つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

自浄其意・要である

2012-06-30 | Weblog
税金で食べている人は言う。
「私らだってちゃんと税金は取られているし払っているよ」と。
税金からいただいたお金で税を支払っても、本当は税を払っているとはいえない。
公務として、世のため国のため人のためとするならば、一番酷であって当たり前である。
一番分が悪くて当たり前である。
そのために、徳が積まれて後々、報われるのである。が、
現状、俗世間そうではない。世のため国のため人のためとして働くものが、一番威張っている人となり、
一番裕福な人となっている。国が借金で倒れてしまいそうとしながらも、ろくな舵取りもできないながらも、税収から
多額な報酬として頂き、その身を肥やし、それでいて金が無いとわめく。自身のみは削らずに、他にゆだねる。
金が無いとしながらも、ただ数字だけが一人歩きしていくだけで、
真に首吊り状態にある崖っぷちを思わない。ただ、議論に明け暮れていれば、多額の報酬がもらえていくのだから・・。
矛先をのど下に突きつけられて、初めて青ざめ、ただ事でないことに気が付くほど愚かな、あるいは、有り得ない事としているのだろう、それも、更に自分だけにはと・・。

恵まれた身分にある人は、その恵まれた身分を利用して、世のため人のためとして散財してこそ、
その身分に値する功績となるものであるが、我が身、保身のために二枚舌を巧みに使っていては、
偽善に他ならない。そういう人は、実に哀しい人という。
哀れまれる人である。それは、後々獄に囚われる身となるためである。

この世の中では、好き好きなことが為すことができるものでもある。
偽って生きるもよし、かたくなに生きるもよし、
優柔不断でもよし、道徳に沿うもよし、様々、その人の思いによって為せるものである。
因果応報ということを聞くが、それを軽く見ていてはならない。それは、実に道理であるためである。
努力したからといって、その目先の願いがかなうというものではない。だが、その努力は、
必ずその人の身の為となって現れてくる。いつの日か何かの窮地に助けられるのである。その行った努力によってである。

すぐに努力が報われてくるとは限らないために、愚かにも因果応報を軽く見てしまうのが大衆である。

もっともらしく世のため人のためとして語っても、下心があり、ただ保身のために図るならば、
この世においては何とか騙せても、あの世と未来世とにおいてはそれは通らない。
確実に応報を受ける。
善いことは倍に、悪意に気が付くことが無ければ倍々になって受けてしまう。それが道理、法則である。
法則は絶対であり、絶対には是非は無い。

生きているこの今の一生、好き好きに生きて、自分の為となっているのかを今一度確かめてみたほうがよい。
生きている間だけである改められるのは。
往々にして、人は何のために生まれ生きているのかを、一生を通して知らずに過ぎているものである。
卓越した能力があり、また、身に付けた人達、先人達は言う、「悪いことはするな」と・・・
それは、真実であるためである。その果を知っているからである。
法則にそむいて生きていることは、実に哀れまれる人達である。
その人達は、何にもまして、自身が気が付かなければ、
救われることがないのであるから。 
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時は示すが・・・

2012-06-27 | Weblog
季節はずれ、時にあらずと訝る。
温度差激しく乱れて春から夏へ、
やがて忘れて穏やかな秋が来て、怒涛の冬になる。
邪な念いを抱く者、ことごとくちりぢり、
おののいて終る。
ひとつが終わり、いまひとつが始まる。
そんな馬鹿なと笑止の日々。
彼らは気が付くのが遅すぎた。
震災で死んでいった人たちは、この世の終わりが来たとおもったように。

常に目の前は闇である。
明日はあるが、私にあなたにあるとは限らない。
笑止する者、常に時を間違える。
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どうりでね

