つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

意味の無いことなどない

2012-09-30 | Weblog
仏の顔も三度までという。
数字は、それぞれに特別な意味を持ってその数を示す。
ゼロから九までの並びで意味なくしてある数字はない。
必ずや現象に意味を与えて現れている。だから、
三世を見ることもできる。
一でも二でも四でも五でもとゼロまで、
その関係する現象は、それぞれの数字の示し方で覚る。
三度願ってかなわぬものはあきらめるというように。
再三にわたりというように、三度までは当たってみる。
それ以上の数字は無理である。
理が無いために無理としているもので、意味のないものとなる。
それでも、あきらめきれないのであれば、
時と場をちがえて、そして、大数をもってして当たる。
あきらめるとは、後に明らめるということである。
そうすれば、明らめられる。願いはかなっていく。
諦めるとは投げ出すことではない。明である。明るいという字でも書かれるように、
言葉の帝王として、最高を表している文字である。

一にも二にもそれぞれに示す意味があり、
その事は、ゼロから起こりゼロに帰す。
決して無くならないことを示している。
だから、あらゆるものが丸いかたちで治まっている。

人も、若いときは無知で、角を立てて生きている。だから、
むちゃくちゃなことばかりで、若気の至りである。が、得るところが無いようにして、
年をとればとるほど角が取れ、丸くなることを覚える。
よい年の取り方である。
頭が白髪になっても、角つきたてて老いる人は、ただの老いぼれといい、誰からも疎まれる。

「無智亦無得以無所得」である。「智慧は無くなることがなく、また、それで得たことも
無くなることがない。」
長い人生経験で得た善し悪しを正しく判断して、世の中が円いことを悟。
角の取れた人を人は慕う。

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それぞれというかたまり

2012-09-27 | Weblog
人、十人いれば○も□となって、
終いにゃ△となって伝わってしまう。
十人十色とはいうものの、言語があれど確かに伝わるのは難しい。
土地柄が違えば受ける思いも違う。
環境というのは多大な影響を与える。
同じことを見聞きしても、それぞれに受け方が異なり、
それぞれに思う。
言葉という意思疎通の術があれど難しい。

貧困にありながら優れる人。
貧困にありながらぐれる人。
裕福でありながらバカな人。
裕福でありながらバカになれる人。

他の
所為にしてしまう人、お陰様となればいいのだが、
あなたのせいとしてしまい、すべてから見放される。
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吾亦紅の花

2012-09-23 | Weblog
よく寝る子は育つというが、
寝る子は赤ん坊のときである。
赤ん坊というのはまさに何も知らない者、無知な者である。
無知な者はよく寝て育つが、それは、身であり脳ではない。
然るに、馬鹿はよく寝てよく肥える。
仏が言うには、人生夜のうちの三分の一は目覚めてあれと言う。
それは、
人生を夜にたとえて、
夜は闇であるために、暗くてなにもかも見えない。わからない。
依って、無知を表して、その無知なる人生を三つに分けて、
幼少年期、青年期、壮老年期の一つにでも、知覚してあれ、
精進努力しなさいという。自ら灯りをともしなさいという。
無知である人生を破り、灯りのある人生として目覚めていなさいという。
寝てばかりいては事は進まない。瞼閉じれば闇が広がる。
その道理にして、青少年期にはよく動き、∴よく働いて、よく学べば、七転びしても八起きする。
若いうちに苦労をしておけば、壮老年期になれば功を奏するものだ。
それが逆になれば、動ける時の青少年期に動かず寝てばかり、動けなくなってくる壮老年期に、否応なく
動かなければならなくなる。それは実につらいものとなって身に障る。

水は下から上に流れず、その単純な道理を見て知っていても、なかなか覚えない。
日々の暮らしの便利さが、増せば増すほど人は衰えて、他に依存する。
依存すればするほど自由が利かなく、周りに振り回されていく。
周りに自分の命が握られる。
好き勝手してきた人生は、終には好き勝手にいかず、苦しんで一つの人生を終える。
苦しんで終えた人生は、亦苦しみの世に繋がっている。

種が芽をだし勢いよく、すぐさま花が咲き華やいで、やがて萎れて朽ち果てる。
人生もまたこの道理にある。
さて、綺麗に咲いても香らない花もあり、香り豊かな花もある。
綺麗でも毒があり、棘のある花もある。
世の中というのは、惑わされて生きる。
たしかな目を持ち、うまい話はないものだと自分の邪念を払って、迷いから離れる。
ただ、生まれてきたことを徳として、
「われもまたくれないなりとひそやかに」と、吾亦紅の花のように、控えめに、しかし、ここにいるよと生きられたらいいものだと
急に涼しくなった秋の日に思う。
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願解如来真実義である

