つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

日は常=是

2015-02-28 | Weblog
習い慣れて、慣れに習い繰り返す。
そうして、復習していき、それが慣習となる。
ある事柄を何度も繰り返していく、反復することで習わしとなり、
善いも悪いも無くなりただ慣わす。
繰り返す、或は、反復されることで風習となって反省もされなくなる。
繰り返すことが絶対となって正しいとなる。
これが正義である。

正義=道理にかなっていて、正しいこと。と辞書にある。

日は回る。日常である。これが自然であり道理である。
道理には善悪は無い。ただ廻るための絶対となり正義となっている。
そのために、人の思いにある善い悪いも何度も繰り返す、つまり、
反復することで正義となってしまう。
人の思いにある正義もその様に作られていく。

自然というのは、自分の生死に関わらず永遠である為に、
変わらず明日というものが存在する。
明日が来ないというのは無い。自然が円運動となっているためである。
その円運動は、エネルギーの自由によって成っている性質である。
そのために、人の生命も永遠に輪廻していくものとなっている。
エネルギーが円運動となっているために、始まりと終わりが同じとなり、その接点が
一日の終始となっている。接点はゼロであるために、一切の浄化となっている。

一切がゼロとなる。これが浄化であり道理である。自然というもの。エネルギーの法則である。
浄化には善悪も無い為に、絶対善となっているものである。
この法則がエネルギーの自由である。
だから、自然は美しいものとなっている。浄化された姿であるためである。
人もまたこのエネルギーで作られているものである為に、性善となっているが、
本来善悪の無い為の絶対善である為に、その自由によって誤った浄化となれば、
善悪顚倒となり悪だらけとなってしまう。それが当たり前となるのである。繰り返されていく。善となるのである。
悪が善となる世界、これが誤ったエネルギーの浄化の世界、地獄である。

人の思いも自由である。エネルギーの自由である為に。
その誤ったエネルギー、思いを正すには、反覆することにある。

反覆=変心する。ひっくり返す。裏切る。と辞書にある。

善悪顚倒した思いを、一切遠くへ切り離して、夢想となっている想念の世界に、
悪を抱かないことである。
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神という都合

2015-02-27 | Weblog
もしも、不安なく恐怖なく、
悩みなどを持たないのなら、何かに縋るということもない。
頼るということも無い為に神というものを作ることもない。
恐怖が無ければ神もいらないものである。
神というのは人の都合で作られている。
だから、証明もできないし誰一人見たこともない。
だから、否定もできない。
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まわるということ

2015-02-26 | Weblog
一日というのはただ廻るもので、
この回るということを見て、
諸々を理解する。
繰り返すという事は、いつか来た道を亦通るということ。
或は、それは戻るということ、戻ってくるという事でもある。
縁あるものとなって出逢うこと然りである。

努力というのは、報われるという事への報うという事。
自業自得という不結果な現象は、
身から出た錆と言われて負、マイナスにあり、
報うという行為にして、プラスマイナスゼロからプラスへと転換していき、
報われていくとなる。

回る=戻る=返る
縁=円

愛というのは、
自分を一番愛しい。
愛する者とは、愛する者が愛する者に為す行為を自らに為している者。
それは、愛している者をまず優先。自分は二の次にして当てはまる。


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自由な発想

2015-02-24 | Weblog
標準、
特に優れているということはなく、特に劣っているということもなく、
普通にしてあるもの。
人という常識にして、とりわけ変哲もない。
だから、感覚も取り立てて敏感なことなく、
逸脱という思いも抱かない。

概ね、自分にできないことをいとも簡単に出来る人がいれば、
一目を置いて敬うものだ。
はたまた人技にして不可能と思われる仕種を苦もなくこなせるなら、
神と呼び崇め奉る。
神がかり、
カリスマとして、いや、神そのものとしてしまい従う。
常識にはわからないために、畏怖の念を抱いたりして・・・

気というものに、
優劣ができるのは自由である。
その自由にして優れる者は、神業ともいえる仕種を具える。
自由なる能力を得るのである。
エネルギーが集まる、というのは性である。
多く、他より多く集まるというだけで、能力が優れていく。
とりわけ微細にしてふるえるのである。