2012-06-26 | Weblog
よく道理を知り、道理に従って行動していれば、
心配なこと、つまり、
不安に思うことは無くなっていく。
それは、思議の不要なことだ。
道理を知るということは、自然を知るということだ。
自然という法則を知ることだ。それは、浄化ということである。
自然は浄化の法則となっているからである。
生きとし生けるものの行動は、すべて浄化の行為である。
物事を正しく捉え、正しい浄化の行為としていれば、
正しく報われるものとなっている。
心も体も、そして行為も「きれい」にしてますか?
「きれい」を行っていますか?
裏腹なことをせず、進んで「きれい」を行っていれば、
よく道理に適い、何事も為になる働きとなっていくものです。
そうでないと思うのは、下心があるからです。
素直が分かれば、何事も感謝し、愚痴などでなくなります。
すべてが自分のためのことなのですから、と気が付くために。
悪いことをしてはいけないと教わった。それは、道理だからです。
道理に反すれば、よいはずがありません。それは、必然知る羽目になります。
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もう時期である

2012-06-24 | Weblog
その時期を待って智は現れる。
小さきものを知り、見て、
大いなるものを知り、見る。
その時を得て、智は現れる。
畏怖の念を超えて、
未知を認めた時。

「井の中の蛙」が大海を知らないように、
浅はかなうちにあるものには、思いもよらないことには目を伏せる。
真実を蔽い、不実としてしまう。
噓八百が罷り通り、罷り間違う。
そのために、刹の無いところには智は現れることは無い。
手を合わせ、ひたすら欲を拝めば、迷いが現れて邪念に振り回されるだけであるために。

昨日があり、今日があり、明日があるのを見て知った時に、
時として、智は現れてくる。
求めるものに与えがあるように。
恐怖を希望に変えられた時。
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有る能力

2012-06-23 | Weblog
普通という人には理解しがたい優れた能力を持つ人がいる。
そんな人は、至って何らかのハンディを背負っているのだが、
にも拘らず、特別に優れる。
ごく普通な人が、人としての機能がゼロからの出発だとすれば、
優れる人の人としての機能は、マイナスからの出発が殆んどである。

ある優れた生命体がいて、それは頭脳が著しく進化している。
計算に長けていて、あらゆる時間を把握できる。
にも拘らず、身体は弱体化している。
便利を駆使できるために、頭脳以外は退化しているのである。
あらゆる時間を網羅しているのに、身体の執着を持たないでいる。
諸行無常を身体に覚っているのであろう。

自然は過酷である。
力に対処するものは力強くあり、頑健である。
技に対処するものは知恵に優れ、自力的ではない。
それは、道理には適ってはいない。

優れた生命体は、
あらゆる時間を知りながら、
短命な道を辿る。
優れたものは短命に至るのであるが、それは、身体の無常である。
心という真の生命は不滅であるために、あえてその道を辿る。

特別な能力を持つ人は、道理が導いてくれるために、
智慧がよく働き、まなこがあり、耳があり、心が問答するのである。
瞬時となって答えが知れるのである。
そうして、大衆の目に知ら示すのである。
あなたにもできるのだよ、と。
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不自然

2012-06-21 | Weblog
水道がいきわたっているのは有難いこと。
火が即使えるのは有難いこと。
土が肥えているのは有難いこと。
食に不自由しないことは有難いこと。
灯りがともることは有難いこと。
暑さ寒さを調整できることは有難いこと。
移動手段があることは有難いこと。
等々等、有難いことが有ること、稀なこと。
自然に便利は無くて当たり前。
至極当然。
私たちは、不自然の中で生きている。
便利高じて不便に死すものである。それも、いとも簡単に。
自然を否むな。
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思いよらず

2012-06-20 | Weblog
心が自然と、
「他人にはよいものをあげる」と思う。
「他人によろこんでもらいたい」と思う。
「あの人に労をかけさせずに、自分が労する」と思う。
そのように日々暮らして愚痴は出ない。
本当にそう思う心を有難く思う。
時々、先に自分が良い思いをしたいと思うことには愚痴る。
それを、
生き方の下手な人と思われたが、
そんなふうに生きて、よく都合は味方に付いた。
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まなこある人

