つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

肝に銘じる

2017-02-28 | Weblog
近々大地が大きく揺れる。
関東は痛手を負う。
そして、心底対岸の火事ならぬことを感じる。
災害を受けた人のことを第一として、即刻の対応すべきことと
改めて思う。
常に我が身に置き換えて思えば、ただ当たり前のことである。
‘喉元過ぎて熱さ忘れる’では、痛い目に遭う。
二度と立ち上がることができないほどに・。
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身の毛がよだつ

2017-02-27 | Weblog
ただひたすら死に向かって生きている。
だから、人は死ぬために生きている。
死ぬために生きているという事を正しく理解していなければ、
誤った人生を送ることになる。
すれば、死後に地獄に赴く。
魂のために生きていることを覚れば、
人生、悪いことはできないものである。
死ぬために生きているのは、魂の世界を天国とするためである。
理解できる人は、誰に教わることもなく悪いことはしない。
理解できない人は、勝手気ままに生きるものである。
怖いもの知らずとして。
だとすれば、身の毛がよだつ。

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神々の戦い

2017-02-26 | Weblog
お金で支配された世界であるために、お金のあるなしで物事の進み具合が計られる。
命が大事、命が一番、命あっての云々、命は地球よりも重いと語られ、
それほど大切な命であっても、難病にかかり助けられるのは、先ず先立つものがなければ、
助けられないとなっている。
矛盾が人間にはわからないようだ。
他の惑星にいる知的生命体たちには金融制度というものは無い。
お金でどうのこうのという損得など全くなく生きている。
そのために、進化が早く、そして、同種互いにいがみ合うという事を持たない。
人間という地球にいるまだ下等に部類する生命体だけは、損得勘定を持ち、
そのための進化が牛歩の進み具合である。お金が絡むために、
そのお金が誰が持つのかなどという事に意識がいくために、真っ先にしなければならないことが、
なかなかできずにいる。それ故、進化は遅く苦に満ちて、互いに互いのものを奪い合いながら生きている。
口では正しいことを言うのだが、行う事が損得にあり、ちぐはぐとなっている。
行動が正しく伴わない野蛮な種族となって、他の知的生命体から関わりあいたくないものとなっている。
しかしながら、核エネルギーを持ち始めたころから、
他の知的生命体も黙ってはいられなくなった。
誤った方法で使われては他に害を及ぼすものとなるために、監視するようになってきた。
それと同時に、悪いものには悪いものが集まり、良いものには良いものが集まるという道理にして、
野蛮で無知な人間にそれとなく好戦を好む悪の神々が寄り付き、巧みに操るようになる。
さて、それを察知して善神たちが阻止し始める。
それがこれから起こる天空の戦いである。人類には計り知れないことである為に、
ただ修羅の中に紛れて、魂の良し悪しで天国と地獄に選り分けられる。
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導き

2017-02-26 | Weblog
釈迦の誕生にしても、キリストの誕生にしても、
人間ではありえない出産の仕方である。
それは、釈迦もキリストも人間ではない人型知的生命体であるためである。
ハイブリットと言われる種である。彼らは地球外より来た生命体で、宇宙の道理を
知っていて、正義と悪を訓えている。とても大きな体格であり、
優れた能力を有している。
天女、明王、菩薩、如来など、怖ろしい姿形、慈悲の姿をしていて、神々と呼ばれる。
我が身をもって道理を示して、無常の常住であるエネルギーの法則を示し、
様々な方便でもって地球人の在り方を説き訓えたものであるが、
聴く耳を持つものと持たないものとの仕方なさゆえに、
万人救済という方便には至っていない。
道理は、助けるものを助けるという事の気づきにある。
諭しても、行うのは各自にあり、自業自得となっている。
この自由を如何なる力も侵すことはできないために、
強制的に救い取るという術はできない。
導き以外に方便は無い。
釈迦もキリストもこの時間線上の地上の未来を見ている。
末法を知り滅法を見ているために、
釈迦もキリストも人類の滅亡を予言し、この予言がエネルギーの
法則の予言となるために、絶対となることを知っている。
その故、56億7千万年後という人類には途方も無い時間を経て、弥勒という神、
知的生命体が‘求める者を救う’ことになる。「求めよ、さらば与えられん!」である。
どんなに長い時間と思っても、魂、いわゆる生命エネルギーには死が無い為に、
必ずや遭遇する事態である。宇宙の時の流れから見れば瞬時と変わりはない出来事なのである。
この現代の素晴らしい科学進化も、全て滅亡への進化となっているものである。
一旦滅亡して、新たな地上の生命となって、
再び過つことのないエネルギーとなることの希望が
生命エネルギーは持っているのである。
一日が終わって新たな一日が始まるように、エネルギーの法則のサイクルである。
全てが環状体状エネルギーの物語である。


