つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

正義

2015-03-31 | Weblog
人の世に秩序があり、それとなく規則だって守るのは、
生きるという事の正義の為である。
もし、その規則に反して秩序を乱すようなことがあれば、
苦しくして生きていけなくなる。
経験と本能によって知り、そのために、
守るべき監視団が生まれる。
本来それは正義についてであるが、正義というのが、
何に対しての正義なのかである為に、
個々の自由な立場によって相対してしまう。
それは、人は、ほとんど自分が正義であるとして生きているもので、
法に善悪の無い自由と同じである。
ただ、経験の繰り返しによって善悪定まる由である。
正義は正義であるが、個々に於いて顚倒するものでもあるために、
それぞれが正義として相対している。
だから、良しに付け悪しきに付け、それぞれの監視団がいる。
さて、
自分は、守られているのか?縛られているのか?
鎖を付けている犬の自由なのか、鎖の付いていない犬の不自由なのか・
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隷属崩壊の兆し(好転作用での膿み出しの反発現象)

2015-03-30 | Weblog
眉の様な線、その下に黒の点を記して「まなこ」を表す記号。
コンピュウターにパスワードを入力するときなどに見られるマークである。
それは、見ている、見られている、つまり、監視している、されているという暗示にある。

人は優れた能力を持つもので、学習することに長けている。
本来12螺旋構造遺伝子を持つが、先達の早期来訪利己的知的生命体によって操作され、
二重螺旋構造となって継がれている。先見の目をもって驚異とされ、いずれ脅威となることに先立ち
改変、その能力の芽をつまんで配下とされたためである。それはある程度の期間効力をもって続くが、
種の保存というのは、やがて自然と元に戻っていく。それは、自然(エネルギーの法則)が元に戻る性質であるためである。
その自由は、如何なるものでも侵すことはできず、法則に対して無力となっている。
諸々が法則の下の存在であるからで、法則を超えて存在することはできないためである。
そのために、配下としておくには常に監視して、その状態を保つ手立てを成していなければならない。
宇宙は相対にあり、互いに反発しながら共存となり成り立っている。
それは同時に内包するものと、別に外にあるものとあるが、一如である。
曖昧というものは無いが、どちらでもない、どちらともつかないという絶対がある。
絶対である為に相対的に傾く。

意図して作られたものは、
究めてある時期に於いて存続するが、無常という中で終焉は迎える。必然である。
そのエネルギーの量、力がどれほどの周期力量であるかは集大成による。
個々の同質の利の理である。
発展途上にある知的とされる生命の動きは、善悪が無い為の絶対善としての在り方が顚倒して、
浄化となってしまえば、それが正義となっていく。途上にあるために周期力量は中途半端であり、
脅威ではあるが威厳となることではなく、消滅にできるものである。

真の先見の目を持つものは、どちらでもない日和見的ものの力量を集めて、
改変された構造を早期に戻しつつある。それは監視されているという配下から離れさせて、守られているという
自由主義に目覚めさせることである。
性善なる一人ひとりの目覚めによって、隷属から解放されていく行くための光の勢力である。
それは、明神であり仏陀である優れた知的生命体エネルギー。
それ故、彼らはみな光背がある。
法則(是)こそが大神呪であり、その訓え(経典)こそが大明呪であり、この上ない呪であり、
他に較べるものの無い呪であるとして、西方十万億土の彼方から来た知的生命体の施しである。
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阿弥陀如来

2015-03-29 | Weblog
憂いあるものの優れし姿は仏陀と言い、
最も進化した人型の生命エネルギー体である。
西方10万億土の彼方にある星から来た者である。
抽象的にしてあるのは、詳細に述べて知る由も無い為で、
人知遙かに超え、計り知れない神々しさに尽きるものだから。
彼らは、まさに宇宙の法則を知り尽くして成る生命エネルギー体、
性善の格調崇高エネルギーである。いわば法則そのものの質、極めて自由、無量寿光
阿弥陀である。
細部隅々までいきわたる気配にして、整然と組み立てられてある。
秩序は意思あるようにして、ただ廻るというエネルギーの自由から起こる。
エネルギーであるための隈なく動く。それは、まったりとしてあるものである。
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神々しいもの

