つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

生命エネルギー、意識

2019-06-30 | Weblog
世の中は相対にあり、すべてが対立してある。
でもそれはお互いにそれぞれを持ち合わせていて同一である。
そのため、右は左でもあり左は右でもあるとなる。当然四方八方そのようにしてあり、
立場によってその時の感覚となる。
その時の感覚意識を変換する自由を思えば、瞬時にして都合を得ることができる。
自然から分かれた由を然り(しかあり)とするのは、量子にある性であり技にある。
エネルギーの法則は、円運動の自由であるための絶対である。だから矛盾は無く相対は無い。
同一となっているために、時空のない対応、応対となっている。
自分というものは自然に作られたものである。つまり、エネルギーの法則による産物である。
回る変化の刺激に対応しているための受の世界となっている。
刺激を受けてどのような応対をしたかの現象世界となっている。
意識はエネルギーであり気である。生命である。

意の識は、現象世界の経験の積み重ねによって作られていく。
エネルギーの法則に添って正しく識となれば、性善たる正義となって極楽となっていく。
エネルギーの法則に無知であれば、すべてが矛盾となって答えは出ない。
答えが出せないための解決法として神が作られ、すべては神によって解決していくとなっている。
しかし、神が何であるのか、全知全能とはなんであるのか、神は又何によっての存在であるのかと
尽きることのない疑問となっていく。

エネルギーの法則は、円運動である。円運動であるために始まりと終わりは無い。同一である。
この単純が理解できればすべての矛盾は無くなっていく。
この円運動の法則は自由である。自由がエネルギーである。
すべての存在はエネルギーの存在である。神も仏もエネルギーの下の存在である。
このエネルギーを超えて存在とはならない。
エネルギーの法則を理解できれば、生命も理解できていく。
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永遠

2019-06-26 | Weblog
新旧交代が迫っている。
意識の変換は自由である。
自らに由るもの、自ら然りとなっている。
生命はエネルギーである。
エネルギーは円運動である。
円運動は始終同一である。
ゼロという浄化である。
矛盾はない。

自由が自分の自然となっている。

意識が生命エネルギー、自分である。
意識は経験の識である。
経験の積み重ねが統一されて心となっている。
現意識であり、その判断がいまの心の質。

円運動は永遠である。
ゼロの進化=浄化である。
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無とは何か?

2019-06-25 | Weblog
人間も動物である。
動く物と書いてある。だから、動いて生命、生きる命である。
あらゆるものが動いていて存在となっている。
止まっているもの一つとしてない。
宇宙、つまり、自然も常に動いていて片時も止まってはいない。
止まっているように見えるのは、自分も同じ速さで動いているためである。
自分も自然の一部であるために自分という。
例えば、100キロの速さで動いている車の中にいれば、その速さを感じることなく
止まっている時と同じ動きが車の中でできる。本当は動いているのに、自分は止まっているように感じる。
これが同化である。
自分もいっしょに動いていることに気が付かなくなるのである。

自転車が自転車であるためには、動いていてその役割を果たす。
動いていなければその役割は果たせないし倒れてしまう。もはや自転車であっても自転車ではなくなってしまう。

すべてのものは動いてある。
エネルギーであるためである。動いていてその存在を保っている。
エネルギーとはそういうものである。

存在とは動いてあるもの。それがエネルギーである。
故に、エネルギー=有=存在、これが宇宙である。
この宇宙の外側は存在とならないために、関わりは無い。
存在であるものには考えることはできない。
それを不可思議という。

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意識

2019-06-21 | Weblog
意識が要である。
その意思をどこまで解き明かして理解できるか。
気持ちの在り方、持ち方というのが
生命の現象の幸不幸にある。
自分という存在の独自性ついての自覚、自己同一性=アイデンティティー。
自分とは何か?その主体性は客体の認識をもって知れてくる。
自然は単純にあからさまである。その単純を難しく見るために、
迷わされ惑わされて過つ。
自然に善悪は無い。善悪は人の思いである。
善悪が無いために善である質を意識として、
矛盾は解けていく。単純であるにもかかわらず、
そこに素直さを持ち込まないが故に、矛盾の中にうずくまるだけ。
愛する者が愛する者に為す行為を自分に為している者とはどういうことか、
理解するのは簡単であるが、素直でない人には理解ができない。
心、意識が現象を作っていくことを自然は訓えている。
自然という文字は何と書いているのかよく見るとよい。
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身分を知る

2019-06-19 | Weblog
この世の中での生命としての立場が、周囲の生命より優遇にあるとするなら、
その優遇は、現生命の力によってなっているのではなく、まして、何らかの守護によって得られているのでもない。
たまたまという時節に於いての事柄である。現在という時に於いて不遇であれ、
幸運と不運は平等にしてあり偏ったものではないために、それぞれの環境に於いての自身の対応、応対によって分かれる。
幸運にも優遇にあるとするなら、それはまた、恐ろしいほどの不運の材料ともなっている。
幸運であればあるほど戒めにあり、律していなければならないためである。それは簡単なようでとっても難しい。
それこそ性善にあらねばならないからである。もともと性善であるなら、それほどむずかしいことではなく、それこそ
幸運優遇と重なってある。だがしかし、人たる生命、煩悩著しくあり、それは他の生物生命より劣るものである。そのために、
往々にして栄光と挫折にある。
挫にしては、二度と這い上がれなくなるほど哀れになる。そんな危険を伴ってあるのが優遇環境という立場でもある。
だから、
世の中、生まれつき幸福にあると見られても、不運な生まれと見られたものより多大なリスク(危険)を負っている。
何分にも普通が最良と理解して利となっている。これがもともと差のないゼロスタート地点である。
平凡とは偏りのないことであるために、幸せと思うことに理の合点である。
偏りにあれば起伏在り、栄光と挫折必然受し、かじ取りの誤りにて悉く打ちひしがれる。
才有りては幸福を得る。

