つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

心の高貴さ

2019-04-30 | Weblog
エネルギーの法則は、円運動である。
そのために、何度も同じ繰り返しが正義となっている。
善悪は無いために、絶対善の動きとなって回っている。
だから、悪事も繰り返すことで正義となっていく。
それがエネルギーの法則の性質であり自由である。
自由が正義であるために、善悪転倒してしまえば、悪が善となり正義となっていく。
すべてが悪となり正義となり善となる世界である。
それが地獄の世界である。だから、地獄に落ちれば、
地獄が正義となり善となって巡るために、一切の反省はされなくなり
抜け出すことができなくなる。かくも法則は恐ろしい。
エネルギーの法則は非情である。
これが真理である。だから、エネルギーの法則を正しく理解して、
善悪のないことの絶対善である意味を悟ることである。
心はエネルギーであり、心が吾であるから悟りなさいと訓える。
心は生命エネルギーであり、記憶によって作られていく。
エネルギーであるために、心に死は無く、輪廻した数の記憶が統一されて、
性質となり性の格付けがされていく。

心の高貴さがはかられる。
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死後の世界を作っているのが今生の生き様

2019-04-26 | Weblog
存在でないものを存在であるものが考えることはできない。
存在ということの意味はそういうことである。

死は人の経験とはならない。
経験とならないことは知ることができない。
そのために、死後の世界を知ることはできない。
おそらく、こうであろうとして、それぞれのイメージで知ることとなる。
そのイメージ(想像)は、心の想いであるために
想いが好い思いとしてあらねば、死後の世界は好ましい世界とはならない。
人は、知らないことは恐怖として抱くために、必然死後の世界が暗黒の世界となって現象する。
これは、人の誤った思いである。
イメージ(想像)の世界に、不安とか恐怖とか冷たくて寒いなどという思いを抱いてはならない。
冷淡なところなどと思わないことである。
綺麗な花畑の景色が広がり、暖かくて心地良いところにいる自分としてのイメージ(想像)とすることで、
その様な現象世界となっている。

死後の世界は、自分自身の心の在り方によっての現象世界である。

想いというのは心の現象世界を明らかにする。
気にしたことが記憶となって強くイメージされて現象となるために、
決して悪いことを、つまり、悪を心に抱かない、持ち込まないことが安楽の世界となっていく。
生命の真実の世界というのは、心の世界であり、それがあの世、黄泉の国。明るい世界である。
自分の心が暗いまま死ねば、どんなに頑張っても明るい世界とはならない。天国とならない。地獄となる。
生前、あの世が地獄となりたくなければ、善いことをして善い想いを抱いて生きることである。

心の写し画が死後の世界となっている。
そのために、
好いイメージの心として生前としていなければならない。
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右往左往の紆余曲折の結論

2019-04-25 | Weblog
先ず日本が危篤状態に陥る。
そう遠くない昔、日本沈没という映画があった。
時は空想にしても、
今また違った意味での現実的
人為的に日本社会が沈み始めた。
2020がきっかけとなり、大衆の眼に突き付けられるも、
平和ボケという牙をもぎ取られた大和民族は、眠りについたままで大人しい。
バカとしか言いようがないほど去勢されている。
唯、血の騒ぎは猛り覚醒にあるも、時に遅しを否めない。
その痛みに、戦時のおそろしさを思い起こされる。
過去は幻の中になく、今もつながってある現身。
骨身にしみた苦の再来の拒否を今もって噛みしめる。
YAP伝子は、示し申し子として遅きに至らずにあり復活、
優の秀にして現る。
過去に学習して、過ちをすることは無い。
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2019-04-24 | Weblog
人類の歴史は戦争の歴史である。

大量殺戮で人工調整が行われていて、現73億に達している世界人口は、
この地球上に於いて統率者にとっては汲汲な状態である。
彼等にとって満足のいく統率力ができないために、その力の及ぶところの数を望み、
そのための方法論として、遊びながらつまり、ゲームのようにして削減をする。

