つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

学習能力

2018-08-25 | Weblog
これからもっと多くの自然災害は起こる。
「人の悪のエネルギーが満ちてきているから」、が原因。
自然に還れ、ということは、自然と共存して生きるということ。
人間のことだけを考えて何事も開発していったのでは、害となることを
訓えられてきたのではないだろうか。人の歴史を振り返ってみて、
教訓を謙虚に感受することである。謙虚にである。

人は、学習能力があることが唯一の救いとなる美点である。
傲慢はその美点を覆う。心して戒めなければならない。
100%戒めて希望が湧き上がってくる。人の心に希望を生むのは、
ただ他を思いやってのことである。
自然の道理、節理というのは正しい意識である。
それは秩序ということ。
エネルギーの自由の正義である。この正義を絶対としているのが涅槃、
極楽浄土なる世界。この対とした世界、苦を正義とした界、地獄である。
無秩序な場である。だから、
けっして誤った正義としないことである。
自然は慈悲を持たない。哀れみなど関係ないのである。
ただ道理に沿った慈と悲を現すだけで、それは、各々の自由から生じるのである。

天候が不順になるのは故に、人の悪のエネルギーが高じてきているからで、
一見関係ないように見えているが、そのことに気が付いて、早速改めなければ、
多くの痛みは伴うものである。地上は運命共同体である。
地球に住むもの、智者も偶者も自然には逆らえない。
智者は、その能力故、地上を離れられるが、偶者は無理にある。
地上人口はすでに73億を超えてきている。80億の魂と智者は訓えている。
肉体を持った魂の数が宇宙を彷徨う数である。
地上の変化は、一旦という無常の道理に合わさって、人の悪なるエネルギーによって
引き起こされる。
因みに、
魂は、肉体を持ってしか変化はできないものである。
哀れにもその多くの魂は、輪廻を享受するが、一切苦であるために、
苦の中からしか生じない楽を得る機会と希望して、一縷の望みとする。

私は、バカ者であると知る人の心は、これから何をしていくだろうか?。
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思議の不を覚る

2018-08-21 | Weblog
人間、歳には勝てないものだ。
それは、道理には勝てないということでもある。
どんなに進化しても、道理を超えることは無い。
なぜなら、存在というのは道理故のことだからである。
この道理が無かったら当然存在ということも無いのである。
すべては道理の下の存在である。
道理は、無常という常住であるから、常に変化しての存在ということになる。
ここのところを理解できなくては、矛盾ということを超えることはできない。
何故人は生まれてくるのか?そして、死んでいくのかということを問い続けることになる。
そして、それに答えを見出すことはできない。
死ぬために生まれるということを理解することはできない。

道理は、常住のなかにあり、無常という存在を常としてある。
人間は、道理によって作られ、故に、それを理解することができる時間という流れに漂う。
淀みに浮かぶ泡沫とするも、淀みない流れとするもただ自由である。
この地球に住んで、眠ることができるのは同化ということを
理解できて、無常という常住を覚る。
斯くも、
真円というのは、
動にして静を不思議とする。


年老いて、道徳を得る。
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成仏

2018-08-12 | Weblog
夏、お盆休みで日本人、多くの人が帰省して懐かしい人に会う。
毎年のことながら、風情がある光景を都会にしても田舎にしても味わう。
日本人、風流という言葉に癒される。

現世にいるからこそ、あの世の不思議さに謙虚に触れ合う。
死が人の経験とならないために、仏様、あの世は、どうですか?
仏となるのだから、天国だよ。

お盆が過ぎるとすぐ彼岸。


時は、瞬く間に過ぎてゆく。
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故・縁

2018-08-11 | Weblog
人はなぜ生まれ何故死んでいくのか?生死があるのはどうしてなのか?
と、人生に思う時がある。そんなことを思わなく人生を過ごす人もいるだろう。
人の一生は、花にも譬えられるように短いものであるし、実に同じような形態を為している。
だから、花々を見て、それぞれ人の一生を知る、とすることができる。
生き活きと萌えたぎり、華やいで?いつしか哀れ?にも散っていく様を見る。
どんなに美しく華やいでも香ることも無く、また、麗しくあって香り、親しまれるほど
その最後は多くの悲哀に包まれる。それを、幸不幸とはかるのは実に無知なる故の心である。
栄枯盛衰はこの世の道理である。
すべてにおいて等しくある。ただ見た目で、勘違いして受ける差異によって、
喜怒哀楽を恨めしく思うのが浅はかなる人の心。