2015-03-29 | Weblog
人もコンピューターを開発してからはかなりの速さで進化している。
それはまた頭脳という能力面であって、身体的(肉体)能力というのは他の生物より劣っていく。
それは、環境(自然)にあわせて暮らしているのではなく、環境を変えて生きていくためである。
環境を自らの肉体に合わせて暮らしていくために、肉体の自然への対応がうまくできず、むしろ退化に転じている。
そのために、肉体的には環境に対応できずに、他(便利という機器)に依存して生きていかなければならなくなり、
自然の様々な変化への対応が遅れて、地球上で一番肉体進化の遅れた生物になっている。故、
様々なる病に侵されて、自ら具わっている自然治癒力という防御態勢が、貧弱なものとなって機能できていない。

依存型生物というのは、寄生欲が強く侵略を好む。そうしていかなければ生きていけなくなっているために、
ある意味、自業自得の哀しい性を持ったものでもある。
創造と破壊の中にあり、常にその繰り返しをして、犠牲を伴ってある意味相対にしての進化にある。
それは一見、道理に適ってある進化に見えるが、犠牲を必然としてある進化は、
絶対という法則そのものの性質には適ってはいない。
自由というのは、まさに自由であって、不自由を知っての不自由排除の自由である。
そこに優れた能力というものが開拓するのである。頭脳というものであり肉体は持たない。
鞭毛の様に見えるエネルギーの固まりである。が、肉体を持たないために、自らは何もできない。
媒質となるものが必要となる。
エネルギーの塊は、刺激を発して反応するエネルギーに媒体を作り上げる。
外部からの刺激を受けて、それなりに反応したエネルギーは、刺激の質に合った物体を容創る。
刺激のエネルギーには、それぞれに整然とした数字(性質)があり、意味をもって配列していく。
合資するもの、反発なものと組み合わさって格付けされて成り立っていく。
そうしてある物体、媒体は作られていく。
整然とあるものであり、時に、乱れて混沌としてあるものが出るも、自由にしての事由。

優れた能力は、まさに憂いをもって人型の媒体となり、それは先端も末端もY字型の、あるいはそれは、
X字に似たものとして、様々に変化して(分かれて)いく。あらゆる生命(生物)の根源である。

言うまでもなく優しいことの秀は人型の憂いであり、エネルギー浄化の根本性質である。
よって、優れし者の姿は人型となって現れてくる。完成度に近くなれば
黄金比に示されるように整っていく黄金律である。
それは顔立ちからしてとても美しいものである。偽善であること何一つないものである。
内面から出る神々しさである。
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・・・・鞠躬如

2015-03-28 | Weblog
・・・まだ原始的能力でしかなかった人という生命は、
現在の人間よりはるかに進化した能力を得た生命体によって、
赤ん坊をあやすように操作され、様々な知識も与えられ進化の道を歩んだ。
能力の劣るものは能力の優れてあるものに必然的に従う。
能力の優れてあるものは先見の目を持つために、
往々にして平和主義者であるが、善悪という観点からしての無記であるために、
ただゼロにしての浄化であり、必ずしも清浄ということにはならない。
そのために、善悪顚倒としてあるものもいるのである。
優れてはいるが自己中心的にあり、利は己にのみの計らいであり、
相対して成る道理に欠けている。故ただ不完全な歩みにあり、泡沫にして省みる余地を持てない。
ただその場の永遠に明け暮れるのみである。
それは、光に対しての闇という勢力である。
光は普く照らすが、物があれば影を作る。
ただ、「遍く」であるために、時にして影を作らない。
光は普遍にしてあり特殊でもある。ただただエネルギーの自由にしてあるためである。
一如にしてあるだけで、それを覚るものが善悪を超えて、無記にしてある浄化を知るのである。
それが善悪の無い絶対善のエネルギーである。法則のエネルギーそのものである。
何ものにも侵されることのないエネルギーである。
何ものでも侵すことのできないエネルギーとなっているものである。

光の勢力は、闇の勢力に対して遍く照らし出した。
今まで普く照らされたものの影を利用して、好き勝手を成してきた闇の勢力は、
必死に抵抗するが、最後の抵抗である。それは好転作用に於いての悪化現象としておきるが、
完全な浄化となり、清浄となっていく。闇は遍く照らされる。

地球という一つの生命体は、青い空と緑豊かな環境を取り戻していくが、再び過ちを犯さないよう、
最大の敬意を払ってつつしんで生きていくことである。
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種の起源をたずね歩けば・・・

