唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

『阿毘達磨倶舎論』に学ぶ。第五節・分別根品第二 (3)

2013-12-01 17:30:06 | 『阿毘達磨倶舎論』

 一切の現象は自己を離れては存在しない。自己とは存在内存在であり、くしゃみすると地球の裏側で風邪をひくようなものである、その逆もいえようか。

 太田久紀師は「唯識というのはうっかりすると、心理学であったり、哲学であったりという理屈のような印象を受けやすいところがありますので、唯識というのはそうではない、私達が毎日の生活の中で、それを頂いていう仏教だということ、・・・」と教えておられます。

 思索を通して、外界から教えられることを、身を通して頷いていくことが、内観の道である仏陀の教えではないでしょうか。

 先日の坊主バーでの法話タイムで、「震災のこと、原発のことを心配はするけれども、本当はそれに対し痛みも、苦しみも感じない自分がいる。申し訳のないことである」と話されていましたが、他のことに対しては利害において痛みや悦びを感じはするけれども、利害のないことに関しては痛みも喜びも感じない自分がいます。仏教は、すべては自分と関わっているんだよ、と教えてくれます。何故なら、外界は自己の心の投影だからです。ですから、無関係と思い量ることに於て、慚愧心を頂くのでしょう。震災ボランテイア活動や各種のボランテイア活動そして終末医療に関わる時、関わった時を通して慚愧心を頂いていくことが、自己の心の投影である外界と自己が本質に於て頷き遇えるのではないでしょうか。

久しぶりの更新です。二十二根の第五頌に学びます。

 前回では、根の意義は、「増上」であることを述べました。

 第一頌に「五は四に於てし、四根は二種に於てし、五と八とは染と浄との中に、各別に増上となす。」と説かれていました。

 二十二根は、六内根と男女二根と命根・憂・喜・苦・楽・捨の五受根、信・勤・念・定・慧の五作根と未知当知・已知・具知の三無漏根をいいます。

 「五は四に於てし」 - 眼等の五根は四事(身を荘厳する。身を導養する。識等を生ず。不共事を為す。)に於て増上である。

 「四根は二種に於てし」 - 男女二根と命根と意根は、有情異・分別異において増上である。

 「五と八とは染と浄に於てし」 - 五受根と信等の五作根・未知当知等の無漏根は、雑染と清浄との中に於て増上である。

 部派仏教においても、無我を顕わしていますが、まさに、二十二根が相応して一切の識別が生起することを述べています。五蘊仮和合は、部派に於いてはこのように説明されているのです。

 今日は、根を立てる六つの理由を示しています。

 「心所依此別 此住此雑染 此資糧此淨 由此量立根」

 (「心の所依と此が別と、此が住と此が雑染と、此が資糧と此が淨と、此の量に由って根を立つ」)

 「此」は有情のこと。「此が別」とは、男・女の別をあらわす。

 (1) 心の所依として眼等の六根を立て、これが流転の依り所となる。
 (2) 有情の男女の区別を男女二根に依って定め、そこから六根が生ずる。
 (3) 有情が一生涯を尽くすには命根に依る、命根は六根を維持し。
 (4) 有情が雑染を受用するのは五受根に依る。五受根は境を受用せしめる。
 (5) 有情に清浄の資糧となるのは信等の五根に依る。還滅の依り所となる。
 (6) 有情に無漏及び涅槃の清浄を成ずるのは三無漏根に依る。即ち、未知当知根は還滅を生ぜしめ、已知根は還滅を維持し、具知根は還滅を受用せしめる。

 以上の理由から、根を立てるのである。従って無明等を根とするわけにはいかないのだ、と。


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