2012-09-22 | Weblog
般若心経に出てくる人物は、
観自在菩薩と舎利子である。
なぜ舎利子が登場しているのかといえば、菩薩に呼びかけられているための名ではない。
一般に、「舎利子よ」と呼びかけられているように訳されているが、そうではない。
心経は、舎利子の口から語られているための舎利子としているものである。
心経は啓示である。啓示であるためにこの世からのメッセージではない。
以前、この世にいた人の死後の世界からのメッセージである。
そのために、死というものがあいまいである人には理解苦しむものとなっている。
心経は、
釈迦の説いた修行法を行じた観自在菩薩と呼ばれた人の死後の世界からの語りである。
どんなに修行を積んでも、決して知ることのできなかった死後の世界が、
縁あって、死後の世界とはこのような世界であると説き聞かせているのが心経である。
縁というのは、観自在菩薩が行っていた釈迦の修行法を、智慧第一といわれた舎利子がおなじく行じていたためである。
その縁あって、観自在菩薩は舎利子の意識の中に現れ、心経を説いているものである。
よって、舎利子の口は、観自在菩薩の意識をそのまま伝えているものである。そのための、舎利子としての登場人物となっている。
「舎利子は語った」が正しい訳となる。
この語った部分からが自在菩薩の啓示となり、法則とはどんなものかを語り、次の「舎利子」から法則の説明に入っている。
その説明は「・・無苦集滅道 無智亦無得 以無所得」で終わっている。ここまでが観自在菩薩の啓示である。その後の文章は
啓示で語られているのではない。どの様な心持であればよいかを訓えている。そして、真実嘘のないものであり、
この上の無い呪であり、一切の苦を除くものであったために、悩める一般大衆も修行僧たちも歓喜の声を上げて絶賛したことを伝えているものである。
「羯諦羯諦」いうのは、「いこういこう」と言うふうに訳される文字ではない。真言でもない。
人々の歓喜の声である。

啓示と言うのはあの世からのメッセージである。そのため、死後の世界を理解できない人には、
なんとも理解不能な語りとなってしまう。
理解できないのは、死が人の経験とならないためである。
経験とならないことは、知識とならないためである。
知識とならないことを知識で判断しようとするために、誤ってしまう。
智の恵みによって理解されていくものである。

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エゴイズム

2012-09-20 | Weblog
現代において

執着激しく、これは私のもの、あれは私のものと互いに譲ることなく張り合う。
いまだ世界のどこかで争いは絶えず、
殺戮が行われている。
教育がいきわたる国においても、道徳は御座なり、なおざりにされて
いじめこそいきわたる。
あぁ人間、人間なさけない。
情けない人間のことだもの、よくなるはずも無く
淘汰の道をひた走る。
20xx年地上の人、くまなく廃れる。
釈迦においても、キリストにおいても、人の世滅びると予められる。
これは法の予言でもあり、ゆえに、
避けられない予言である。
絶対避けられない時間線上に私たちはいる。
人の悪のエネルギーゆえの結末である、と。
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滅亡のシナリオ

2012-09-19 | Weblog
異常な〇〇という事が多い
異常な〇〇という事が続く先は崩壊
崩壊の後、新たな事が起こり正常となって治まる
偏りが激しくなってくれば乱れて
潰れてしまうのは至極当然

世の中に人あふれ出して、
好き勝手を行う。
そのエネルギーは悪魔
悪のエネルギーいちじるしく、
治まること知らずして
そのために、法との摩擦となって
その熱際立って沸騰

いま、そこにたっている。

無知という恥のために
掻いて終わる。
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知識の誤り

2012-09-17 | Weblog
人は死んで即あの世となる。
あの世は、この世の記憶の現象となっているために、
この世の何もかもがそのまま存在となっている。
法によって、生命には死がないために、自分が死んだということが理解できない。
死後の世界が死後の世界であることに気づくことが無い。それは、自分というものが存在しているからである。
死はすべて他人の死となって認識される。
記憶が現象されていくために、この世に思いが残ることも無い。
記憶の世界があの世となる。
記憶が現象し尽くされて、あの世もまたこの世となっていく。縁によって母胎に宿る。

記憶が正しい記憶であるなら、死後の世界は地獄とはならない。
苦しい苦しいと死んでいくものに、あの世もまたそのまま苦しい世界である。
誰でもいつかは現肉体を離れなければならない。それは法によるものであるために絶対である。
肉体に宿した生命は、その肉体を使い死の無い生命のために活動していく。
その活動が間違った活動となっていれば、いつもいつまでも間違った世界を行き来することになる。
法に沿い、その活動が正しい浄化の活動であったならば、動きの静まった安住の地、涅槃寂静となる。
輪廻することが無くなる。

自分は自分を知らない。ゆえに、法を知り自分を知るために命として生きる。
法を覚れば自分が分かり、何をなすべきかが知れてくる。
誰を師とすることもなく、法にそって正しく命を運んでいけるものとなる。
何もかも知らなかったために誤ってきた行いは、宿命となりその縁を引きずって生きていく。
その中で、命をどう運んで行ったかで宿命は変わっていく。運命は変わる。

