唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 善の心所  第三・諸門分別 (26)

2013-12-03 23:11:40 | 心の構造について

 なんだかんだ亭だよりより

「護法の唯識ですと、「虚妄分別」として存在はあると。そこで「大悲」ということが出てくるのです。そして、やがてそれが『浄土論』には、大悲心とは平等心であると出てくる訳です。
そういうことがありまして、これはただ単に何でも平等に見えるということではなく、「悲」ということが出てくるのは、逆に言いますと、「辺」に執われる。また「中」に執われるものとしてしか存在はないということです。
               
          
高柳正裕述 預流の会『解深密経』講義より

 

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 失念と散乱と不正知を翻じた不失念と不散乱と正知が十一の善の心所に入れない理由を述べる。

 「失念と散乱と不正知とをば、翻じて別境に入れたるを以て、善の中には説かず。」(『論』第六・九左)

 失念は、癡の分、及び別境の念の一分。失念の体は念と癡であり、善の心所である正念を妨げ、心を散乱せしめる働きがある。これは、念が癡の影響を受け、染汚されて失念となっているということになります。癡が翻じて無癡になれば、失念は翻じて不失念となる。念は別境の心所であり、別境は三性にわたるので、失念を翻じた不失念は、善の心所に入れず、別境の善のものに含められるのである、と。

 不正知は、別境の慧と癡の一分を体とする。不正知を翻じた正知の体は正慧である。散乱も同様である。

 「論。失念散亂至善中不説 述曰。失念・散亂・不正知等。雖有癡分及別境分性相相翻。翻入別境善少分故。善中不説。餘慢等七・忿等九如前。」(『述記』第六本下・三十五左。大正43・441a)

 「述して曰く。失念と散亂と不正知との等は、癡の分及び別境の分有りと雖も、性相相い翻じ別境の善の少分に入る、故に善の中に説かず。余の慢等の七、忿等の九とは前の如し。」

 


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