なぜ?そのような違いを受けるのかが「自由」であるためである。
エネルギーの根本、その性質がその自由から成っているためである。
『自由がエネルギーである』と理解できるなら、矛盾というものは無くなっていく。
この宇宙は自由エネルギーから成っているために、自由エネルギーを知ることによって、
理解できていくが、理解できるもできないもまた自由にあるために、自分という生命エネルギーの勝手(自由)である。
自由エネルギーには善悪は無い。だから、絶対善として動いていることを理解できるなら、
あなた(自分)という生命エネルギーは、苦楽の様を理解する。
生命に天、修羅、人間、畜生、餓鬼、地獄という界があるように、エネルギーの質、性によって
動き(流れ)の程度となっていて、摩擦なく流れることによってエネルギーはより多く輝き、高速になり、
その流れていることすらわからないほどになる。それが、エネルギーの本来の姿、幸福なるエネルギーである。
何のわだかまりもなく動いている自由がイコール、幸福と感受する。
エネルギーは意思でもある。動くことによって受ける変化、その刺激に対応して、
正しくエネルギーの本来の持つ自由意思に応対できているなら、生命エネルギーは幸福を感受する。
各界での正しい応対は、エネルギーの質を高め、性格として向上、格が上がっていく。
常に常に各立場(誕生)に於いての変化の刺激に対して、正しい対応がなされることが生命エネルギーの
生き様、つまり、目的であり課題であり試練である。一生である。
何も感受せず、したところで行動しなければ、その界をただ輪廻する。
輪廻は苦である。この世は一切皆苦である。
だから、輪廻から脱することが生命エネルギーの目的である。
そのために、生命は生死を繰り返す。

畜生界に生まれても、犬にして人間の為になって生きる犬もいる。
来世は人間になれるだろう。人のような行為をして生きたのだから・。


答えは、早くこの道理を覚れ!である。悟れば正しい行動(手立て)が見えてくるからである。
正しい方便となれば、輪廻は無くなる。何故生きて何故死ぬ!は、エネルギーの道理を知らないために、
その方便、正しく行動できないためであるといえる。方法がわかれば、行動していけばよいだけである。
簡単だが、何せ煩悩多き身なれば、難しい。でも、道理を知れば自分の魂のためだとわかり、努力ができるだろう。

正しい手立て、その努力さえわかる。八正道である。難しくは無いが、難しいことであるとするのが世の常である。
これが人の哀しいところである。知ってはいても難しいのは、欲のある世間に生きる身で、
戒めて生きることが、なんとも難しいとする人の心だから。
自然は、善の神は、こんなにもわかりやすく訓え示しているのに、疑って
善いことをしないために、恐れるんだよ、なにもかもに・・・。特に死んでいく様に!
死は絶対訪れるのだから。その生き様に!
誰一人として道理に逆らうことはできない。だから、道理を知りなさい。
何をして何をなさないで生きていけばよいかが、自然とわかってくるはずだから。
誰かが教えてくれなくても、道理が示してくれるのだから。

それが、道理に守られるということである。

天に生まれしものは、そのエネルギーの性質上、すでに優れているために、無知が少なく、
ゆえに、それより下にあるエネルギーは、優れている生命エネルギーを神と呼び崇め奉る。
崇め奉るのは良いとしても、必ずしも、崇め奉る神が善とは限らない。
ただ単に、生きてきた過程において技術面で優れていただけということもある。
誕生の遅い早いの時の差に於いてと、エネルギーの性格である。
ほぼ正しい道理の過程においては、正しく進化を為すのだが、何分にも自由が
エネルギーの根本性質であるために、その自由に於いて、どのように進化をしていくかは意思の自由。
自由をどう解釈していったかで、エネルギーの格の違いとなっていく。
だから、天にある生命、神々にも善悪がに生じる。

人間として生じた生命エネルギーは、神々の力には及ばない。
為されるままの段階にある。
人が何かを開発培養していくにも、研究がされ時間を要するように、天の神にもそれは同じである。
ただ、時間の長さにそれぞれ違いはあるために、このような社会形成となっているが、
人類が神々の研究段階にあり、すでに、その未来は彼らは知っているであろうが、
方便は、自由を尊重して人類に任されている。
道理を善く察知し、エネルギーの格の向上に目を向け勤しむものは、
自然に界の向上へと選り分けられる。善なる神は自然を通して諭す。
悪なる神、サタンは、常に甘く囁く。道理をうまく操って囁く。
口チョコレート、釣った魚に餌やらずで、甘い言葉と暗い道はご承知の通り。
善に勤しむものは、つらく生き難いものであると、
悪に勤しむものは、楽で生き易いものであると世の道理を仏は言う。

自由はすべての根本である。
自由を束縛するものは、必ず不自由となる。
辻褄である。
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時の旅人

