~、私が思うに、腐敗と発酵のようなことであると認識する。
波の調として、ある時は波形を表し、ある時は点として表す。私達の姿形は、
曖昧にある。動きを介して時を作り姿を示す。時々に於いて定まっってはいない。その時は、自らに由るとしてのエネルギー量子である。
テレビ或いはラジオのチャンネルを合わせると、合わせたチャンネルの情報世界が現れる。少しずれただけで、その世界は消える。消えたとしても無くなってしまったわけではない。だから、チャンネルを基に合わせればまた現れてくる。
その合わせる行動の自由は意識である。意識がどこに向いているかで、向いた世界が現れてくる。テレビの映像が切り替わる時は瞬時である。その瞬時を捉えることは曖昧である私達にはできない。しかし、瞬間と瞬間の間は確かにある。その間を捉えるには、マクロ的にある私達には無理であるが、量子として意識が向かえば、有理数となって現れてくる。そこに合わせる意識、心で見えてくる、捉えられるのである。
気違いと天才、発酵と腐敗の過程をどこに意識とするか、気にするか、気とするかである。それこそ自由である。自分を良くも悪くも分けるエネルギー、「気」である。因みに、私達存在のエネルギーに善悪は無い。
善悪とするのは、私達の意識の自由。存在は善悪の無い理に適うために在る。
「善は無いが悪も無い」とすれば、それは善いことではないか、とする意識の自由で、エネルギーは絶対善の動きとなって存在となっている。これが正義。
だから、私達は善として在るために生きていられる。悪であれば存在していられない、瞬時瞬時入れ替わる。そのために、私達の意識は、およそ100年周期をもって入れ替わる。意識が、自分を知らないために起こる電気的波動周期である。自分はだれかと知る意識が、エネルギーの絶対善を理解した瞬間、
永遠であると気づく。
私は死して、どこへ行ったかと言えば、どこへ行ったわけでもない。かと言って、どこへも行かないというわけでもない。

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