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不確定性原理

2015-02-22 | Weblog
私たちは概ね火宅の人である。
七十億を超えた地球人口、その多くの人達の生命(心という魂)は、
宇宙の真理を見たのは僅かに数名である。十名にも満たないほど、宇宙の真理は見難いことである。
その十名に満たない心のある人は、研ぎ澄まされた生命エネルギーにして培われたもので、
宇宙誕生時の瞬時の速さによって摩られ飛び出し、鋭く磨かれたが故のエネルギー、受のエネルギーである。
そのために、初期のあらゆる状態を受け持ち、対応したものである為に全知全能に相当する。
生命エネルギーは、宇宙のエネルギーの法則に依るものである為に同じ性質である。
だから、一つにして様々がある。様々にして一つに凝縮するのである。
ただ、この世にして、「覆水盆に返らず」と諺にあるように、‘過ぎたるは及ばざるが如し’も然りとなる。
全くにして瓜二つというのは‘似て非なるもの’である。が、代用になり得るとすればなり得る。
人の今ある技術にして、複製したものは、複製であり本物にはなり得ないが、それなりの役目は果たす。
本物に相当するものでもある。クローン技術がもっと進歩すれば果たして、・・真理を見失う!?。
人の本来持つ悲しみの涙と喜びの涙はどう違うのであろう?とわからなくなる。
今は未だ、その不便、不自由なものにして、つまり、原始的にして違いの答えは即出るものであるが・・・。

火宅の人であるものは、まずもって真理を見ることはない。
人が死んで一瞬、「あぁ∼、世の中とはこうだったのか」とすべてを理解したとしても、
束の間にして、
一日が終わり次に繋がっていくように、何も悟ることが無く、
今日と同じ明日を生きるようなものである。
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誤解

2015-02-21 | Weblog
何度も述べるが、
般若心経は観自在菩薩という佛の啓示であり、
いわゆる、あの世から語られているものである。
それは、釈迦の説いた修行を行じ、観音と呼ばれるようになった実在の人物。
彼の死後、釈迦の弟子である同じ修行法を行じている舎利子に
法が縁となって、その心に降臨、舎利子の口を借りて語られたものである。
そのために、実際には舎利子が語っている姿となっている。
その姿を舎利子に現し、名を語り、「我、汝に説くに名を語り身を現しているではないか、
それ故、嘘ではないよく聞くがよい」として、般若心経が語られているのである。
法の世界から語られているために、真実で嘘のないものとなって、一切人の手を加えることなく
語られたままが述べられているものである。
人は、死が経験となることが無い為に、経験とならないことはわからない。
分からないために都合よく想像で判断する。もし、その判断が誤っていても誤りであることがわからなく、
正しいとなってしまう。そうして、啓示で説かれたことが判断とならず、判断できないのは
仏の世界の事であり、人には計り知れなくて当たり前として、わけのわからない解釈となっている。

鳩摩羅什や玄奘三蔵などの優れた僧は、梵語より漢文に訳すときに、正しく訳し理解したのであるが、
それが伝わっていく間に、その解釈が正しくいきわたらずに、誤って解釈されていった。
正しく解釈され、理解されていた時は、多くの悩める人々が悟りを開くことができた。
難行苦行などもいらずに、特に逸脱した優れた能力が無くとも、誰でも悟ることができたために、
般若心経はたちまち広まっていったのである。また、それが、菩薩の真の伝えるべき心経の主旨である。
そのために、簡単に、できるだけわかりやすく述べられたのである。故に、とても短く要点のみが語られた。
但しとして、その文字に惑わされることなく、真理より語られたことを正しく理解されますようにと願った。
これが仏の憂い事である。
やがて、伝わっていく間に、案の定、心経の文字に惑わされていき、誤った訳され方がなされていった。
正しく充てられて書かれた意味ある文字が、音写として、発音が似通っているための漢字として充てられていると解釈したために、
真実の意味が正しく伝わらずに、智恵の完成などとなり、智恵の完成ってなに?と意味不明となっていった。
無の意味もただ単に「ない」と訳していき、心経は否定の経典となって解釈されてしまった。
実体がありながら、この実態は幻であると理解されていき、幻であるものに執着するために苦が生まれ、
苦悩していくと理解されていった。無我になれとか非我であれとか、
自分の存在を忘れるという無意識を意識する。それはどういうこと、と、わけがわからなくなる。