私達からすれば、もてあそばれながらの削減である。

自由というのには、「対する」がある。
何事も少数であればある意図も容易であるが、大多数を占めていけば容易にはいかなくなる。

相反するものの多勢は最大の脅威であるために、
巧妙に催眠をかけ、深い眠りの中制御していくことが最も好ましくある方便である。
そうして、おぎゃあと産声を上げて以来、人類は奴隷としての労働力に使われて、
従順であることを正義として教育されてきた。
長い長い不自由なる歴史である。その不自由が自由であるとする常識を図られているために、
何ら隷属することに疑問を持たず、また、持てば非常識ものとして疎まれ、仲間外れにされていく。
属することは、人類の弱さから逃れるための策であり、もって、
群がって生きて、自分の立場を常識からいかにあるのかはかりながら、周りとの距離感を良好にして生きる。
飼い犬の如く、鎖につながれている不自由に安堵を抱く。


しかし、自然は回帰するもので、もともとの性にもどる。
もともとの性は自由である。その自由に目覚めることは必然であり、道理であるために、
今、覚醒しつつある。一部が隷属という縛りに疑問を持ち、本当の自由とは何かと気が付き始めてきた。それが大衆に伝わり
波及すれば強大な力となる。不自由たる鎖など簡単に切ることができてしまう。
不自由を強いる統率者は、先見を透視てこの時期が来ることを知ってはいるが、何分にも未来はすべてに於いて不定であるために、
急して、従来の方便を使う。が、経過というのは進むことにあり、昔できたこと、できなかったことに変化をもたらす。
双方にそれは現れるために、もう一度柳の下にドジョウは現れたりはしないものである。それが、どちらに軍配が上がるのかは、
経験が語っている。
さて、
神々たる智者にも相対することが存在するのは道理である。
そのために、悪事を為す者、不自由を与える者は、その縁によって、悪いことが現れる。
逆に、善いこと、自由を与える者は、その縁によって、善いことが現れる。
これは、道理である。
道理は神とて動かすことはできない。
なぜなら、すべてが道理の下の存在だからである。

これから起こることは、好転作用による膿み出しである。
想像してみてごらん!
希望は常にそう想像した人についてくる。
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施す

2019-04-22 | Weblog
未だという時をはるかに超えて、
経年変化は著しく進境を見せて、神と呼ばれるようになる。
生命エネルギーというのは、動にして静に赴く。
有無相通じるものであるのがエネルギーの法則である。
そのために、
求めよさらば与えられん、
善が正義であり愛情である。
施しということの義である。
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諦めないため

2019-04-21 | Weblog
種の保存、
人は人としてのみ輪廻転生する。
他の生命に生まれ変わることは無い。
しかしながら、もし、人でなしと言われる生き様をしていたなら、
人でないものに生まれ変わる。
人でないのだから、人でないものに生まれ変わる。
それもより下等なものに。
縁起である。
人としてあるべき行為は、道理に由る絶対善の行為である。
故に、人道に背く行為は畜生道に生まれ変わる。
自らにして縁を起こしたためである。これを自業自得というが、
法則の無知からくるもので、法則を諦めないためである。
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エネルギーは自由である、:フリーエネルギー:

2019-04-20 | Weblog
生が死の絶対条件であるのは、死後の世界が生命の
真実の世界であるから。
その真実の世界が幸せとなるように、生命は肉体をもって生命活動をしている。
その生命活動が記憶となり、生命の真実の世界の現象となっていく。
だから、
善い記憶、正しい記憶を作って生きていかなければならない。
もしその反対の記憶を作って生きていけば、生命の真実の世界は地獄となってしまう。
自業自得である。
善くも悪くも自分次第。

自由がエネルギーの性質であるから。
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法則は非常識にある、人間が間違っているだけである

2019-04-19 | Weblog
超越した現象というのはない。
なぜなら、エネルギーの法則を超えてしまうということは存在にならないためである。
超というのはそういうことである。

存在にならないことを考えてみたところで何の意味もない。
たとえば、
死後の世界は、人の経験とならない世界である。
経験にならないということは、死んだ瞬間人ではないものとなるからである。
この世の存在でなくなるためである。
そのために、死後の世界を考え見ても想像でしかなく、想像は架空のことである。
だからもし、その想像が誤っていたとしても、正すことができなくなる。
そのために、釈迦は死後の世界を尋ねられても、一切答えることはしなかった。