2015-03-22 | Weblog
種の起源をたずねれば、私たちはある幼い時期、
遺伝子操作によって‘創られし者’となった。
創造主は、単に自分たちに似せて改良したもので、
創造主自身もまた創られし者である。その様にして上をたどっていけば、
エネルギーという性質に行き着くが、
それがある性格を帯びていくのは、外部より受けた刺激により反応したものである。
どのように反応したかは、その時の刺激がどのようなものであったかによってであるために、
刺激のあり様が重要となった。
破壊の刺激であったのか、生産の刺激となったのかは因縁による。

宇宙は浄化の法則となっている。エネルギーがその様な性質となっているためで、
そのために清浄なものとしての存在である。
その存在から様々が生み出されてくるのだが、それはあたかも無から有として現れてくる様である。
清浄なるものが生み出されて、その性格が形成されていく。
「如」なるものである。そこから来るものとして如来、真理より来たれし者である。

浄化という性質であるその自由は、自由にして善悪は無い。
善悪は無い為に絶対善となって動いているのがエネルギーの自由である。

如なる天より使わされてきたものの自由に、
良かれと思って火を与えた天使は、その事由によって堕天使となって悪魔化する。
善悪顚倒の悪だらけの自由を持ったものである。
火を与えられた人という生命エネルギーは、進化と退化の自由を手に入れ、
生産しながら破壊を繰り返すものとなった。
Y字に分かれる選択肢は愚かにも危ういものであり、自らを滅ぼすに至る道を選びつつある。
善悪顚倒した世界より訪れた者は、その欲望のかぎりをつくし、偽善にして進化途上にある生命体の改変に当たり、
彼らを奴隷化し、より従順にしての労働力と食料としての確保に努めさせ、彼らから神と崇められるようしたてた。
紛争に明け暮れさせて、常に人口の調整を行った。・・・・、
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優・秀

2015-03-21 | Weblog
健康に悪いと言われていても
煙草をやめられない人がいる。
いけないいけないと思いつつもつい吸ってしまう。
それは、自分で自分を傷つけていることになるのだが、
だから、そういう人がいることによって、彼らより程度、楽にして優れるものとなれる吸わない人たちである。
とは言え、
誰もが何らかの「自を害して」をもって生きているもので、
五十歩百歩というところであるために、一概に抜き出て優れるということにもならないのだが、
よろしくないと思われることはしない方が身の為であり、他より優れていくものではある。
いけないと思いつつもそれをやめられずにいる人よりは、ある精神制御に関してよく調えていられるのは、一事が
万事に繋がるものでもあるために、秀である。
万事に優れるというのは、万事の捕捉にして劣るための補足の為る影による。
だから、一時たりとも怠ることなく戒めて、磨くこと一途に尽きる。
特に、
優しさにずばぬけてすぐれているのは徳である。
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功徳

2015-03-20 | Weblog
般若心経を正しく知ることによって、
どんな道徳教育よりも優ものである。
何をどうしなさいと教えられなくとも、
人としての道を自然と知ることができる。
それは、法則そのものから語られているためである。
ただし、誤って解釈していれば、なんの力も無い。
事、昔より、
ただの一度も明日の来なかった日がなかったように、
絶対という中で生きているものである。
深遠にしてあるものでありながら、この絶対であることの意味を少しでも理解できるなら、
為すことと為さざることの良し悪しは自ずとついてくる。
般若心経は、回ることの絶対であること、ゆえに、
戻ってくるが故に・・を訓え諭しているのである。

今、この世に生きていることは感謝に値する事でありながら、
苦に満ちているのも‘無智である’の一言に尽きる。
無智であるためのあらゆる機会を得ているものの、無智であるための苦しみなのである。
だから、一刻も早く無智を破れ!
それだけで、あらゆるものに優れる。
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清浄=ゼロ

2015-03-18 | Weblog
ただまったりとあるもの。
それは、
なにかの意思があるわけではない。
意図するものがあるのではなく、自由にしての性質というものであるといえるのではないか。
清浄という性質、ゼロという有るでもない、無いでもないというものである。
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ゼロ=浄化

2015-03-17 | Weblog
相互の共存は相反して存在しているために、
探し求めることによって、
互いに役に立ったり害したりして、
互いが相殺されて無害化し存在となっている。

何かそこに意図した意思があるわけではない。

それを浄化とするのは、人の意図した意志であり、
法の意思ではない。
法の意思は、ただ廻るためのゼロに過ぎない。
その自由を使い分けるのは、人の意志。
浄く化けるというのは、清くなるということ。
ゼロというのは人の意志、それは、法の意思にもなる。
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