心経は、その文字の意味を正しく理解していかなければ、都合よく解釈されて、理解できない文字は、
真言であるとか仏の世界の言葉であるために、人には理解できなくて当たり前としてしまう。
仏が理解できないことを語るだろうか?頭脳明晰な者にだけ理解できるのであれば、衆生下々を救いとるとする誓願に矛盾する。
智慧があれば智慧あるほど難しことを簡単にする。智者というのはそういうものである。

心経は、智恵をもって読むことである。たとえば、
無という文字の意味を「ない」とするのではなく、「無くならない」として読むのである。
そしてまた、「無くならないものは無い」として、知恵をもって「顚倒」を都合よくしていくことである。

仏は一途に、「願解如来真実義」と謳っている。「願わくば、如来の真実をよく解さんことを!」と・・。
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「悩める大衆の心をみがくうた」の経

2015-02-20 | Weblog
般若心。
一般大衆の心とする。

般若の般は、一般人の般。
般若の若は、未定の数を示す若干名の若。
いわゆる、
一般大衆と般若は訳せる。して、一般大衆の心を般若心という。
よって、
摩訶般若とは、大衆をみがくうたと訳せる。
摩は、こするとかなでさするとして、‘みがく’という意。
故に、
「摩訶般若波羅蜜多心経」とは、悩み多き一般大衆の心をみがくうたの経とする。

波羅蜜多とは苦悩のこと。波の如き揺れ動き、蜜蜂の蜜の様にぎっしり詰まった
羅は、維というつなぎとめるとする意に網の目を被せて、どうしようもない苦悩を意味していて、
悩みを示す文字。多はそのまま`多い'である。
訶は、うた(詩)という意。つまり、
「悩み多き一般大衆の心をみがくうたの経」という。
経というのは、たてを意味し、横文字で書かれた梵語を縦文字である漢文に訳したものという意。
そのために、
簡潔にして述べられているものである。

音写として充てられた文字ではない。
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無尽蔵という宝

2015-02-19 | Weblog
心はエネルギーである。
生命エネルギー、気である。
それは、自由そのものであるために、何の隔たりもないものである。
かたちあってないというものである。
そのために、時間も無く空間も持たない。
だから、
瞬時どこへでも行くことができる。
もちろん、死滅という事は無い。
エネルギーの法則から生まれているものである為に、
無くなることが無く、また、何ものにも侵されることのないものであり、
この上ない力を持つものである。
無尽蔵という言葉があてはまるエネルギーである。

ダイヤモンドが磨かれて輝きを放つように、心もまた同じである。
素朴にしてあるもののエネルギーを磨くこと、宝となる。
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夢のあの世、

2015-02-17 | Weblog
夢は見るものであり、
夢は毎日見ているものである。

昨夜は夢を見なかった。
いや、
このところ夢は見ていない・・とあなたは思う。
でも、
今夜は夢を見るだろう、・・そう思う。
そして、
今日は夢を見た。微睡む中でおぼろげにだが、
はっきりとそのおぼろげを思い出す。

おぼろげは、
空に向かって懸命に腕を羽ばたかせている。
上へ上へとばたつかせるも、腕は羽では無い為に、
思うように昇らない。
焦るも…そこで目が覚める。

微睡みは
狭間、
この世とあの世の共に滲んだところ、と言い合わせる。
今ある心の創る世界。
未だ迷えるところ。だから、記憶に残る。
一歩踏み出せばあの世、記憶には残らない。
あの世からこの世へは戻れないように、記憶も同じ。
曖昧が無い絶対世界。
一切を置いて目は覚める。
夢はいつもあの世を訪ねる。
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ぐうの音

2015-02-16 | Weblog
今ある自分に、
ぐうの音も出ない。

無智で生きてきたが故に!
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