死ぬということは、人ではなくなるということであるから。
人が死ぬということは、人でなくなるために、
人ではないものの世界を人が語ることはできないのである。
あくまでも生きている人の想像で語られているだけである。
誰も証明はできないものとなっている。人である限り。
死というものは、そういうことである。
死んで初めてこうであったかと思ったところで、この世に返ることはできないために、
真実を伝えることはできない。これが道理である。
道理はどんな力に於いても変えることはできないのである。

人が眠る時の姿は、死んでいる姿と同じである。
その眠っている時に見るのが夢の世界。
眠っている本人は、その夢が夢の世界であることに気づかずに見ている。
現実の世界と同じように現象しているが、空を飛んでいたり、子供のころに戻っていたり、
或いは、瞬時違ったところへ場面が移っていても、なんら夢とは思わず見ている。
瞬時場面が入れ替わっても不思議と思わないのは、夢の世界には時間空間が無いためである。
記憶の現象世界というのは時空が無いのである。当然記憶の現象世界であるあの世も同じである。
時空は存在しない。
朝になり目覚めたときに、はじめて夢を見ていたと思うが、見ているときは夢とは思わないで見ているのである。
この夢が、脳による記憶の現象映像である。
つまり、記憶がエネルギーだからである。
私達は日々生きている間、いろいろなことを体験して、この体験が記憶のエネルギーとなって、心、つまり魂となっている。
精神であり気である。その気の持ち方が、気持ちとなり心、心根となり根性となっていく。
心は意と言い、意思であり意志となっていく。
この意の世界が、エネルギーの記憶の世界、現象世界、だから、夢の世界は死後の世界と同じである。
あの世は、夢の世界と同じ記憶の現象世界となっているのである。そのために、
悪魔たる記憶を作らず、正しい経験の記憶として生きていきなさいよと先人たちは訓えているのである。

正しい経験が正しい心(記憶)を作り、正しい人生となって死後の世界となっていく。
人は必ず死んでいくのは、生が死の絶対条件であり、つまり、死後の世界を幸せとするための記憶を作るために、
肉体を持って生きていく。肉体が無くなった時(死)、エネルギーである心は、記憶の現象として世界を表す。
これがあの世である。生前の記憶が死後の世界となっていくのである。心はエネルギーであるために、
無くなることが無い。つまり、死が無いのである。それは、エネルギーが円運動の法則となっていて、
無くなることのない運動となっているためである。だから、繰り返す。
一日が終わり明日に繋がっていくように。これが法則であり道理である。自然という。
このありのままを見て、一事が万事として、法則は訓えているのだが、
ありのままを見ていながら、死んだらおしまい、何もかも無くなってしまうと間違って思い込む。
法則は無くならないものである為に、世界も無くならないものとなっている。
ただの一度として、明日が地上に来なかったことがなかったように、これからもそうである。
ただ変化していくだけである。
その無常は常住の中での無常であるのは、エネルギーの法則には変化が無いためである。

最終的に心であるエネルギーは、無常の中に生き、
この変化のない常住なる世界の幸せに生じるために、何度も生まれ変わりをしているものである。





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…故に

2019-04-18 | Weblog
エネルギーの法則は、善悪のない故の絶対善で動いている。
このことを理解できれば、
他に師を仰ぐことも要らなくなる。
周囲の動向に振り回されることもない。
何をして何をしてはならないという判断が自ずと知れてくるのは、
克己心が得られるためである。
よく道理に守られていくために、自然に導かれていくものとなる。
判断の迷いがなくなっていく。これが道理による功徳である。
法則を寄る辺とし、自己を寄る辺とする。
難解ではない。難解になるのはそう思えない自分の心にある。
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経るということに過が付く

2019-04-16 | Weblog
安寧天皇は再び現れることなく、無秩序となっていく。
社会はどんどん荒んでいき、像法から末法、
滅法へと流れている。
時の流れは私達に不穏を示し、大衆迎合にしての意思表示となっている。
差異は個別の違いを平等とせず優劣に分ける。一様にを全くとせずも、
自由を誤解する。
自らに由るものを不自由とする。
人の心を読み解くことは難しくとも、気心は通じ合うものである。
エネルギーは、その回り善悪は無く、ただ回りゆく正義が善である。
この世は経過にあり、あの世は及ばざるにある。
及ばざるは過ぎたるより優れる。
生命はエネルギーであり、無くなることが無い。
ただ回りゆくものであり、回りくるものである。
経過を辿りながら、差異に達する。
平等なる差異に。
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