2012-06-17 | Weblog
何年何十年と坊主をやっていたからとて偉くは無い。
高僧といえども、見るからに高価な衣をまとい、
偉ぶって見せるのはただのくそ坊主。路傍の石ころと変わらない。
偉くなればなるほど時間を縛ることなく、約束などせず、いらず、路傍の花をみる。
雑草のごとくあるから生きるに長ける。学ぶこと多し。
「実るほど頭をたれる稲穂かな」と同じように、そして、敬われて育む。
実に憂いて、優れているものである質素な僧こそ、
尊敬に値する。学ぶことすべてにである。
「汝は何のために生きるや?」と尋ねられて、
「死ぬために生きる!」と答う。
路傍の花をみる僧は、ダイヤの原石でも見つけたように、目を輝かせた。
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つながる

2012-06-16 | Weblog
そのものが、場合によってはあまりにも危険なものであることを知る。
その上で、そのものをまだ完全に把握できていないとするならば、
そのものを操ってはいけない。
通常の状態で恩恵を与えるものであるが、扱いを誤ったり、不測の事態に陥ったとき、
ひとたび暴れだしてしまえば、どうすることもできないほど野蛮なものである。
多くのものを恐怖という思いを持たせて死滅させてしまう。
それを抑えることのできないでいる時間の中では、決して穏やかなる時の恩恵を受けてはならない。
恩恵を受ければ、その三倍災いも受ける。如何に注意をしていても、その不測の事態を避けることはできない。
裏腹なものであるのがこの世の道理である。どちらか一方だけということはありえないのがこの世である。
まして、暴れだしたときのなだめる力がまだ無いときには尚更である。
一度痛い目にあっていれば、尚更のこと、学習するものであるが、
のどもと過ぎれば熱さ忘れるのも人である。そのために、更なる悲劇が必然となる。
無知を行う自業自得である。知りつつも、今の便利が忘れられなくてと・・・不便が被る。

人は、欲望が果てしなく、楽をすればするほどに高じていく。
便利に慣れれば慣れるほど更に求め、便利は不便になることを愚者は知らない。
便利になればなるほど、人は衰退してしまう。退化していき、心だけが貪欲になる。
情の無い悪の玉となっていく。自己中的思いとなって、結果、自分を害う。不便が高じてしまうのである。
自分の心を制御して、便利過ぎることなくして不便を解消していれば、便利が故の不便が無くなっていく。
自然を見て、楽から得られる快楽は、害を持って現れることを知り、
して、苦しみから感じる喜びは、人を育て、耐え難い苦を避ける。
「足るを知る」を覚える。
親がいるから親に甘えるのではなく、親がいるから甘えないでいる心が、よい甘えとなる。
それでも、ふつつかであるから、甘えているものであるのだから。
親がいるからとして甘えれば、後に耐え難い苦を味わう。親の七光りは、その子に
苦を後々受けさせることとなる。逃れることはありえない。さて、それは忘れたころに!
努力というのがなぜこの世にあるのであろうか、そんなことを知りましょう。
努力の甲斐も無いというのは目先のまなこ、無いことはありえない。

便利は不便となり、不便は便利を作る。
楽は苦となり、苦は楽となる。
始まりは終わりにつながり、終わりは始まりともなる。
後は先であり、先は後でもある。
朝は夜になり、夜は朝につながる。
円である。

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広大智慧観

2012-06-14 | Weblog
人は経験によって知識を得る。
その知識は、他人の経験を学んでいるものではないために忘れることがなく、
即、判断となって答えが出る。その答えは誤りの無いものである。
その知識が智慧である。
智慧は自分の経験によって得られ、その経験は自然から学んだ道理である。
道理を知るということは、是が身に付いたことである。
是を身に備えた人の思いが智慧である。その思いは、絶対正しい思いとなっている。
経験が誤っていればすべての誤りとなり、善悪が転倒となってしまう。
自然はあらゆるものが変化していく。その変化は浄化である。浄化であるために
ゼロに帰す。善も悪も無い故に善である。あらゆるものが浄化されていく。それが是である。
日が正しい、日の廻りが正しい、日の運行が正しいとして是とし、法となっている。
その法の備わった思いが智慧であり、智慧の判断に誤りは無い。法の判断ゆえに。
そのために、是、法の備わった人の思いは、経験しないことでも正しく判断できていく。
道理ゆえに。
それを広大智慧観という。
それゆえに、是、法の備わった人の思いは、善悪を正しく判断できていく。
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