この世の中で、人の上に立ち、導くものであるなら、他より倹しくしてあり、慎ましくしてあり、
涙ぐましく努力にあることが真の姿である。飾りにあっては疑い晴れることなく、
終には糾える縄の如くにして、幸不幸を与えられる。同時にであるために、常日頃、負を償却してあらねば、
多大な災いとなっていく。細かくも進んで負を償却していけば、
それによって、多大な災い受けることなく、由って好としなければならない。そして、この期に及んで野望をもってはならない。

悪いこと無くとなれば善しとなり、白無垢となっていく。生命の過去の清算、浄化となってゼロスタート。
一日が終わって明日が始まるように、やり直しが人生である。再び驕らぬように肝に銘じて輪廻、いつの日か生死を離れられる。
生命、魂とは心、精神を研ぎ澄まして永遠となっている。自由であるエネルギーの気ままを得られるものである。
エネルギーである「有」たる三千大千世界である。「無」たるは不可思議にて領識外である。
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狼狽の色

2019-06-15 | Weblog
経済大国たる日本?
心の貧困国でもある。
僅か一億三千万弱の人口、それも、急速に減りつつあるのに、
先は目に見えて衰退する現象を捉えている。
世界に例を見ない速さで老人大国となっていく。
いたるところで誤動作を起こし、呆然として佇むにとどまる。
精神と肉体の隔たりは甚だしく、勝手を振舞う。
それぞれをそれぞれに誤解にて振舞うためのよがりは、
老いては子に従えという、
還暦に思うことの日一日。
耄碌たる婉曲にして恍惚の人の国。
大人しい国。
寿命年数は、還暦を過ぎてのデメリットとなり、
人災起因の天災を招く。
時期は時機を逸すると長寿も苦に転化する。
不自由そのものに!
ただ老輩に狼狽して老廃国となる。
周章狼狽。
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知恵の輪に遊ばれる?

2019-06-13 | Weblog
世の中には悪い奴がいるものだ。
それも、よくそこまで悪に徹することができるものだというほどの
悪い奴がいるものである。

世の中に努力ということがあるように、
無駄なこと、無駄となる時間など一つもないことを知ることである。
努力が実らなかったと思うのなら浅はかである。そう思う者は、この先何度となく
輪廻流転となる。
それは、一切にして皆苦である。

世の中に、人生に、無駄ということは一切無い。
意味あって在るものであるために、存在となっている。
それはまた、「善」という言葉に置き換えている「愛する者」たる意味を悟ることにある。
そして、
この「愛する者」となったなら、一切の矛盾は解ける。というよりも、矛盾は無くなる。
一切皆苦より離れられる。

知恵あるものには簡単であるが、浅はかにしては難解である。
人生は、知恵の輪に遊ぶものである。

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斬新

2019-06-11 | Weblog
その時代の眼で見れば斬新なデザインであれど、過去の面影のまま。
時代の映像は、過去をさかのぼった未来の虚像。
取り残された思考の中にある。
地を這いずり回ることをやめ、飛び回る思いに心像は現れる。
それこそ人知を超えた映像を見る。
心という想像こそ自分の未来である。

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即知する

2019-06-09 | Weblog
天候不順、
これが崩壊の兆候である。
じわじわと日常に忍び寄る不穏な動き、
何かが起こらねば良いのだがという大衆の心は、確かな未来への不安な思いである。
ポピュリズム、大衆迎合は不安の煽りを現実化する。
思考は現実化するという言わば幻想的幻像の原像は、
紆余曲折を経て結論となる。
心が道理にあり正しければ、先見の明となる。
道理は善悪のないものである為の善であるために、
転倒することも無く予められる。

悪事が無ければ正義たる善もわからないのが
受の世界たるエネルギーである。
生まれたばかりは初々しくもあれども、
纏わりついて礙ともなるが由、正義が図られる。
道理は斯くして功徳の道を開く。

善悪無きもの、
これといってよいことは無いがわるいことも無い、
わるいことが無ければ
これ
よいことではないか。故に、
好いことは善いことで動いているのが道理のエネルギーである。
これ覚える者、一を知り十を知る。
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汚れた世の中と人と住みかと

2019-06-07 | Weblog
拝金主義の世の中である。
この巧妙に仕掛けられた仕組みの中では、もはや抜け出せる術はない。
隷属することで生きていけるようにされている。
所謂奴隷社会である。不自由極まりない苦の社会となっている。
この苦から逃れるには、人間の知恵では無理にある。そのために、
一旦現世を離れなければならない。
一日が終わり、新たな一日が訪れるように、生滅の繰り返しをもって再生の道は開かれる。
だから、恐れてはならない。苦が閉じられ希望が訪れるのであるから。
不自由からの解放、自由への誘いは、一旦という区切りをもって繋がっていくのであるから。

自然の流れは善にある。そのために、自然と不自由は淘汰されていく。
肉体は滅していっても、魂は滅することが無い。それゆえに、
恐れを抱かないで、ただ希望をもって受け入れることに、救いとなっている。
心をみがくということはそういうことである。

生命は心であり心は記憶によって作られていく。
記憶は経験である。経験を正せば記憶は正され心はみがかれていく。
善い経験とすることである。
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