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虚空

2017-02-25 | Weblog
宇宙のエネルギーは無限エネルギーである。
トーラス状、つまり、環状体エネルギーとなっているために尽きることが無い。
だから、本来地上のエネルギーも無限であるのだが、
有限状態にしているのは、地球外生命体の支配下に由るためである。
彼らは階級制度を持ち、全てを司るとするお山の大将的進化となっている。それは、
善悪を持たないエネルギーの法則の、それ故に絶対善の動きとなっていることに対するエネルギー進化であるために、
正負でいえば負のエネルギー進化となっている。その対する進化が、法則のエネルギー本来の進化、正のエネルギー進化である。
いわゆる、悪魔と神、悪神と善神の存在である。
人間に善い人と悪い人がいる様に、また、生きとし生けるものに善悪を持ち、存在のすべてに良い悪いが存在するものである。
それはエネルギーの法則が自由から成っているための性質である。
対するものという相対にあり、また、どちらともつかずどちらにでもなりうるという、三つ巴となって廻っているのが、
エネルギーの法則である。のどちらともというのは曖昧としてあるものの、
陽炎の様な空ろな存在としてある。量子の見方をすれば、不確定でありながら、確実に影響を与えるものであり、
それでいて、決して辿り着くことのない到達点を持っている。この
ゴールのない到達点が宇宙のエネルギーを覆っているものである。
あると思えばある、無いと思えば無いという捉えどころのないというものである。
それが自由というエネルギーである。
全てがこの物語の存在、だから、私は誰という答えは明確には出ないものとなっている。
それが明確な答えなのである。宇宙というものである。
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地球外生命体

2017-02-24 | Weblog
地球より39光年先の宇宙に、地球に似た星が7個も発見されたと新聞に出ていた。
とすれば当然生命体がいるのでは?と書かれていたが、
地球外生命体がいるかいないかというのは表向きの話で、
いるいないどころか、地球には数十万年も前から地球外生命体が飛来しているのである。
現代科学の発展も彼らから教えられたもので、人類だけではとても無理がある。
過去の歴史を見れば、ある時急激に文明の発達が起こっている。そういうことは、
人類単独ではなしえないことであるし、数々の天空より飛来する者達の記述も残されているのは、
あまりの不思議な事、驚愕することを見たための伝えである。
人知では及びもつかない能力を見た時に、人は恐怖にかられ、また、それらの者達を神と呼び、
崇め奉るのである。
この地球は、彼ら地球外知的生命体の支配下にあり、彼らの教育のもと、
現代に至っている。
人類よりはるかに遙かに進んだ能力を有してはいるものの、エネルギーの下の存在には変わりなく、
エネルギーの法則の自由に従って生きている。そのために、
善悪の対立を持っていて、その性質、性格によって善悪に分かれているものの、
どちらも正義としての存在である。つまり、正義である為に存在となっているものである。
エネルギーの自由というのは、そういうことである。
それは、悪の世界、つまり、誤った世界であっても正義となり、
その世界が苦しみの世界であるにもかかわらず、苦しむことが当たり前である為に、
一切の反省、疑問となることが無いのである。それが正義としての世界となるためである。
地球外生命体が地球にやってこれるのは、頭脳明晰にあるためで、そうでなければ、
この宇宙空間を航行してくることはできないのである。
道理を理解することができるために、為せる技である。そのために、
侵略という事はせず、自由を尊重しつつ支配するものである。それは、
ある意味、人間が家畜を養って生きているようなものと似ている。
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利他主義

2017-02-23 | Weblog
献身的であることは正しいことである。
まして、お金に支配されている世の中に於いては尚更である。
しかしながら、自分のことをさておいて、
世の為人の為とすることは、自分が生きていくことができなくなる。
世の為人の為は、自分がいて為せることである為に、此の優先順位を間違えてはいけない。
と言うと、自分をまず先にと思う人がいるが、そういう事ではない。
自分第一という利己主義という事ではないのである。
自分がいての物種である。そのための世の為人の為としていくことで、
自分が生きていけるとしていなければならないのである。
つまり、自分の為に世の為人の為となっていなければならないのである。
自分の為に他を優先して、幸福となれるのである。
これは、不思議なことで本当である。




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自由が正義である

2017-02-22 | Weblog
ただ謙虚に生きることである。
何も知らなくてもいい。
何も覚えなくてもいい。
謙虚に生きてさえいれば、
終には安住を得る。

生きていれば、よいことはあまりなく、
つらいことが多いものである。
善い人であればあるほど生き辛いのがこの世である。
それでもめげずに謙虚に生きていれば、終には
好い事に微笑まれる。これは世の道理である。
法が善悪の無いものであるための絶対善である為である。
自由という法の性は、自業自得をただ正義とする。
それ故に、正しく法則の自由を悟ることである。
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菩薩

2017-02-21 | Weblog
般若心経は、観自在菩薩が語り、
観音経は、観世音菩薩が語ったもので、
観自在菩薩と観世音菩薩は読んで字の如し、別人である。
観音菩薩というのは彼らの総称。
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掛け替えのない経験

2017-02-19 | Weblog
釈迦は何を悟ったのか?
その悟りが説かれているのが阿含経である。
現社会の知識を滅して、エネルギーの法則の判断となるよう、
人里離れて山籠もりをして行った。つまり、自然の中で自然に生きていくことによって、
自然の法則が身に付いていき、法則の判断となり、悟りが開かれていく。
人間社会の知識を滅していく修行である。それが識滅の行である。
自然の中で自然と共に生きていくことによって道理を理解し、道理の身に付いた思いは、
正しい思いとなって間違うことが無くなっていくために、自然に沿って生きていくことで、
人は誰でも悟りを開けていけることを知った。それが智恵の判断である。
自然の道理を心得た判断は、瞬時に物事に対応でき、迷うことが無い為に、
あらゆる災難から逃れられていく。このことを釈迦は知ったのである。
智慧は、その人が自然から得た経験の識である。他人から訓えられ得られるものではない。
そのために、自然から学んだ経験は、掛け替えのない識となる。
誤りのない判断となり、過去と未来と現在を正しく識別することができていく。
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