唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

『阿毘達磨倶舎論』に学ぶ。 本頌 (29)  第一章第四節

2013-06-16 09:50:46 | 『阿毘達磨倶舎論』

 今日・明日は、池田市住吉の順正寺(橋川 興住職)さんで、公開講義と一泊研修会が開かれます。講題は「自分自身の存在意義」(- 今の自分を引き受けるとは -)です。今からでかけます。

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 『倶舎論』 分別界品第一 第四十四頌

 「随根変識異 故眼等名依 彼及不共因 故随根説識」

 (「根変に随って識異る、故に眼等を依と名く。彼と及び不共因との故に、根に随って識を説く。」)

 識の依りどころは、境ではなく、根であること。識をその根の名で呼び、その境の名では呼ばない、ことを説明しています。根を所依とするということの理由を明らかにしているのです。

 根に変化が起こる(五根が衰えて変化すること)と識にも変化が起こる。しかし、色等の境が変化を起こしても、(能縁の)識に変化は現れない、よって、識は根に随って、眼等の根を所依と名ける。

 ① その所依に随って眼識等という。

 ② 不共因に依る。眼等の根は他と共通ではない因を共にしない、眼根は眼識の所依であり、耳根は耳識の所依である等々。

 この『倶舎論』の説明は、後に唯識にも引き継がれ、「三十頌」第三能変に於いて、随根得名・随境得名の理由が示され、共相・不共相を以て、識の所依は根であることから、随根得名を以て眼識乃至意識と名けると述べています。尚、詳細については2012年8月8日のブログを参考にしてください。少し転載します。

 「六識の名は互に特徴を示し、その長ずるところを以て互に混乱することはないのである、と。そして随境得名は未自在位のみに限るといわれています。

 「六識というものを立てるについて、識というものは所依の根と所縁の境とをもったものであるが、その点から六識は一面は根により、一面は境によるから、六識の名は根による場合と、境による場合の二つが可能である。眼識乃至意識は根により、色識乃至法識は境による。根による場合に五義を具するということを理由にあげた。根は、増上なる作用である。眼根は見ること、意根は思量することである。そういう作用が六識というものを起こすのに増上なる力をもつ。五義を具することで増上なる力をあらわす。眼識というのは眼に依る識である。「依る」という中に、総じては「依る」であるが、その依ることの中に、発・属・助・如という義がある。これらの五義ということによって増上なる機能をあらわす。そういうところから根によって名を立てる。

 その次に境によって名を立てるという。六識の名を立てるについては、随根立名と随境立名ということがあって、五義を具するのは随根立名である。五義を具することによって根の意義を明らかにする。全く六識は六根によって起こされたものであるから、六根と一つである。ところが、境によって名を立てる方は、「識の義に順ずるが故に」といわれる。そうすると実はこの方がむしろ、識の独自の意義をあらわしていると考えられる。識は了別である。了別が作用であり、識自体をあらわしている。了別作用が識作用である。境によって名を立てるのは、識の識たる所以をあらわす。識そのものの本質的な意義をあらわしている。根は識の前提である。根によって了別するというが、根はむしろ識の前提であり、識そのものは境の了別作用である。根を前提とする識そのものの識たる所以をあらわすのは、むしろ境である。了別が識法といわれるものの法相である。識の了別という意義を、境において立てられた名はあらわすわけである。」(『安田理深選集』第三巻p234~235)


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