法を知ることである。是という文字を見ても分かるように、日が正しいと書いているではないか。
日が正しいというのは、太陽のめぐりが正しい、絶対であるということを示している。
寸分違わず東から上り西に沈んでいく太陽の運行が法であり、すべてを示す絶対なものであることを
教えている。それが円運動の法則である。円であるために、切れ目が無く永遠であることを示している。
よって、変わらず日はまた昇る、である。
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大衆に開かれたうた

2012-09-16 | Weblog
無上甚深微妙法
百千万劫難遭遇
我今見聞得受持
願解如来真実義

この上の無く奥深く繊細にして優れた法は
永遠に巡り会うことは難しい(無い)
今、我啓示され聞き受け持った
どうか如来の真実のいみをよく解さんことを願うものである
心経の序文である。
心経の文字に惑わされないようにとつけられている。
それほど懸念しているのである。

心経の文字一つを誤って解釈すると、すべてが誤ってしまい、
理解不能なものとなってしまう。
意味不明となり、仏の優れた能力による言葉であるために、
人にはわからないとなって真言であるとしてしまう。
真言と言うのは、人が理解できないために真言としているだけで、
真言などというのはない。
意味の伝わらないことを仏は説くことはしない。
理解できないのは文字による人の知識であるために、
智慧が働かないためである。
法を理解すれば、法によって正しく解されていく。
難解なものでないために、広く大衆に伝わっていき、功徳となっていったものであるために、
大衆(般若)の心をみがくうたとして際立って伝わった。
是と言う文字が法であることを理解すれば、心経は正しく訳されていく。
心経の文字にさまたげられることなく、心の自由によって正しく訳されていく。
無が「ない」ではなく、「無くならない」と訳されていく。
空もまた「むなしい」と訳すものではない。
空とは、「空白の時間」つまりあの世のことである。
輪廻との間である。生まれ変わるまでの間過ごす間、界である。
どんなに知ろうとしても知ることができないために、生命の空白の時間であるとして、
死後の世界を「空」と説いたものである。
「色不異空 空不異色、色即是空 空即是色」=輪廻の法則であるということが知れてくる。
「この世とあの世は少しも変わることがなく、あの世もこの世と少しも変わらない。
この世は法によって即あの世となり、あの世も法によって即この世となる。」
このように終わることがなく続いていくこと、無くならないことを説いている。
宇宙が法によって創られ、生命もまた同じであるからである。
その法が無くなることがないから、すべてが無くならないものであると説き訓えている。
法が是であり、円運動となっているために絶対となり正しいとなっていく。
そのため、行いが縁となり、縁起の法となっていく。
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無を読む

2012-09-15 | Weblog
般若心経に説く無という文字は、有ということの否定ではない。
無が多く使われ、そのために、否定の経典とされているが、無は否定のために当てられている文字ではない。
寧ろ、有の肯定のための文字である。
私たちは幻でもなく実体のある存在である。
もともとは無であり、無から生じたものであるために、
空虚であり、空虚であるものに執着するために苦しむものであるから、
執着をしないことであるとされて訳されているが、実際に存在として時を生きている。
実体のある実態である。
道理に、無から有は生じないものである。

牛乳のあるところにヨーグルトがあり、条件がそろって有となる。
もともとそこに有するものがあるための存在である。

時に流されて変化をきたすものであるが、その変化は進化である。
そのために無常であり、無常が常住となっている。

変化のあるところには時が流れ、変化の無いところには時の流れは無い。
無常と常住、無常の中にあって常住を知り、常住の如何を自由として作るための無常を生きるものである。
苦からのみ喜びが知れるように、悪があって善が分かるように、無常にして常住を知るものである。
時の流れが無情にして有情を知り、有情にして変化の無い常住を命とするものである。
時もまた自由にして目的のあるものではない。
ただ過ぎ去るものである。
人もまた自由にして変化に対応しているものである。
常住が法であるために、常住を命として人の自由である。目的である。

釈迦はそれを達成した人であり、実在の人物であったために、
誰でも釈迦のようになれることを証明している。
変化の無い、つまり永遠の世界に安住している。
人としての縁を絶ちきり、輪廻から離れたために、二度と現れることは無い。
啓示となることも無い。縁起の法が正しかったことを証明している。
そのために、教え諭すのは菩薩である。
菩薩はまた仏陀となりえる仏である。以前、皆人であった実在した人物たちである。
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正しく訳す

2012-09-14 | Weblog
般若心経は、
観自在菩薩と呼ばれた仏様が語っているもので、
お釈迦様が語っているのではない。
また、観自在菩薩が舎利子という修行僧に語りかけているのでもない。
よって、「舎利子よ」と呼びかけているための名ではない。
観自在菩薩は仏様である。あの世、つまり、死後の世界から語りかけている。
もうこの世での肉体は無いために、舎利子の肉体を借りて語っている。
そのため、実際の語りは舎利子で、意識は観自在菩薩である。
舎利子の名が出ているのは、舎利子は語ったとしているための名である。
そこのところから正しく読み解かなければ、心経の説くところの文字に惑わされてしまい、
本当のところの義を間違えてしまう。
すれば、なんの効力も無いものとなってしまう。
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