唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変  受倶門 (26) 三受について 第四門

2013-01-07 22:29:20 | 心の構造について

 「論。寧知彼文唯説客受 述曰。三更徴有三。一乘前徴。二別生徴。三擧例徴。下初也。後師返問。所説捨受現定不成。汝依何道理知是瑜客受 前師云。五十一説地獄全・一分鬼・畜名一向苦。不苦樂受爲純苦。映奪略而不論。是故知者 論。應不説彼至有時無故 述曰。汝以受依容受爲論。亦約容受所依識故。如彼六識有時無故不成意根。其六轉識生・死・悶絶諸位不行 若彼救言意依主意。受依容)(客)説。」(『述記』第五末・九十左。大正43・425c)

 (「述して曰く。三に更に徴するに三有り。一に前に乗じて徴す、二に別して徴を生じ、三に例を挙げて徴す。下は初めなり。後師返って問うなり。所説の捨受は現定して不成ならば、汝何の道理に依って是れ客受なりと云うことを知るや。前師云く、五十一に地獄の全と一分の鬼畜とを説いて、一向苦と名づけて、不苦楽受は純苦の為に映奪するを以て、略して論ぜず。是の故に知ると。)

 護法の問いに対し、安慧の答が想定されて論じられています。
 護法は「汝」(安慧)は、どうして、地獄などで成立しない「余の三」の文に捨受が入るということが知られるのか、それは、捨受が地獄では成立しないとどうしてわかるのであろうか、と問を立てています。それに対し(安慧の反論は次のようなことであろう)
 『瑜伽論』巻第五十一に、地獄のすべてと、鬼(餓鬼)・畜(畜生)の一部を一向苦という。不苦楽受(捨受)は、ただ苦しみしかない純苦のために、(苦受の為に)隠され紛れてしまうので、略されて論じられていないのであり、このような理由によって、地獄には捨受は成立しないのである、と。

 (「述して曰く。汝、受を客受に依って論を為すを以て、亦、客受の所依の識に約すというが故に。彼が如くんば、六識も有る時に無きが故に、意根を成ぜず。其の六転識は生と死と悶絶との諸位には行ぜず、
 若し彼れ救して意は主の意に依り客に依って説くと言はば、」)

 「彼が如くんば」、安慧の所論であるならば、客の受の依り所となる六識は「地獄の全と鬼畜の一分」では存在しないことが有るという。そうすると、前滅の識である意根も存在しないことになる。「意識は常に現起す」といわれているが、悶絶等、五位無心の時は間断する、要するに第六意識はこの時には断絶するのであるから、第六意識の根拠である意根も存在しないことになり、六識そのものが存在しないことになる。「客の受に依って」所論を立てる安慧の主張も、存在しない六識に客の受を立てることはできず、客の受そのものが存在しないことになる。 
 ただ、安慧は意根は前滅の意で述べているのではなく、主(阿頼耶識)の意に依って、客の受を説いているのであるから、護法の指摘のような過失は無いのである、と。

 第一師の反論は「主の意に依っていい、受は客に依って説く」(意根は阿頼耶識に依り、受は客に依って説いているのである。)というものですが、それは有りえないと護法はいいます。

 「彼の論には唯客の受のみを説き、通じて意根を説けりとはいうべからず。異の因無きが故に」(『論』第五・二十四右)

 (彼の論(『瑜伽論』巻第五十七)には、ただ客の受(六識の捨受)のみを説いて、通じて意根を説いているとはいっていない。異なった理由(所以)がないからである。)

 論。不應彼論至無異因故 述曰。不應瑜伽受中唯説*容受。意中通説主識。主識即第八。以第八識必受倶故。無異所以別作論故。」(『述記』第五末・九十一左。大正43・425c) 

(「述して曰く。『瑜伽』に受の中には唯客受のみを説けり、意の中には通じて主の識をも説くというべからず。主の識というは第八なり。第八識も必ず捨受と倶なるをもっての故に、異の所以として別に論を作すこと無きが故に。『述記』)

 護法は安慧の説の矛盾をついているのです。それは六識に約して説いているにもかかわらず、意根は、主の意に依って説くというのであれば、矛盾している。即ち八識に約した解釈で認めてしまっていることになるではないか。そうであれば、主の識は必ず捨受と倶に存在するから、地獄にも捨受が存在することになり、安慧がいう地獄に捨受が存在しないという説は成立しないではないか、ということになります。「異因」という意味は、根拠を異ならせる二重基準を用いて主張を展開していることを指します。矛盾した根拠のことです。矛盾した根拠を以って自説を展開している安慧の所論は破綻している証拠になるというのが、護法の論破です。

 さらに護法が安慧の釈明を論破します。  (つづく)

 


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