つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

人理

2018-12-30 | Weblog
日本は経済豊かにして、方や貧困層が増えている。
ゴミの中から食べ物を探して飢えをしのぐ人がいれば、
まだ食べられるのに捨ててしまう人もいる。

大晦日、正月と気ぜわしくはしゃぐ人達、
いつになくうつむく人。

人、誰でもひっそりと息引き取るもの。
例外は無い。
そこに目を注がずして、浮かれて後の祭り。

独り、誰かを介して独りあるも、独りひとり去る。
誰を介さずして去る。ひとり人理。
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敢えて裁くと裁かれる

2018-12-29 | Weblog
日本の人口は減少しているが、世界的には70億を超えて過密状態。

お金持ちの家を見ると、夫婦だけ、或いは子供一人くらいで大きなおうちに住んでいる。
裕福な家庭ほど少人数で暮らしているように見える。
国を見てもどうだろう?
貧乏人の子沢山と言われるように、貧乏ほど大人数なのである。

新世界秩序には、世界人口5億人が適当とあり、それに向かっての秩序作りがなされている。
お金持ちには貧乏は疎ましい。

自然は、周期をもっての変化にある。増減は一時の現われで、
増えも減りもしない。

波は移りゆくもので等しくある。
苦があれば楽があるというように、偏りなく受けるもの現れるものである。

自然に対して、人間が工作すると、工作するものが弾かれる。
ただそれで、自然の秩序が保たれる。
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まばゆくて見難い

2018-12-28 | Weblog
知的能力の進化は、擬態をもって探索活動をする。
知の優れとは陰にして粛粛である。
ひなたにあれば真実に脆く犠を招く。
陰に陽に力を誇るには、陰に諮らねばならない。
すれば、善の正義は洋洋である。
この頃、時期尚早は陰を潜めて、俄かに真実が正面を向く。
眠れるものの眼が覚める。
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未知との遭遇

2018-12-27 | Weblog
未知との遭遇はそろそろ現実になる。
受け入れることのできないものはどこにでもいるが、
寛大を理解するものは、準備があるために恐怖とならない。

心は虚空である。自分次第で現象の良し悪しに別れる。
分別には時間を要するが、もし、よるべきなにものもない空間とするなら、
瞬時を得る。人間もようやく量子を知る人は知る。
思考は右にして左目に映る。それは、どうにでもなる自分の未来だから、
寛大であることで思い道理。観音力の心得である。

善は、善悪のないためと理解したなら、
間違いなく未知との遭遇は、光の使者たちである。

天は、助けるものを助けると訓えている。

貧しきものは幸いである。子供のように!
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地球の青さは涙色

2018-12-25 | Weblog
金持になればなるほど意地汚くなり、
表面ばかりを飾る。
それはキラキラと煌めくのではなく、くどくぎらつき厭らしい。

社会は、助け合いを熱く語るが、格差は広がるばかり。
同じ人間でありながら貧富の差は大きくなるばかり。

この差はこれからますます激しくなるだろう。

愛を失くした人間は、奪いあい傷つけあうだろう。

戦争とはそういうことである。

愛憎入り乱れて、人間社会は哀しい。

クリスマスだと浮かれている人の傍らに、静かに息絶える人がいる。



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かち(価値/勝ち)ある人生

2018-12-23 | Weblog
年老いてきて、涙もろくなるのは良く年老いていること。
若い時は角が立って生きているのが普通で、何かとぶつかり合うものです。
それが年と共に円くなって、穏やかになるのは相応。そして、
我が身をつねって他人の痛さを知れるなら、人生はかち(価値/勝ち)あるものです。
ほんの少し昔は、人生僅か五十年と言われていた。だから、
還暦を過ぎても生きていられる人生は有難いことだ。七十になれば古稀の祝いをするのは、
古来稀なりで、そう長く生きられることではなかったためだから、有り難い有り難いとしてのこと。
ただ、長生きは、
健康で自分のことは自分でできての老いは望ましいが、昨今は長生きばかりにとらわれて、
寝たきり状態、或いは、痴呆、或いは、あそこ痛いここ痛いで病院通い、なにがめでたい
と思うものである。運命とは過酷である。みんな安楽に死にたいと思えども、なかなかそうはいかの金玉である。
思いと裏腹は、やはり自業自得、自分の生きざまの果。だから、
人を思いやられる優しい胸の内に、涙もろくして安楽はやってくる。
優しくなることに気が付くことである。老いてこそ優れる人になれ。


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自然に心にそう感じられる様子

2018-12-22 | Weblog
現在という時間は新旧交代の狭間にある。
いろいろな悪事が重なり合って起こるのは、
一つに好転作用にある膿み出しの状況。
悪事は焦りだして綿密さを失い、事の成り行きを把握していながら、制御不能に陥っている。
神々にも未来は不定である。
予定は確定には至らないものである為に希望がある。
善悪は表裏一体にして正義である。自分を有として捉えて、応変に据えるべき心で
臨機の対応となる。ある時は個の動に、ある時は衆の静にと日和見であることは、
ただ自然の流れに任せる。自然は善悪のない正義である。
これを覚っての正義は量子の振る舞い。思い通りの確定を知る。頑冥には解らない。

気は正面だけである。入り口も出口も一つのもので、自分の次第で共に入り口である。
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冥冥の裡

2018-12-20 | Weblog
人間には第六感というものがある。
これを冥冥として侮ってはならない。もし悪魔な想像にあるなら、
矢を放ち打ち破らなければならない。
この世の中に絶対は無いために、無くならないものは無いとして応変に想うことである。
そうすれば冥冥の裡に光が差す。
何事も悲観してはならない。
臨機応変は都合の善さである。正義にだけ働く。
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必然

2018-12-16 | Weblog
必ず返ってくる。
このことがエネルギーの道理であると知る人は、
悪いことはしないしできないものである。
でも、このエネルギーの道理を知らない人は、平気で悪いことをする。
エネルギーの道理は縁起の法則でもある。
それは、エネルギーが円運動の絶対となっているために、自分のしたこと(業)は、
いつか必ず自分という魂、生命のところに戻ってくる。
それはすぐかもしれないし明日かもしれないし一年後かもしれない。いやいや、十年後の自分にかもしれないし、
はたまた死後の世界にかもしれない。いや、来世いやいや来来世に報いるのかもしれない。
とにかく必ず自分の魂、生命に帰ってくるまで業はきえない。
円運動は必然縁運動となっている。道理なのである。道理は絶対である。誤りは無い。
一日が終わってまた新たな一日が始まるこの単純を明らかに見て生きているのに、
何も感じないで一生を終わるなんて
「ボーっと生きてんじゃねーよ」って、今はやりのチコちゃんに言われてしまうよ。

存在がエネルギーである。エネルギーは円運動である。そのために縁運動となっている。
これが法則である。諸々の!

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自業自得は道理

2018-12-15 | Weblog
エネルギーの法則が円運動であることを理解できるなら、
すべての物事が元に戻ってくることが理解できてくる。
始まりが終わりであり、終わりが始まりであることを知る。
昨日今日明日の流れが何を意味しているかが知れてくるだろう。
どう思い理解するかは自由である。この自由に由って自分という生命の世界が作られていく。
この思いは、あると思えばある、無いと思えばないという現実を作る。
現象というのは形あるものではない。とめどもないものである。
このとめどない動きを円運動として捉えられるならば、何をして何をなさないということがわかるはずである。
先生などというものはいらない。自然が訓えているのだから。自然は、
自らに然りと訓えているのだから。だから、正しく思うこと。必ず返ってくるということを訓えているのだから。
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