2018-08-09 | Weblog
必ず地球に明日はやってくる。
自分がいるいないにかかわらず、地球に必ず明日はやってくる。
過去、地球に明日が来なかった日がなかったように、絶対明日はやってくる。
だから、人にも明日はやってくる。生命の現象として、それぞれの明日が。
たとえ私が今日死んだとしても、明日という日を何時ものように見るだろう。
なぜなら、生命エネルギーに死は無いために。
ただ、時の置き去りの旅人としての朝日を見る。
私は、死の概念を人の日常の中に持ちながら、幾年月も旅人のまま、
その時々の明日を迎える。
死の概念が法則の概念となった時、時を超えて安住の朝日を見る。
その時、旅を終える。

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象・知、小智

2018-08-07 | Weblog
生きとし生けるもの、それは地上にあるすべての物体である。
知覚や精神が無い物とされているが、存在というのはエネルギーそのものであるために、
[粋]がある。その精粋は自由にして善悪は無いために、絶対善となり、あらゆるものの浄化となっている。
つまり、すべてがゼロになるという有で構成されている。その動きが円運動の自由である。
存在が自由の円運動からなって、それが意思としてのエネルギーである。
おそらく理解されるには時間がいるだろうが、エネルギーが自由であり、円運動である自由を
承知できるならば、そう難解ではない。ある意味単純であることに気づく。
エネルギーが自由であり、自由がエネルギーであり、以って運動であり円となり・、縁となり、
それが意思であることのエネルギーである。ゆえに、秩序が正義である。
だから、計算で証明されていくことができるが、無くなることのない運動となっているために、
辿り着いてはいても辿り着くことに至ることは無い。それがシューニャ、空ろで膨らんでいるもの、
エネルギーの姿形である。姿形は虚空である。特異点である。
エネルギーの外側は不可思議である。そのために、
私達には関係のない物事、事物である。
関係のないことは、どんなに考え思ってみても意味をなさない。それを考える思うことを無駄という。
考えてもしようがないことは考えないことであると道理は訓えている。

エネルギーが意思であるために、宇宙は意思を持っていて、
それぞれの存在の立場によっての思惑で動いている。
それぞれの立場というのは、円運動に由るための変化の刺激に反応して対応している。
その応対によって場面は変化していく、良くも悪くもなる。
宇宙の意思エネルギーは善であるために、正しい経験と正しい応対により、
エネルギーの楽が現れる。間違った経験となっても修正がなされれば、正しい経験となり楽が現れる。
間違った経験に間違った対応は苦のみである。いつまでも苦を輪廻する。

生命が
エネルギーから生じているために、それぞれに意思を持ち、その存在を知ろうとする。
私たちが生まれてきたときに、どこから来てどこへ行くのか知らないように、
そして、それを知ろうと探し回るように、それが人生となっているように、
宇宙エネルギーそのものがそのような意思で存在している。
回る変化に対応して姿形は無常となって、常住である永遠なるエネルギーの本質、
その自由が絶対善であることを理解できれば、輪廻することも無く、
永遠の楽に常住することができる目的として、生命は誕生試練している。
この宇宙も同じである。



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悟性

2018-08-02 | Weblog
地に唾を吐いても自然は黙したままである。
天に唾を吐けば吐いたものにそのまま返ってくる。

天地は一緒である。

何をされてもされっぱなし、黙したままである。
仕返しということはない。
黙したままである。
さて、
運がいいとか悪いとか、人によってあるけれど、
円は縁、そういうことは確かにあると吾が心の無知から覚。
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害その身に至る

2018-08-01 | Weblog
嘘と騙しの世の中には善いことは起こらない。
特にここ数年の報道を見ても、主たる指導の立場にあるものが、
畜生にも劣る行為を平気で為してきた。
企業においても、名高いところが不正を為してきた。
データー改ざんやら、パワハラ、セクハラ、等々、
各公務に就く者をはじめ、各スポーツ界、神社仏閣に於いてまで、
この先進国である日本国の社会全体が不正、不正、不正がまかり通り、
毎日のように、いじめやら陰鬱な事件が多発。表面上は正義を装い、
裏側ではあくどいことを為している。口ではいいことを言うが、
嘘八百の世の中、思い詰める者は気が動転して、自殺をしていく有様。
線路は、毎日のように悲惨さを伝えて、報道はそれを手短に伝える。
人々は耳に慣れて、汚いことに疎くなって、日常的事柄に過ぎていく。
他人事のように・・・。
おりしも、自然災害は、これまでに経験したことも無いという猛威を振るい、
社会を混乱させる。
何故だろう?まるで、世の中の淀みを洗い流そうとするかのように、
人間というものに、運命共同体として襲い掛かる。

民衆為す術もなく、ただ自然に任せて、報いを受くものである。

人間に意思があるように、自然も意思を持っている。
むしろ、自然が人間を産物しているのだから、
意思があって当然である。

自然は善が正義である。その質に沿わなければ、
当然、害その身に至る。


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